妻の倫子、天皇の后・彰子、そして…NHK大河では描かれない藤原道長が死後を託した意外な女性皇族の名前
プレジデントオンライン / 2024年11月17日 9時15分
※本稿は、榎村寛之『女たちの平安後期』(中公新書)の一部を再編集したものです。
■孫娘に対する道長の態度の変化
藤原妍子が三条天皇の後宮に入り、長和2年(1013)に禎子内親王を産んだ。男の子でなかったので祖父の道長は喜ばなかったとされるが、やがて状況は変わってくる。
禎子は生まれてすぐに内親王宣下を受けた。2年後の長和4年に着袴(袴を穿く儀式、赤子から子供になることを祝い、普通は五歳くらいでおこなう)して三宮(太皇太后・皇太后・皇后)に準ずる待遇を受ける。
長和5年に父天皇が譲位し、翌年には亡くなるのだが、彼女は治安3年(1023)に裳着(女子が初めて裳を付ける儀式)、つまり成人式をおこない、一品、つまり皇族として最高位が与えられた。11歳にして皇族最高位、太皇太后彰子に引けを取らない立場になったのである。
その彰子は、彼女の裳の帯を結ぶ役目、腰結(男の子の加冠と同様に、後見人を意味する)を務めている。禎子内親王は皇族だが明らかに摂関家を挙げてバックアップされた姫君だった。
■禎子内親王とその姉たちとの格差
彼女の昇進の早さは三条天皇の長女で、伊勢斎王を務めた異母姉の当子内親王と比べるとよくわかる。
当子は長保3年(1001)の生まれで、三条天皇の即位までは皇太子の娘だったので女王だった。内親王になったのは父天皇の即位に合わせて寛弘8年(1011)、12歳のときである。そして翌年に斎王となるが、このときにはまだ無品(位のない皇族)で、裳着も済ませていなかった。
そしてどうやらそのまま、つまり成人式を後回しにして天皇の名代として、伊勢斎宮への一世一代の大規模な旅(群行)をおこなうことになったらしい。
もともと彼女は何かと父天皇をサポートしようとしていた。
野宮(伊勢に来る前の1年間、斎王が潔斎する京外の仮の宮殿)からは「このころ斎王に皇女を立てるのはまれなこと(実際、そのときの天皇の娘が斎王になったのは、村上天皇の時代以来五十余年ぶりだった)なので、在位18年を保証しよう」という夢のお告げを受けたと報告したり、斎宮に着いてすぐには「伊勢では恠異もなく、いたって平穏です」と手紙を送ったり、「お父さんがんばれ!」意識が非常に強い。
■藤原伊周の嫡男・道雅との密通騒ぎ
また三条天皇も、長和3年(1014)の伊勢への群行に際しての、天皇と斎王の別れの儀式で、本来「別れの御櫛」と呼ばれる斎王の額に黄楊の櫛を挿す儀礼の後はお互いに振り返らない慣習にもかかわらず「振り返らせたまへり(『大鏡』)」――天皇が振り返ったとも、斎王を振り返らせたとも取れる――とあり、娘を可愛いがっていたことは間違いない。
しかし、実際には異母妹禎子に比べてこの待遇、機嫌も悪くなろうというものだ。しかも三条天皇はわずか4年余りで退位、当子の伊勢滞在はわずか1年半足らずで終わってしまい、おまけに彼女はまだ無品のままだった。
そして彼女は帰京後、すでに述べたように、長和5年に、藤原伊周の嫡男の道雅との密通騒ぎを起こす。前章の上東門院女房殺人事件の七年前のことである。
三条天皇は激怒し、彼女は出家してしまう。手ずから髪を切ったとする説(『栄花物語』)もあり、そうだとすれば、父親と長女の壮絶なバトルである。その後彼女は、22歳の若さで世を去っている。
当子の同腹の妹、つまり禎子のもう一人の異母姉に禔子内親王がいる。この人は藤原道長の長男の頼通に嫁ぐ話が頓挫したのち、その弟の教通に嫁いだことで一部には知られている。彼女は寛仁3年(1019)に17歳で着裳、同年三品になっている。まあこのくらいでも天皇の娘としてはかなり高いランクだと考えていいだろう。
二人の姉と比べても、禎子の特別扱いが一段とよくわかる。「道長の孫」の威光はやはりピカピカとこの少女にも及んでいたのである。
■道長が見出した価値
しかし、なぜ道長は禎子に対する態度を変えたのか、言い換えれば、どういう価値を見出したのだろう。
彰子が裳の腰結を務めたということは、親同然の庇護をおこなうという宣言のようなものだ。つまり彼女は道長だけではなく、実質的な皇族のトップである彰子の傘下にも入ったことになる。
もちろん彼女の母は妍子であることには変わりないが、妍子とは彼女が15歳のときに死別し、両親を失うことになる。
ますます摂関家に依存することになりそうだが、じつは同年、妍子の亡くなる前に彼女は結婚している。相手は東宮敦良親王だった。もともと敦良親王には、道長の末娘の藤原嬉子が東宮妃となっていた。敦良は彰子の次男だから、叔母と甥の結婚である。
ちなみに嬉子の母は源倫子で、長姉の彰子とは約20歳離れていて、倫子が44歳で儲けた末娘だった。
道長は、後一条天皇の中宮にも娘の威子(天皇の叔母で9歳年上)を入れていたから、きわめて近い血縁の結婚を重ね、自分の血統を天皇家に定着させようとしていた。
■冷泉天皇の系統という要素
嬉子が東宮に嫁いだのは寛仁5年(1021)で15歳、東宮は13歳、当時禎子は7歳だった。もしも禎子が男子であれば、敦良親王の次の東宮に推されていた可能性も高い。そして道長の一族、あるいは道長の子供の娘の誰かが入内して、円融天皇の血筋とともに冷泉天皇の血筋もその血統の中に取り込もうと考えていたのではなかったか。
しかし結局三条天皇は道長家との間には禎子一人しか残せなかったわけで、娍子皇后所生の親王たちは、その第一子である東宮敦明親王を辞退させて、政治的には封じたこともあり、いわば使えるカードは禎子しか残らなくなった。
そして正当な天皇家はやはり聖帝の一人と認識されていた村上天皇の長男の冷泉天皇の系統なのだから、禎子内親王は無駄にできないカードだった。
しかし考えてみれば、よく似たことはこれまでもあった。十世紀の天皇家は嫡男継承に何度も失敗し、皇女を政治的に利用してその血統を伝えようとしていたようなのである。
醍醐天皇の嫡男保明親王は皇太子時代に亡くなり、その子の慶頼王も幼くして亡くなった。そのため同母弟の朱雀天皇が嫡男となって立太子するが、男子には恵まれず、同母弟の村上天皇が次の天皇になるのである。
■セーフティーネットの構築
一方、保明のただ一人の子孫は慶頼王の同母妹の煕子女王で、朱雀天皇の女御となったが、生まれたのは昌子内親王で、またもや女子だった。もしも煕子が男だったら、醍醐の次の天皇は慶頼王の弟の皇太孫が継いだかもしれず、昌子が男だったら、村上天皇に代わって天皇になっていた可能性もあった。
つまり天皇家は長男の家に継承され、村上の即位はなく、冷泉・円融の天皇家分裂も起こらなかったのかもしれない。
しかし昌子内親王は冷泉天皇の皇后になったが、結局子孫なく終わり、保明親王と朱雀天皇の血統はここで絶える。そしてもしも、昌子が冷泉の男子を残していたら、保明・朱雀・村上の三兄弟の血統をすべて回収した天皇ができていたかもしれない。
ある嫡系で残された女子は、新しい男系嫡系の中に取り込まれるという、いわば次善のセーフティーネットが見られるように思う。
折々の天皇や為政者たちは、このように考えて、孤独な皇女・皇孫を本流に回収して、天皇家の正統性を高めようと考えていたのではないか。とすれば道長の場合も、禎子内親王を一条天皇の系統の天皇に取り込むことで、村上系の正嫡の天皇を一条系に一本化する意識があったのではないか。
生まれたころの禎子に冷たかった道長が裳着のころには手厚くしていたというのは、そういう政治的な意識の転換があったのではないか、つまり孤児の内親王回収ルールを利用して、自分の孫の内親王を自分の孫の後一条・後朱雀天皇の一族に娶めあわせ、権力基盤の強化を狙ったと思われる。このあたり、道長はさすがの寝業師である。
■禎子内親王の結婚相手
しかし話はそう簡単には進まなかった。禎子内親王と釣り合う皇子たち、敦成親王(後一条天皇)には藤原威子、敦良親王(後朱雀天皇)には藤原嬉子と、年上の叔母である道長の娘たちの入内が優先したからである。
つまり当初の計画では、禎子が結婚するのは、後一条に生まれるであろう第一皇子、最も正当な後継者だったのではないか。しかし結局威子は後一条の皇子を産んでいない、一方、嬉子は万寿2年(1025)に男子を出産するものの、その直後に亡くなっている。道長の計画は崩れはじめたのである。
この段階で天皇候補になる皇子はこの男子、親仁(のちの後冷泉天皇)だけだった。彼と禎子の年の差は12歳、藤原威子と後一条の9歳差でも珍しいといわれたから、まず結婚対象とは見られなかった可能性が高い。
つまり彼女には釣り合う結婚相手が見つからなかった。この時期の道長は、自分の健康状態がかなり危なくなっていたのは知っていただろう。しかし後一条に入内させて禎子を威子と張り合わせるわけにはいかない。
その結果としての選択肢が、正妻の嬉子を失った東宮敦良親王との結婚だったと考えられる。
■道長死後の財産の分配先
二人の結婚は万寿四年で、道長の亡くなる8カ月前のことである。ならば道長は自分の死後のことも考えて事を進めたと思われる。
というより、禎子を育て、バックアップしていた祖母の源倫子と伯母の太皇太后彰子の理解と協力がなければこの結婚はおこなえなかっただろう。
道長死後の財産は、倫子の他には彰子、威子とともに禎子内親王にも分配されている。この中に道長の「次妻」とされた源明子の子、藤原尊子(源師房の妻)や、その姉の故藤原寛子と小一条院敦明親王との間に生まれた儇子内親王が入っていないことから見て、禎子が道長の孫という以上に、源倫子グループの主要メンバーと目されていたのは間違いない。
このように、禎子内親王の結婚は、80年近く分かれていた冷泉系と円融系の天皇家の合一を意識したものだったと考えられる。そして後朱雀天皇の即位までには、良子内親王、娟子内親王、尊仁親王(後三条天皇)の子供に恵まれる。両系統と道長の血を引く皇族は着実に生まれつつあった。
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三重県立斎宮歴史博物館学芸員、関西大学非常勤講師
1959年、大阪生まれ。1982年、大阪市立大学文学部卒業。1984年、岡山大学大学院文学研究科前期博士課程卒業。1988年、関西大学大学院文学研究科後期課程単位取得退学。博士(文学)。著書に『伊勢神宮と古代王権 神宮・斎宮・天皇がおりなした六百年』(筑摩書房、2012)、『伊勢斎宮の祭祀と制度』(塙書房、2010)、『伊勢斎宮の歴史と文化』(塙書房、2009)、『古代の都と神々 怪異を吸いとる神社』(吉川弘文館、2008)、『伊勢斎宮と斎王 祈りをささげた皇女たち』(塙書房、2004)、『律令天皇制祭祀の研究』(塙書房、1996)、『謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』(中公新書、2023)、『斎宮―伊勢斎王たちの生きた古代史 』(中公新書、2017)ほかがある。
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(三重県立斎宮歴史博物館学芸員、関西大学非常勤講師 榎村 寛之)
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