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明治新政府がやったのはフランスの猿真似だった…国宝級の名城を次々と処分した「維新の三傑」の浅学さ

プレジデントオンライン / 2024年11月13日 18時15分

左から、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允(出典=国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

1868年1月、江戸幕府に代わり明治政府が発足した。薩摩・長州両藩出身の官僚層は、矢継ぎ早に新たな政策を立案、推進していった。歴史評論家の香原斗志さんは「日本を近代化したという点では評価できるが、無教養ゆえに生じた負の側面にも目を向けるべきだ」という――。

■一国の中心だったお城が存在意義を失った瞬間

他者からの援助や干渉を受けずに独立している人のことを、いつから「一国一城の主」と呼ぶようになったのかは知らないが、この言い回しの語源が、江戸時代の幕藩体制下において、一つの国、一つの城を領有している者、すなわち大名にあるのはまちがいない。

幕藩体制とは、江戸幕府と全国の300諸藩が全国を支配した政治支配体制のことで、幕府は全国の土地を直轄領と大名の領土に分け、大名にはその領土を支配し管理する権限をあたえた。大名の領土および統治機構が藩で、一部の例外を除き、統治の拠点が城だった。

したがって、明治2年(1869)6月、明治新政府が全国の大名に土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還させる「版籍奉還」を命じると、城は存在意義を失うことになった。このとき藩主は大名、つまり領主ではなくなり、政府の一官吏である藩知事となった。むろん藩士も藩主との主従関係も解かれ、たんに藩に属する士族となった。

とはいえ城には、各藩の軍事施設としての意義が辛うじて残っていた。また、旧藩の組織が解体されたわけではなかったので、多くの藩では城をそのまま役所として使っていた。

■福沢諭吉の申し出で廃城になった城

ただ、多くの城は面積が広大で、石垣や土塁、堀だけでも監理が大変なところに、数々の建造物が建ち並んでいたため、農民からの年貢収入が得られなくなると、維持するのが困難になった。このため、城の取り壊しを申し出る藩も現れた。

明治3年(1870)閏10月、旧藩主で藩知事になっていた大久保忠良は、幕末にも大地震による石垣や建造物の損壊に見舞われた小田原城(神奈川県小田原市)の廃城を、新政府に願い出て認められている。中津城(大分県中津市)も同年12月、中津藩士だった福沢諭吉が「無用」の城を「廃城」にすべきだと届け出た結果、御殿以外の建造物は取り壊された。

それだけではない。驚くべきことに、天下の名城と謳われた名古屋城(名古屋市中区)と熊本城(熊本市中央区)も、藩知事が太政官に取り壊しを願い出ていたのである(このときは取り壊しを免れたが)。

しかし、明治4年(1871)に断行された「廃藩置県」は、「版籍奉還」とは違う次元で全国の城にダメージをあたえた。それは城への死刑判決に近かった。藩自体がなくなってしまい、旧藩知事は東京への移住を義務づけられ、各地で城を維持していた組織そのものが消滅してしまった。

■古写真に見る城の荒み具合

このとき全国の城は、すべてが府県から移管されて兵部省陸軍部の所管となり、明治5年(1872)に兵部省が陸軍省と海軍省に分離されると、陸軍省の所管になった。しかし、全国に城は、事実上の城であった陣屋や要害を加えると300以上もあった。それだけの城を兵部省(陸軍省)が管理しきれるはずがない。

明治初年に撮影された古写真が残されている城も多いが、たいていは天守や櫓、門や塀などの漆喰がはがれ、時に瓦が落ちそうになっていたり、屋根が破損していたりする。版籍奉還により、各藩から城を修復する資金が失われたのに続き、兵部省(陸軍省)の管轄となって、ほぼすべての城が放置された結果、どの城もあっという間に荒んでしまったからだ。

昭和14年に発行された観光本に出てくる備中松山城。壁が一部崩落し、屋根に植物が絡っている。現在は整備され、天空の城として人気を博す。
昭和14年に発行された観光本に出てくる備中松山城。壁が一部崩落し、屋根に植物が絡っている。現在は整備され、天空の城として人気を博す。(『観光の岡山』 国立国会図書館デジタルコレクションより)

このように全国の城を管理しきれない陸軍省は、結局、軍隊の基地として利用可能な城と、不要な城とに分けることにした。徴兵制にもとづく常備軍の基地として使用できそうな城は今後も使い、使えそうにない城は処分しようと考えたのである。

この時点ですべての城は、陸軍省の所管で国有財産だったので、不要になれば大蔵省が処分する必要があった。そこで、陸軍省と大蔵省の役人が各地の城を調査し、明治6年(1873)1月、当時の正院(太政官職制の最高機関)が、全国の城を陸軍の軍用財産として残す「存城」と、普通財産として大蔵省に処分させる「廃城」に分け、両省に通達した。

■フランスのマネはできても精神は学ばない

このとき「存城」とされたのは42の城と1つの陣屋にすぎなかった。しかも、「存城」も保存されるとはかぎらなかった。「存城」も「廃城」も城を維持、保存することとは無関係の概念で、「存城」も国が維持する必要がないと認められれば取り壊すことができ、兵営建設などのために必要なら、自由に改造したり取り壊したりすることができた。

弁護士で城郭研究家の森山英一氏によれば、城を存城と廃城に分けた背景には「城郭を財産とみるフランス民法の影響があった」という(『存城と廃城』)。明治政府はフランスの影響のもと、城郭を軍用財産として使えるか使えないかだけで評価し、使えなければ処分するという性急な判断を下したのである。

残念なのは、フランス民法の影響は受けながら、歴史的環境を積極的に保護するフランスの精神からは、なんら影響を受けなかったことだ。フランスではすでに19世紀初頭、フランス革命で被害を受けた建造物や美術品の保護が課題になり、以後、フランスらしい建築の保護を核にした歴史的景観の醸成に力が入れられてきた。

一方、明治政府は、城郭をたんなる封建時代の残滓と決めつけた。ことに城は、自分たちが倒した幕藩体制の遺物だという考えに引きずられたと思われる。だから、城を文化的価値判断の対象にならない財産に置き換え、処分を進めていった。

■文化的素養に欠ける薩長の限界

日本固有の文化や歴史的景観を守るという発想が明治政府になかった不幸である。日本は鎖国政策のせいで、世界の動静の埒外であった期間が長かった。それだけに、欧米との格差を埋めることに躍起になり、欧米人が大切にしているアイデンティティの維持に目を向けることができなかった。

維持費を考えれば、全国の城すべてを保存対象にするのは無理だっただろう。だが、政府関係者が城を文化財としてとらえる視点を少しでももっていれば、状況は違っていたと思われる。新政府を牛耳った人たち、すなわち文化的素養に欠ける薩長の下級武士たちの限界がそこにあったといえよう。

木戸孝允
「廃藩置県」に大きくかかわった木戸孝允(出典=国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

無教養の元下級武士たちが断行した廃藩置県で「死刑判決」を受けた城は、その後どうなったか。平成27年(2015)に天守が国宝に指定された松江城を例に見たい。

松江城は「存城」になったにもかかわらず、すべての建造物の払い下げと解体が決まり、所管する広島鎮台の判断で明治8年(1875)に入札が行われ、9棟の櫓に門、御殿など、すべてが民間に払い下げられた。落札金額は米1俵が3円弱だった時代に、1棟4~5円程度(現在の貨幣価値で3万円程度か)と格安だった。

じつは天守の入札も行われ、180円(現在の貨幣価値で100万から120万円程度か)で落札されている。

■キツネやタヌキの巣窟に

ただ、天守に関しては救世主が現れた。元松江藩士の高城権八は、天守が落札されたと聞くと、松江藩のもとで銅山の採掘に携わった豪農で、和歌や書画にも通じる文化への理解者でもあった勝部本右衛門栄忠と景浜の父子に相談。勝部父子は落札金額と同額を広島鎮台に納め、天守を180円で買い戻したのだ。

だが、『島根縣史』九にはこう書かれている。「元出雲郡の豪農勝部本右衛門藩士高城権八等と相議り落札高の金を納めて天守閣破壊は辛ふじて免れたるも其他の建造物は日ならずして解き払はれ荒涼たる廃墟を現出せり」。天守は残ったが、ほかの建物がみな失われ、城跡は廃墟になったという内容である。

辛うじて残った天守も、やはり放置され、荒廃するにまかされた。明治20年代中ごろに撮影されたと思われる古写真をみると、漆喰ははげ落ち、屋根瓦は随所で破損し、下見板は損壊し、二重目の大入母屋の軒は波打ち、そのうえ屋根には穴が開き、早晩、全壊しそうな様相である。

明治19年(1886)4月24日付の『山陰新聞』には、「松江城天守閣の追年破壊し居て周囲は草茫々恰かも狐狸の巣窟となれるのを」と書かれている。キツネやタヌキの巣窟となっていたという表現からも、天守の荒廃ぶりが伝わる。

■こうして国宝松江城は残った

保存に向けての契機は、明治23年(1890)、陸軍省にとって不要となった全国19の城址が、旧藩主や自治体に払い下げられたことだった。4500円で松江城の払い下げを受けた旧藩主の松平家は、城山事務所を開設して城址を千鳥遊園として開放することを決め、園丁とともに天守の看取を置いた。

県知事も松江城天守閣旧観維持会を組織し、募金などをはじめ、荒廃した天守の修理に向けた準備が進められることになった。そんな折、明治25年(1892)夏の集中豪雨で、損壊が進んでいた天守はさらに甚大なダメージを被(こうむ)り、翌明治26年6月から11月にかけて大修理が実施された。

松江城天守
現在の松江城天守(写真=KishujiRapid/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

廃藩置県から約20年を経て、松江城天守はようやく保存に向けて歩みはじめたのだが、気になるのは、保存への経緯が確認できる史料がほとんど新聞で、官側の記録が乏しいことである。要するに、「お上」は相変わらず、城をどうでもいい対象と見做(みな)し、記録をとっていなかったものと思われる。

同じ理由で、全国の多くの城郭に関し、どのような経緯で建物の払い下げが決められ、実行されたのか、確認するのは困難だ。記憶にとどめておくべき「廃藩置県」の負の側面である。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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