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「諭吉が泣いている」ではなく「諭吉が泣かせた」事件をご存じか…慶應の祖福沢諭吉が青年期に起こした全裸騒動

プレジデントオンライン / 2024年11月11日 8時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fatido

人間は一面では語れない。それは経営者も同じだ。慶應義塾の創設者、福沢諭吉は品行方正のイメージが強いが、やんちゃな一面を持ち合わせていた。ライターの栗下直也さんは「生前から誤解されることの多い人だった。特に彼の経済的自由主義思想に関する本意は今も伝わっていない」という――。

■水力発電を推進したのは慶應大卒の実業家

「脱炭素」の切り札として再生可能エネルギーに期待が集まって久しいが、太陽光や風力発電は発電量が天候などの自然条件に左右されることが大きな課題になっている。そうした中で開発が進むのが水力発電だ。

水力発電の歴史は新しいようで古い。今からちょうど100年前の1924年に日本初のダム式発電所(大井発電所)が完成している。このプロジェクトを推進させたのが、明治、大正から昭和初期に活躍した実業家の福沢桃介だ。彼はいくつもの電力会社の立ち上げや経営に参画し、水力発電の必要性を説き続けた。

福沢桃介
福沢桃介(画像=国立国会図書館 近代日本人の肖像)

そう聞くと、「電力への熱い思いを胸に抱き、事業を起こした」と思われるかもしれないが、桃介にはそのような気持ちは皆無だった。彼は商社や紡績、鉄道、鉱山などいろいろな業種に手を出していて、電力はそのひとつにすぎない。

そのようなことが可能だったのは、彼が相場で巨額の富を得ていたからだ。日露戦争後の1905年頃までの10年あまりで元手の1000円を300万円ほどにまで増やしていた。これは今の貨幣価値に換算すると約35億円に相当する。水力発電にのめり込むきっかけとなった名古屋電燈への出資も配当が良かったからにすぎない。

■福沢諭吉と娘婿の意外な関係

相場の才覚は明らかだったが、本人は日露戦争後の大暴落を切り抜けたあたりで相場を手じまいして実業界に本格転身を図った。

「事業のみが人間の生命を永久に伝え」ると考えたが、「金持ちになって金持ちを倒してやろうと実業界に発心した」とも語っているように特に何かを成し遂げたかったわけではなかった。

ただ、「人を酷使したくない」「生き物の殺生は避けたい」と消去法で事業を絞っていったら、残ったのが電力事業だった。

「金持ちの道楽っぽいな……」と非難したい人もいるだろう。桃介は名前からもわかるように、あの福沢諭吉の息子なのだ。といっても、桃介は実子ではなく、婿養子であり、「やっぱり、ボンボンじゃねーか」の一言では片づけられない人生を送っている。

生まれは今の埼玉県の農家で貧しかった。神童と呼ばれた小学生時代のあだ名は「1億」。下駄も買えず、裸足で通学していて、友達に笑われるたびに「大きくなったら1億円の大金持ちになる」と口癖のように答えていたからだ。

■「慶應義塾の奴は敵」

実家は困窮していたが、その才能を惜しんだ人の紹介で、慶應義塾に入る。運動会でさっそうと駆け回る姿が諭吉の妻の目に留まり、1886年に諭吉の養子になった。養子縁組の条件だった米国留学後に諭吉の次女と結婚し、北海道炭礦に入社する。もちろん、諭吉のコネ入社で周囲からは月給泥棒とも呼ばれた。

慶應義塾大学旧図書館(重要文化財)
慶應義塾大学旧図書館(重要文化財)(写真=Kakidai/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

順風満帆の人生が狂うのは会社に入った6年後の1894年。血を吐き、結核治療のため退社する。養子の身としては面倒を見てくれとはいえない。そこで、手を出したのが株だった。その後も起業したり、勤めたり、働きながらも、投資を続け、巨額の資産を築いたのは前述のとおりだ。

桃介が金に執着したのにはワケがある。商社を立ち上げ、三井銀行が荷為替を引き受けてくれることになっていたが、取引先が興信所に桃介を照会したところ「信用絶無」と回答がきた。

取引先は前貸しを拒否し、三井銀行も荷為替の内約を取り消してしまう。桃介が頭に来たのは興信所の担当者も三井銀行の担当者どころかトップも慶應閥であり、かつ三井銀行のトップは親戚だった。

慶應閥だったがために学生時代の桃介の悪評が広まり、取引をストップしたのだ。当然、経営は成り立たなくなり、会社をたたむことになった。そのとき、桃介は2つ、大きな決意をする。「もう、人の金では商売しない」「慶應義塾の奴は敵」。

そう決めて、自分で稼ぎ、事業資金にしたのはすごい。とはいえ、「あの福沢諭吉の息子が相場師なんて……」と驚かれるだろう。

■福沢諭吉の全裸事件

桃介は「日本の電力王」と評価される一方、「不品行」「山師」「相場師」などマイナスの評価も多い。実際、諭吉も「桃介が相場師になってしまった」と嘆いていたが、桃介は、ある意味、諭吉の主張を体現したともいえる。自由になるために金の重要性を説いた第一人者が諭吉だった。

福沢諭吉と聞くと品行方正のイメージが強く、慶應義塾大学の学生が破廉恥な行為で話題になると「諭吉が泣いている」とネットには書き込まれるが、諭吉もそこまで清廉潔白ではなかった。今ならば「やんちゃ」と括られてもおかしくない一面を持ち合わせていた。

諭吉は1835年、豊前国中津藩(現大分県中津市)に5人兄弟の末子として生まれる。19歳で長崎に遊学、翌年には医師緒方洪庵(こうあん)が開く大坂の適塾で蘭学を学んだ。

適塾正面(日本国指定の重要文化財)
適塾正面(日本国指定の重要文化財)(写真=Reggaeman/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons)

その塾生時代の話だ。夕方に酒を飲んで2階で寝ていた諭吉を「福沢さん、福沢さん」と階下から呼ぶ声がした。寝たばかりの諭吉としては、ご機嫌斜めだが、呼ばれたら起きざるを得ない。

「うるさい下女だ! ふざけやがって」と真っ裸ではしご階段を飛び降り、「何のようだ」と裸で通せんぼしてみたら、そこにいたのは下女ではなく洪庵の妻。

全裸でお辞儀もできずにまごついていたところ、洪庵の妻は何も言わずに奥の方に引っ込んでしまった。翌日も「全裸でブチ切れて、ごめんなさい」とは言えずに結局死ぬまで、わびることはなかったと悔いている。

■「諭吉が泣いている」ではなく…

そもそも、福沢は洪庵の妻に全裸で突撃する前に仲間たちとも全裸事件を起こしている。

酒が入ったので仲間たちと物干しの上で飲もうと思ったところ、先客の娘たちが涼んでいた。邪魔な娘らを蹴散らそうと仲間のひとりが、全裸で乱入したため、娘たちはパニックになり退散。もくろみ通りに場所を奪い取り愉快に酒を飲んだと振り返っている。

本人も仲間も、どれだけ全裸好きなのだろうか。当時は若気の至りですんだだろうが、現代ならばSNSで血祭りに上げられるのは間違いない。「諭吉が泣いている」のではなく、諭吉とその仲間たちに泣かされた人も少なくないだろう。

もちろん、人間にはいろいろな面がある。これは諭吉のB面だ。諭吉の学問への姿勢や識見などの功績、A面は揺るぎようがない。緒方洪庵のもとで、蘭学を学んだ後、幕府に仕え、明治維新後は民間人として教育、言論に力をそそいだ。

諭吉は「独立自尊」を思想の根底においた。これはざっくりいうと、他人は他人、自分は自分ということだ。世間的な価値基準にまどわされず、自分の価値基準を堅持しなければいけない。組織や共同体の価値観を超えた理性で判断することの重要性を説いた。

■なぜ福沢はカネにこだわったのか

ただ、そうしたA面の仕事も正確に伝わっているとはいえない。誤解されることも多かった。諭吉は生前、必ずしも評判がよくなかった。

文明社会でしがらみに縛られず、自立して生きるにはお金は必要不可欠だと説いたことで、「三田の拝金宗」「拝金宗の本尊」などとも批判された。「文明男子の目的は銭にあり」など過激な表現をあえて使うことで啓発したため、本意が理解されず、金にうるさいやつだと思われたのだ。

諭吉の思想は徹底した反封建思想だった。

江戸時代の封建制度下では金銭は蔑視されていたが、金銭は元来、自由で平等だ。だからこそ、支配階級の武士は金の力を抑えつけた。金銭を軽蔑する儒教を振興させた。

ただ、明治になり開国し、欧米に派遣された者たちは金融制度の整備の重要性を知った。政府に召し抱えられず、民間でその役割を担ったのが幕末に海外に渡った渋沢栄一であり、諭吉だった。渋沢は実業で、諭吉は教育と言論で資本主義の基礎を日本に根付かせようとした。

だからこそ、諭吉は封建制度を徹底的に批判した。ときに露悪的に振る舞った。自伝では「門閥制度は親の仇でござる」とまで書き、士族のふるまいを徹底的にこきおろしている。

■父と息子は一枚の着物である

もちろん、金をひたすら追求せよとは諭吉はいっていない。金は自由になるためには重要であり、それ自体を目的にするものではない。「経済に大切なるものは、知恵と倹約と正直」と書いていて、そこには「拝金」の色はない。それは桃介が紆余曲折はあったものの、事業こその人の使命という考えに至ったことと重なる。

桃介と親しかった大西理平(『福沢桃介翁伝』の編者)は諭吉(先生)と桃介は「非常に懸隔あるも、実質は一枚の着物である。ただ先生は表を着、桃介氏は裏返しを着たまでである」と評している。

諭吉には4人の息子がいて、本来ならば婿養子はいらない。諭吉にも桃介が同じ着物を着ていることが見えていたのかもしれない。

参考文献
大西理平『福澤桃介翁傳』福澤桃介翁傳記編纂所
福沢桃介『福沢桃介式 比類なき大企業家のメッセージ』パンローリング
福沢桃介『桃介は斯くの如し』星文館
福沢諭吉『福翁自伝』講談社

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栗下 直也(くりした・なおや)
ライター
1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。

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(ライター 栗下 直也)

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