バカほど「イイクニ作ろう鎌倉幕府」を否定する…教科書を「イイハコ作ろう」に書き換えさせた歴史学者の無責任
プレジデントオンライン / 2024年11月20日 18時15分
※本稿は、倉山満『嘘だらけの日本中世史』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。
■源頼朝の「革命なき革命」
源頼朝(一二四七~九九年)の作った鎌倉幕府は、世界史上に唯一無二の偉大な発明品です。なぜか。革命をやらずに革命をやったからです。と言っても、「なんのこっちゃ?」でしょう。
ここに翻訳のズレがあります。漢語の「革命」は、別の人物が皇帝に取って代わることです。英語圏の「レボリューション(Revolution)」は、社会構造そのものを変えることです。頼朝がやったのは、「革命なき社会変革」です。だから偉大なのです。
社会変革では、必ず既得権益を失う人が現れます。だから、血で血を洗う抗争になります。中華世界では皇帝が力を無くすと別の者が皇帝になり、新王朝を開きます。たとえば秦王朝は趙政が打ち立てた王朝です。始皇帝を名乗ります。しかし趙氏の王朝は三代で終焉。劉邦が漢を打ち立て、劉一族に取って代わられます。中華帝国史では、王朝交代のたびに夥しい血が流れています。皇帝の姓が変わるので、易姓革命とも言われます。
それに対して、我が国では皇室に取って代わった者は、一人もいません。藤原氏や平清盛はそれまでの朝廷の枠内で色々とやりましたが、頼朝は幕府政治の確立という劇的な社会変革を成し遂げました。そして長い時間をかけて既得権益を無くします。
公権力として律令体制があり、私有地である荘園も摂関家・院・平家の歴代権力者の基盤であり、という体制を頼朝から四百年かけて完全に変えたと称したのは、中世史の権威の高柳光壽先生です。『足利尊氏』(春秋社、一九六六年)という本に書いています。
■関東武士が頼朝の下に集まった理由
源頼朝はなぜ天皇に取って代わらなかったのか? 日本史だけを見ていると当たり前に思えますが、外国の歴史に詳しい人が急に日本の歴史を調べると必ずぶち当たる疑問です。
その答えは、頼朝が「貴種」なので武士の支持を得て、権力を握ることができたから、です。
頼朝は以仁王の令旨に応じて挙兵しますが、初陣で負けてから二十年も流人をやってた戦の素人。鎌倉幕府公式記録の『吾妻鏡』によれば、「三島大社の祭礼の日に挙兵しよう」などと「記念日挙兵」を言い出し、側近で舅の北条時政が止めるのも聞かずに「裏道は騎馬が通れないから堂々と大通りを行く」などと、“パレードしながら奇襲作戦”のような戦い方でしたが、伊豆国目代(代官代理)を務めていた平兼隆という田舎武士にビギナーズ・ラックで勝利します。
しかし次の石橋山の戦いに敗れ、すぐに敗走。千葉県へ逃げていきます。当時の千葉県は、上総・下総・安房に分かれていました。
頼朝が安房に逃れた時、上総広常という、名前からして地元の実力者が、二万と言われる兵を連れてやってきます。「俺がいなけりゃ頼朝なんかはやってられんだろう」とばかりにナメた態度で遅刻してきます。その広常に頼朝は「来るのが遅い」と思いっきり叱責します。広常は平伏、関東の武士が頼朝の下に集まってきます。
■「貴種」という特別な存在
と、かなり眉唾な話が残っています。『吾妻鏡』は北条氏の正統性を証明する歴史書なので、鎌倉幕府を築いた頼朝を持ち上げつつ、ちょくちょくと「問題があった人物なので、源氏は滅んだ」と小ネタを差し込んでいますので、読み方に注意が必要です。
ただ、「頼朝は武勇に優れてなかったけど、貴種として特別な存在だから、関東の武士たちが従った」という点は、誰もが疑問に思わないストーリーなのは理解できましょう。
これを権門体制論に言わせれば「頼朝は関東の武士たちと隔絶した存在」であり、東国国家論に言わせれば「貴種ならば頼朝や源氏でなければ誰でもいい」と真っ向から対立します。
ただ大前提は、頼朝だろうが源氏だろうが他の誰であろうが、「上に仰ぐのは高貴な身分の存在でなければならない」は関東の武士たちの合意です。「貴い種」と書いて、貴種。貴さの根源は、天皇です。
武士は武力によって生きていますから、本当は自分より弱い奴の言うことなどは聞きたくありません。しかし、朝廷に任せておくと自分たちの土地がどうなるかわからないので、守ってくれる人物、親分が欲しい、という現実がありました。
そこで、親分にふさわしい人物とはどんな人物なのか? ということになります。「貴種」は、関東の武士がどうしても乗り越えることのできない壁でした。個人的力量とは関係のないところにあるのが貴種です。頼朝にはそれがありました。
■アメリカ独立革命との共通点
なぜ頼朝は貴種なのか。ご先祖様が天皇だからです。頼朝は、清和天皇(在位八五八~七六年)の十一代目です。そもそも源とは「皇室に起源を持つ一族」です。
急に話を飛ばします。頼朝革命は、アメリカ独立革命(一七七五~八三年)の先駆けでもあります。
通説当時のイギリス国王ジョージ三世は、議会に代表を送る権利を認めないのに、アメリカ植民地に増税を課してきた。そこでジョージ・ワシントンら植民地の人々は武器を持って立ち上がり、戦って勝って独立を勝ち取り、アメリカ合衆国を建国した。
これが歴史的事実かどうかは、不滅の名著『嘘だらけの日米近現代史』をどうぞ。ただ、アメリカ建国の建前であるのは間違いありません。この思想はDemocracy with a Gunなどと表現されます。だから、アメリカではいまだに銃規制ができないのです。
それはさておき、アメリカ独立革命の思想は「自分たちの財産が政府に奪われそうになったら、力で打ち倒して新たな政府を作ることができる」です。事実、アメリカ人たちは国王の支配を脱し、自分たちの政府を打ち立てました。当然、国王はアメリカ人に増税して、財産を取り上げられません。武装権とか抵抗権(革命権)とも言われます。
これと同じことを五百年早くやったのが、頼朝です。ただし、アメリカ人と違って王様に反逆するのではなく、皇室の権威を利用して。
当時の実質的な政府は、平家です。平家を打倒して、その事実を朝廷に承認してもらう。結果、武士たちの財産を守る。朝廷を倒す必要はありません。日本には革命が要らない理由です。武力で政治を決する世の中だからこそ、君主(皇室)が必要とされた。そんな国、他に聞いたことが無いから、外国の歴史を知ると日本が不思議に思えるのです。
■幕府はGHQ、将軍はSCAP
とは言うものの、平家の方も黙って見ていたわけではありません。宮内庁のホームページに掲載されている「天皇系図」を見るとよくわかるのですが、一一八三年から一一八五年までの二年間、二人、天皇がいます。
安徳天皇と後鳥羽天皇(在位一一八三~九八年)です。六十年間ほど放置された南北朝時代(一三三六~九二年)と違って、「東西朝」とも呼ぶべきこちらの時代は二年ほどで終わりましたから後で揉めるようなことにはなりませんでした。
この時に源義経は、三種の神器の一つである草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)の奪還に失敗して失ってしまうという大失態をやらかしています。
そんな時に、朝廷に知恵者がいました。朝廷に重んじられていた僧侶の慈円は史論書『愚管抄』(一二二〇年頃に成立)の中で、「武士のきみの御まもりになりたる世になれば、それにかへてうせたるにや(武士が天皇を守る世になったので、その代わりに草薙の剣は消えたのだろうよ)」と言っています。
ものは言いようです。どこかの国の内閣法制局も裸足で逃げ出す詭弁。ここで教科書的論説に触れておきます。
通説頼朝は平家追討を名目に全国に支配を及ぼしたかったから、追討をゆっくりやりたかった。しかし復讐に燃える義経が平家打倒に邁進。あっという間に平家を滅ぼしたので計算が狂い、色々とやらかしを繰り返す義経を全国に追い回す方針に切り替えた。
そんなに上手くいくかなあ……?
■早すぎた平家討伐
それはさておき、真面目に教養として知っておいた方が良いこととして、「勧進帳」の話があります。
山伏に姿を変えた義経一行が加賀国安宅(あたかの)関という今の石川県にある関所で疑われる。そこで部下の弁慶が白紙の勧進帳を朗読、なおも疑われたので義経を暴行。関守はすべてを知りながら、義経一行を見逃してやる、という話です。
勧進帳というのは寄付を募る書類、関守は関所の責任者のことです。この話も「戦に功のあった弟の義経を虐める嫉妬深い兄の頼朝」という構図で流布されます。
史実で確実に言える義経は、他の武士と協調性が無く、勝手に官位をもらって見え透いた後白河法皇の分断工作に乗り、頼朝を朝敵とする院宣まで引き出してしまう。許したら頼朝の方が公私混同です。さらに、海上知明『「義経」愚将論』(徳間書店、二〇二一年)によれば、無駄に残虐な性格で、戦はまぐれ当たりの連発だったとか。
頼朝の手法は、西国に弟の範頼や義経らを行かせ、「平家を打倒するから協力しろ。その代わり朝廷と交渉してお前の土地を守ってやるから俺に従え」です。実際に年貢を納めさせて戦に動員させて言うことを聞かせるという事実をもって、朝廷と交渉する。範頼はこういうの得意だったようですが、義経は……。
確かに、義経の平家討伐が早すぎたので、西国への影響力は小さいままでした。頼朝は関東で権力を確立することに専念します。頼朝に従った有力武士は「御家人」と呼ばれるようになります。
■「幕府」を考えた大江広元
ところで頼朝が、“中間管理職”だと気づいたでしょうか。武士たちは「貴種」の権威で従える。朝廷には現実の武力で圧力をかける。上を突き上げ、下を叩く、“中間管理職”だから、頼朝の立ち回りは絶妙だったのです。
日本国は律令制では六十六か国に分かれています。国ごとに国司がいましたが、まるで機能しないから、武士たちに頼朝が求められました。頼朝は国ごとに「守護」を置く権利を求めます。守護とは平時は治安を守り、有事には軍勢を供給する役目です。
そして土地ごとに「地頭」を置き、年貢を取り立てることとします。朝廷には公領があり、貴族は荘園と呼ばれる私有地を持っているのですが、荘園公領に対抗する武士の土地を持てるように朝廷と交渉し認めさせました。この土地のあり方が「幕府」の根幹です。
こういうことを考えたブレーンが大江広元だと『吾妻鏡』に特筆大書されています。大江の子孫は北条に逆らって潰されましたから、本当でないなら美化する必要が無い。たぶん本当でしょう。
人類のどこにもない「幕府」を考えた大天才が大江広元で、それを実現した大政治家が頼朝という評価で良いと思います。
源頼朝の作った政府は、幕府と呼ばれます。幕府は、昔は「Military government」と英訳されていましたが、今は「Bakufu」がそのまま英語表記として使われています。日本にしかないものなので翻訳のしようがないのです。同じく将軍もGeneralでは正確ではないのでShogunです。
■「イイクニ作ろう鎌倉幕府」が教科書から消えた
幕府の直訳はCampで、テントのことを指します。今風に訳せば、駐屯地です。移動することが前提です。Base=基地のように移動しないことが前提の存在とは違います。
頼朝は、「東国Base」をつくりたかったのです。このBaseを「国家」と訳しているのが、東国国家論のみなさんです。それはさておき、実際に頼朝がやったのは、本来はCampに過ぎないものをBaseにしていく作業です。
本来はCampに過ぎないので、朝廷から与えられている臨時の司法権と統帥権を、Baseとして日常的に行使できる存在にしてくれ、という作業を、鎌倉を拠点に、平家追討および義経追討を名目として全国に広めていこう、というのが、頼朝が行ったことでした。
さて、最近流行の説。主に東国国家論の先生が「頼朝が征夷大将軍に任命されたなんてどうでもいい」とか唱えています。この方たちは実質が大事で形式はどうでもいいらしいので。だから、「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と一一九二年を鎌倉幕府成立としていたのを、教科書から変えさせました。
この方たち、私のように「形式がすべて。形式こそが最も重要な実質」と考える人を説得する気が無い議論を展開していますが、まあ少し乗ってみましょう。
■狙いは「朝廷から独立した自治を認めてもらうこと」
頼朝以前の征夷大将軍として有名なのは坂上田村麻呂で、初代は大伴(おおともの)弟麻呂(おとまろ)です。確かに頼朝が田村麻呂らの後継者になりたいなどと熱望した、なんて史料は見たことありません。また、就任後すぐにやめたので「右大将家」と呼ばれたとの史料は山の様にあります。右大将とは右近衛大将の略で、平時の最高武官です。
頼朝がやろうとしたのは、朝廷から独立した自治を認めてもらうこと。その過程で、本来は戦場でのみ臨時にしか認められない司法権と統帥権の委任を、恒久化してもらうことです。そうした実態を伴う朝廷の役職の中から、「征夷大将軍なら間違いない」と選んだのは争いが無いところです。
頼朝が将軍をすぐに辞めたかどうか、重視されなかったかどうかは知りませんが、「一回その役をやっとくと後が便利」は、今でもよくあります。
さて結論。幕府とは、本来は「臨時の本営」です。将軍とは、その最高司令官。政府の指示を待つことなく、現場の裁量で重大な決断、その中でも特に重要な司法権と統帥権を行使できます。要するに、幕府とはGHQ(General Headquarters)、将軍とはSCAP(Supreme Commander for the Allied Powers)です。占領期の日本人は占領軍をGHQ、その最高司令官のダグラス・マッカーサーをSCAPと呼びました。昭和天皇から見たら、マッカーサーなど「頼朝を気取った木曽義仲」くらいにしか見えなかったでしょう。
頼朝のやったこと、後世の人間の目から見れば、特に近現代の政治学をやった人間から見ると、こういう風に評価できます。当然、頼朝自身が狙ってやったわけではなく、当時の政争の中で生き残ろうとしてやったら、こうなったということですが。という実態を踏まえて本題です。
■「イイクニつくろう鎌倉幕府」を否定する歴史学者
日本中世史についての研究は目覚ましく、そのほとんどを尊重しているのですが、ときどき首をかしげることがあります。その筆頭が、「一一九二(イイクニ)つくろう鎌倉幕府」の否定です。
今や、歴史教科書などで鎌倉時代の始まりが一一八五年とされて「イイハコつくろう鎌倉幕府」と覚えているようで。
実は、鎌倉時代の始まりをいつからとするかについては、戦前から論争がありました。次のような説があります。
一一八〇年説 源頼朝が伊豆で挙兵して、鎌倉に入って拠点を築いたから。
一一八三年説 東国支配の宣旨が与えられたから。
一一八五年説 平氏が壇ノ浦の戦いで滅亡し、頼朝が守護・地頭の設置権を得たから。
一一九〇年説 頼朝が上洛して右近衛大将に任命されたから。
一一九二年説 頼朝が征夷大将軍に任命されたから。
一二二一年説 承久の乱で鎌倉の力が完全に朝廷を圧したから。
それぞれ根拠があり、実態を伴うのですが、それぞれ検証。
まず議論を分けると、時代区分に関しては「鎌倉時代は、源平合戦が始まった一一八〇年から鎌倉幕府が滅亡した一三三三年で終わる」で良いと思います。ただし、その時点で幕府が成立しているかは別です。
■歴史学者の責任放棄…室町幕府、江戸幕府はどうなるのか
話を単純化すると、「鎌倉幕府の成立が一一九二年ではないとしたら、室町時代や江戸時代はどうするの?」です。「それは室町や江戸の専門家が考えればよい」という声が聞こえてきますが、それでは学問としての体系化が無い。単なる思考停止の責任放棄です。
一一九二年説が非常にわかりやすく説明しやすいのは、初代創業者の源頼朝が征夷大将軍に任命された年だからです。実質を形式的に朝廷が承認しました。
室町時代は、一三三六年に建武の親政を足利尊氏が壊したことから始まった、でいいと思います。室町幕府ができたのは尊氏が将軍に任命された一三三八年になります。
江戸時代は一六〇〇年の関ヶ原の合戦の勝利で始まり、一六〇三年に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸幕府が成立した、で説明がつきます。
頼朝・尊氏・家康の支配を、後鳥羽天皇・光厳天皇・後陽成天皇が承認した。政治の勝者だと認定した。それで統一的に説明ができます。
皇室史の観点から大事なのは、「政治の最高権力者の補任権を天皇が握っているから」です。摂政・関白・征夷大将軍、そして内閣総理大臣もそうです。嘘だと思うなら、日本国憲法第六条を読んでみればいい。「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する」と書いてあります。
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憲政史家
1973年、香川県生まれ。中央大学大学院文学研究科日本史学専攻博士課程単位取得満期退学。在学中より国士舘大学に勤務、日本国憲法などを講じる。シンクタンク所長などをへて、現在に至る。『並べて学べば面白すぎる 世界史と日本史』(KADOKAWA)、『ウェストファリア体制』(PHP新書)、『13歳からの「くにまもり」』(扶桑社新書)など、著書多数。
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(憲政史家 倉山 満)
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