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「望月の歌」を詠んだ夜は満月ではなかった…NHK大河ですべては描かれない藤原道長が和歌に込めた本当の思い

プレジデントオンライン / 2024年11月17日 16時15分

敦成親王誕生50日を祝う儀式を描いている。画面右奥が彰子で、画面下の男性が道長。『紫式部日記絵巻断簡』(東京国立博物館所蔵)。ColBaseを加工して作成。研究情報アーカイブズ

藤原道長とはどんな人物なのか。歴史評論家の香原斗志さんは「藤原家の権力維持のためにはなんでもする傲慢な人物として描かれがちだ。だが、有名な『望月の歌』の背景を知ると彼の意外な一面を知ることができる」という――。

■藤原道長が三条天皇に譲位を迫った理由

藤原道長(柄本佑)は三条天皇(木村達成)に、繰り返し、執拗に譲位を迫った。道長と対立が続くところに内裏が焼失し、ストレスが極限に達した影響だろうか、三条天皇は目がよく見えなくなり、時に耳も聞こえない。そこで道長は「ご譲位くださいませ。それが国家のためです」と、かなり露骨に迫った。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第43回「輝きののちに」(11月10日放送)。

三条天皇から頼られ、相談も受けている藤原実資(秋山竜次)は道長に、「幼い東宮を即位させ、政を思うがままにしようとしていることは、だれの目にも明らか」と苦言を呈して諫めた。実資の指摘は、半分は当たっているが、残り半分は、さすがに道長も少し気の毒だといえようか。

三条天皇は事実、目と耳を病んでいて、政務や儀式をきちんとこなすことができない。それでは宮廷社会の信任を得るのは困難で、政務に関する責任をもっとも負っている道長としては、譲位を求めるのも致し方ない面があったと思われる。

一方、彰子(見上愛)が産んだ外孫、東宮の敦成親王(石塚錬)に、一刻も早く即位してほしいと思っていたのも事実だろう。

だからこそ、彰子のもと、まひろ(吉高由里子、紫式部のこと)もまじって「偏つぎ」という遊びに勤しむ敦成親王のところに現れた道長は、遊びに加わりながらも「学問はよき博士につかれるのがなにより」と、注文をつけた。彰子は「藤式部は博士に劣らぬ学識の持ち主ですよ」と言ったが、「帝になる道を学ぶのは、まったく違う道です」というのが道長の返答だった。

■三条天皇の息子と面会して決まったこと

いずれにせよ、ここから状況は、恐ろしいほど道長の思うとおりに進んでいく。

道長が三条天皇に譲位を迫ったのは長和4年(1015)のことで、結局、この年の年末に三条天皇は譲位を決意し、翌長和5年(1016)正月29日、ついに譲位。結果、敦成親王がわずか数え9歳で即位し(後一条天皇)、道長は念願の摂政に任ぜられた。

翌寛仁元年(1017)は、さらなる勝利の年だった。まず3月16日、道長は摂政を、長男で26歳の頼通に譲った。もちろん、史上もっとも若い摂政だった。1年半前に、頼通が史上最若年で就任した左近衛大将には、弟で22歳の教通が任官され、ふたたび最年少記録を引き下げた。

そして5月には、在位中に道長と対立した三条院が死去した。4月に流行りの疫病に見舞われた三条院は、いったん回復したようだが、5月9日には衰弱して帰らぬ人になる。三条院は譲位する前から、第一皇子の敦明親王を東宮に就けることにこだわり、それはせめてもの願いとして聞き入れられていた。

ところが8月には、敦明親王が自分から東宮位の返上を申し出たのである。敦明は東宮退位に当たって、道長と直接交渉することを要求。そこで道長は、正妻の倫子が産んだ長男の頼通(摂政)、五男の教道(権大納言)のほか、次妻の明子が産んだ次男の頼宗(権大納言)、四男の能信(非参議従二位)の4人を引き連れ、敦明と会見した。

【図表】藤原家家系図

連れて行った4人の息子全員が公卿だったという事実が、道長の圧倒的な力を物語っている。敦明が求めたのは、東宮を退位したのちの経済的な優遇措置で、むろん、敦明の願いは叶えられた。そして空席になった東宮の座には、彰子が産んだ一条天皇の弟、敦良親王が就いた。これで道長は、天皇と東宮の外祖父になったのである。

■11歳の孫と20歳の娘を結婚させる

寛仁2年(1018)になると、正月3日に後一条天皇は11歳で元服し、道長は太政大臣として加冠の役を務めた。そして3月には、倫子が産んだ三女で20歳の威子が、後一条天皇のもとに入内した。

これは11歳の子供のもとに、9歳年上の叔母が嫁ぐという、いわばメチャクチャな結婚だったのだが、こうしてすべてを自分の身内で固めたという点で、道長の栄華を象徴している。

このとき后の座にいたのは、最高位の太皇太后が彰子、皇后が娍子、中宮が妍子で、皇太后が空席だった。しかし、このうちの彰子、妍子の父である道長は、道長の日記『御堂関白記』によれば、さらに威子まで后にするとは、自分からは恐れ多くて言い出せなかったようだが、彰子から助け船が出された。要は、恐れ多いなどと感じる必要はなく、早々に立后すべきだというのだ。

こうして7月16日、威力の立后が決まった。道長が自分の存命中に2人の娘を后にしたこと自体、史上初だった。それがこれで3人目の后となったわけだ。

■「望月の歌」が残ったのは偶然

立后の儀の日取りは安倍晴明の息子の陰陽師、吉平の占いにしたがって決められ、10月16日、内裏の紫宸殿(ししんでん)で行われた。そして儀式の終了後、道長の私邸である土御門殿に場を移し、大勢の公卿が集まって本宮の儀(宴席)が開催され、続いて、その穏座(二次会の宴席)がもうけられた。

その二次会の場で、酔った道長の口から飛び出したのが、教科書にも出てくる「この世をば」の歌だったのである。

この日のことは、道長の『御堂関白記』よりも実資の『小右記』に詳しい。じつは『御堂関白記』には、「和歌を詠んだ。人々は詠唱した」と書かれているだけで、具体的な歌にも触れられていない。歌は実資が記録したおかげで、今日まで伝わったものである。

倉本一宏氏は、この歌が残った偶然について、概ね以下のような説明をする。

道長は宴会で酔って詠んだ歌など覚えていなかっただろうが、偶然そこには、普段は滅多に宴会に顔を出さない実資がいて、いつもは一次会で帰るのに二次会まで残っていた。そうして歌を書き留めた。ただ、『小右記』には、書かれた記事がそのまま写された広本と、省略した記事が写された略本があって、この年はたまたま広本が残っていた――。(『平安貴族とは何か』NHK出版新書)

幻想的な満月
写真=iStock.com/subjug
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/subjug

■宴会の二次会で酔いにまかせて詠んだ

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば

藤原氏が政治を私物化した摂関政治の象徴であり、道長という政治家の驕り高ぶった姿勢を表している――。この歌はそんなふうに理解されてきた。実際、かなり尊大な歌であるのはまちがいない。だが、所詮は酔って戯れに詠んだ歌であることを理解しておかないと、見誤ってしまう。

では、小右記にはどう書かれているのか。

「『和歌を詠まんと欲す。必ず和すべし』てへり。答へて云はく、『何ぞ和し奉らざるや』。又云はく、『誇りたる歌になむ有る。但し宿講に非ず』てへり(『和歌を詠もうと思う。必ず返歌するように』と(道長が)言うので、私は答えて言った。『どうして返歌しないことがございましょうか』。すると(道長が)また言ったのは『浮かれた気分の歌なのだ。でも事前に準備したものではない』)」

事前に準備することもなく、二次会のその場で、浮かれて即興で詠んだ、と道長は断っていたわけだ。酔いにまかせて、戯れて詠んだということだろう。では、道長のどんな「浮かれた気分」を表しているのだろうか。

■「望月」にかけられた2つの言葉遊び

平安文学の研究者、山本淳子氏の解釈では次のようになる。「我が世」は「世」を「夜」にかけたもので、また、「我が世の春」といった人生最高の時の表現だという。

続いて「望月」以下だが、この日は16日で十五夜ではない。月はわずかに欠けているが「月は欠けたが欠けていない」といった機知を詠むのが和歌の真骨頂だという。では、どう欠けていないのか。

道長はこの歌を詠む直前、実資に、若い頼通に盃を勧めてくれるように頼み、結果、5人の公卿たちのあいだで次々に注がれた。道長はこうして頼通を中心に、5人のあいだで欠けることなく酒が注がれ、結束の強さが表されたことを、「欠けたる事も無し」と詠んだというのだ。また、文学では后はしばしば月にたとえられてきたという。道長は威子を中宮にし、自分の3人の娘で后の席を満席にしたのだから、まさに満月。

要するに、欠けていない「月」とは「盃」と「后」のシャレだという(『道長ものがたり』朝日選書)。

酒の入った盃をかかげもつ女性の手元
写真=iStock.com/joka2000
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/joka2000

そうであれば、この歌を道長、ひいては藤原氏が驕り高ぶっていた象徴だとするのは、いささか行き過ぎということになる。むしろ、浮かれて、よろこんで、しゃれっ気を発揮している、少しかわいいくらいの道長像が浮かび上がると思うのだが。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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