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就職難で「自衛隊に入ろう」と考えていた…稲盛和夫が44年間で悟った「成功するために必要なたった一つのこと」

プレジデントオンライン / 2024年11月18日 8時15分

稲盛和夫 京都セラミック社長、インタビュー、1977(昭和52)年6月3日撮影 - 写真提供=共同通信社

成功のカギは何か。京セラ創業者の稲盛和夫さんは生前、「一気に目的地に到達できるような便利な方法はない」と語っていた。稲盛さんの講話を集めた稲盛ライブラリー編『「迷わない心」のつくり方』(サンマーク出版)より、京セラの新入社員歓迎コンパでのスピーチの一部を紹介する――。

■「稲盛和夫だからできた」のではない

みなさん、ご入社おめでとうございます。

新入社員のみなさんは、ビデオによる講義しか受けておられないと思いますので、直接お話しできるこの機会に一言だけ大事なことを申し上げておきます。

京セラは伊藤謙介社長などと一緒につくりました会社で、今年で創立40年になります。

編集部註※1999年3月29日当時

みなさんからは、京セラはたいへん発展している会社だと見えると思います。また私自身についても、「名誉会長は立派な仕事をされて、たいへん偉くなられた」と、みなさんからは見えると思います。

ですがそれは、今日入られた新入社員のみなさんの、誰もがやれることなのです。

そのことについてお話をしてみます。

■かつては「今にもつぶれそうな中小零細企業」だった

伊藤社長も含めて、私どもが会社をつくった当時は中小零細企業で、今にもつぶれそうな会社でした。立派な技術を持っていたわけではありません。少しばかりの技術しかなくて、その技術でもって会社が始まったわけですが、ただ一つの成功要因がありました。

私もみなさんと同じように大学を出ておりますが、私は応用化学科の出身でして、ファインセラミックスの技術に特に造詣が深かったわけではありません。有機化学を専攻し、無機化学であるセラミックスについては、あまり勉強していませんでした。会社に入ることになって、急遽卒論執筆のため勉強したくらいですから、学校で学ぶような基礎的なレベルさえ、さほど深く勉強したわけではないのです。

その私が4年ほどサラリーマンとして会社に勤めてセラミックスの研究を行っていました。そしてその後、京セラという会社を創業しました。

大学を出てから今日まで44年になりますが、私は、今日ここにおられる新入社員のみなさんと同じような、どこにでもいるような男だったわけです。

■「地味な一歩一歩の積み上げ」を44年間続けてきた

その私が44年間、ただ一つのことについて、誰にも負けない努力を44年間続けたから、現在の私がいるのです。もともと偉かったからではありません。

人生とはたいへん不思議なものです。「継続は力なり」と言っても、誰も信じません。

けれども、普通の人が「こんなバカげたことを毎日やっておったのでは、私の人生はダメになるのではなかろうか」と思うようなこと、そのような毎日の地味な仕事を44年間続けた結果が、今日の京セラをつくったのです。

一日一日の努力というものは、大して大きな成果に結びつくような努力ではないかもしれません。しかし、その努力が44年間分、集積したものはたいへん立派な成果につながるのです。

つまり、どんな偉大なことも地味な一歩一歩の積み上げでしかないのです。ジェット機のように目的地まで一気に到達できるような、そういう便利なものは人生にはありません。

■便利に手に入れた「成功」は長続きしない

もちろん、大きな宝クジに当たるなど、たいへんな幸運に恵まれてうまくいくケースはあります。ジェット機に乗ったかのような人生もあるのかもしれません。

しかしそれは、決して長続きするものではありません。一時的には成功するかもしれませんが、必ず没落していきます。人生というものは、この五体でもって一歩一歩、地味に歩んでいく以外にはないのです。

問題は、44年間という非常に長い期間をかけて、それを一心不乱にやれるかやれないかということです。そこで差がつくのです。

伊藤社長は、私が前にいた会社に、私の研究助手として入ってきました。それからずっと、私はたいへんな苦労を伊藤社長にさせましたけれども、伊藤社長はめげずに努力してきました。途中で逃げ出そうとしたことも1回か2回はありますが、それでもがんばってがんばって、本当にがんばってこられて、今日の伊藤社長があるわけです。

■新卒で入社したのは赤字続きのボロ会社だった

私の場合もそうです。私は昭和30年、大学を出て会社に入りました。終戦から10年しか経っていませんので、まだ日本の国は騒然としていました。

その中で、入った会社は終戦から10年間ずっと赤字続きで、銀行管理になっており、給料日になっても給料は払われません。1週間待ってくれ、10日待ってくれと、給料を遅配するような会社でした。

給与明細の一部
写真=iStock.com/Yusuke Ide
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yusuke Ide

そんな会社ですから、5人の大卒が採用されたのですが、入社した瞬間から会社に対するロイヤリティはなくて、採用された5人みんなで「辞めよう、辞めよう」と言っていました。入った日から、5人が集まると、「辞めよう、辞めよう」と言い合っていたわけです。

一人辞め、二人辞め、結局最後に残ったのは私と京都大学を出た者、ともに九州出身の男二人だけになりました。

■自衛隊の幹部候補生学校を受験した

当時はたいへんな就職難です。どこにも就職できない中を、やっとその会社に採用してもらったのですから、辞めようと思っても行くところはないわけです。それなのに、その二人は、寄ると触ると「こんなボロ会社にいつまでもおってもなあ。早う辞めよう」と言っていました。

その頃、ちょうど、自衛隊の幹部候補生学校入学の募集がありました。

私どもの学生時代は就職難でしたから、成績があまりよくなく、民間企業に就職できない人は、みんな自衛隊の幹部候補生学校に行っていました。

私たちは二人して、「その連中と1年遅れになるが、こうなったら幹部候補生学校にでも行こう。こんなボロ会社におるよりはよい」と話し合って、幹部候補生学校を受験しました。

二人とも合格しましたが、友達のみが幹部候補生学校に行きました。私は入学手続きをする際に、田舎から戸籍謄本を送ってもらえなかったために行けなかったのです。結局、私一人だけが取り残されました。

■逃げ場がないから、がんばるしかなかった

考えてみてください。ボロ会社に入って、「辞めたい、辞めたい」と思っていたのに、5人いた新入社員の中で私だけが取り残されたのです。たいへん惨めな思いです。

しかし、今までみたいにブツブツと文句を言っていてもしようがありませんから、そういう不平を鳴らしているよりはと思って、私は研究に没頭し始めました。どこにも逃げていくところがなかったために、苦し紛れに研究に没頭せざるを得なかったわけです。

ところが研究に没頭し始めますと、幸運なことによい研究ができるようになっていきました。よい結果も出てくるようになり、先輩を抜いて、会社の幹部の人たちから「稲盛君はなかなかすばらしい研究をするではないか」と褒められるようになっていきました。褒められますと、ボロ会社といえども気持ちが弾んできますから、さらにがんばります。がんばりますから、さらによい結果が出ます。そういう好循環を生み出していったわけです。

その延長線上の44年間なのです。もちろんその間、何回もあきらめようと思いました。

うまくいき始めてからも、もうやめたいと思ったことはたくさんありました。しかしそれでも44年間がんばったことが、今日の私をつくったのです。

■創業当初「優秀な人材」はなかなか入ってこなかった

「継続は力なり」といいます。続けることが、人生において、これほどすばらしい結果を生み出すのです。続けられないから人生がうまくいかないのであって、どんなに苦労の伴うことであろうと、それを続けることに価値があるのです。

私、その44年間の努力を顧みて思うのです。

こうして新入社員の方が入ってこられます。気の利いた子、頭のよい子、ちょっと鈍な子、気の利かない子、いろんな子が入ってきます。

まだ京セラが創業間もない頃は、優秀な人はなかなか入ってきませんでした。ですから、たまに優秀な学生が入ってくると「気が利いていて、頭がよさそうやな、こいつは。何かを聞いてもすぐに答えられるし、我々よりも頭がええんやないか。こういう奴がうちの会社の将来を背負ってくれるんじゃないか」と思って大事にしようとするわけです。

その一方で、「どうも鈍で、気が利かんし、何かを聞いてもパッとした返事もしない。頭が悪いんとちゃうかな。こんな子はうちの会社におっても邪魔になるんじゃないか」と思ってしまう子もいるわけです。

■「辞めてくれていいのに」と思うこともあったが…

ところが気の利いた子は、利発なものですから、利発な分だけ仕事にすぐ飽きて面白くなくなってしまい、不満を漏らすようになります。そして3年、4年経つうちに「辞めたい」と言うようになって、「自分は頭もよいし、もっとよさそうな世間の会社に雇ってもらおう」と考えて辞めていくのです。

「頭がよくて気が利いて、あんな子が残ってくれなきゃ困る」と思っていた人に限って辞めていき、「こいつは鈍で、あんまりパッとせんな」と思う人がいつまでもがんばっているわけです。

「こんな奴は辞めてくれて、あの気の利いた奴が残ってくれればいいのになあ」と思うこともありました。

ところが、私は間違えていたのです。残っている鈍そうに見える人が、実はすばらしい仕事をし、すばらしい京セラをつくり上げてくれたのです。

■継続は「鈍な人」を「非凡な人」に変える

少し鈍に見える人は、いつまでも鈍ではありません。つまり、継続するということで、愚鈍な人が名人、達人に変わっていくのです。

継続は鈍な人を非凡な人に変えるのです。

稲盛和夫『「迷わない心」のつくり方』(サンマーク出版)
稲盛和夫『「迷わない心」のつくり方』(サンマーク出版)

一生涯を通じて一つの仕事に精通し、打ち込むことで、名人、達人と呼ぶべき人になったのです。子どもの頃から頭がよくても、元から名人、達人といわれるような人は一人もいません。長期にわたる努力が必要なのです。鈍な人のほうが、地味な仕事を一生涯を通じて、不平不満を漏らさずに努力することができるのかもしれません。

ですから、私はみなさんに、どんなことがあっても辛抱して努力をするべきであると申し上げたいのです。そうすれば、運命というものはすばらしく好転していきます。

世の中で名人、達人といわれる人、また非凡な人だといわれる人は、みんなそういう努力をしてきた人です。エジソンのように偉人と呼ばれた人はみんな、人には語れない苦労を続けてきた人ばかりなのです。

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稲盛 和夫(いなもり・かずお)
京セラ名誉会長
京セラ名誉会長、KDDI最高顧問、日本航空名誉顧問。1932年、鹿児島県生まれ。鹿児島大学工学部卒業。59年、京都セラミック株式会社(現京セラ)を設立。社長、会長を経て、97年より名誉会長。 84年に第二電電(現KDDI)を設立し、会長に就任。2001年より最高顧問。10年には日本航空会長に就任。代表取締役会長、名誉会長を経て、15年より名誉顧問。1984年には稲盛財団を設立し、「京都賞」を創設。2022年8月逝去。

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(京セラ名誉会長 稲盛 和夫)

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