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「お金持ちだけが介護を受けられる未来」が来てもおかしくない…社会保障費だけではない日本の介護の重大問題

プレジデントオンライン / 2024年11月19日 16時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hanafujikan

高齢者が増えても日本の介護サービスは維持できるのか。文筆家の御田寺圭さんは「人口動態のバランスから考えれば、近い将来に高齢者になる人のほとんどが、現在と同レベルの介護サービスを受けることは容易ではなくなる」という――。

■いまと同レベルの介護サービスを受けることは困難になる

「お金持ちだけが介護を受けられる未来が、遠からずやってくる」――そう伝えるニュースが、各所で大きな波紋を呼んでいた。

――政府は引き下げの理由を、訪問介護の利益率が高いから、と説明しています。

利益率が高いのは、サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)の訪問介護です。一軒一軒訪問する在宅ヘルパーより、集中しているサ高住のヘルパーのほうが利益率が高いのは当然です。

サ高住に入っているヘルパーに聞くと、「楽です」と言います。在宅ヘルパーは雨が降っても雪が降っても一つ一つ家を回らなければなりませんが、サ高住は屋内を回ればよいからです。

それを同じ基準にしますか。まやかしの政策をやらないでほしいのです。

廃業する事業所もでています。本当になぜこんなことをするのかわかりません。私たちはなにか悪いことをしましたかと言いたくなります。

毎日新聞「訪問介護の基本報酬の引き下げ おカネ持ちだけが介護を受けられる未来」(2024年7月29日)より引用

これについて、SNSをのぞき込んでみると各所から(国や政府に対する)非難や怒号が上がっていた。

怒りの声をあげたくなる気持ちもわかるが、しかしながら「介護はお金持ちだけが受けられる未来」は、表現としてはいささか過激ではあるものの、そこまで非現実的な話とはいえない。この国の向こう数十年間における人口動態のバランスから考えれば、近い将来に高齢者になる人のほとんどは、いまの水準と同等の介護サービスを受けることは容易ではなくなる。

■「人的リソースのひっ迫」という決定的問題

訪問型や通所型といった非効率な介護サービスはほとんどの事業所で維持困難となり、それらは現在でも次々と閉鎖に追い込まれている。どうしても自宅を離れたくないと望む、都市部の富裕層だけが限定的に受けられる贅沢品ということになるだろう。富裕層でない一般層が介護サービスを受けたいならば、都市部に集約され効率化された大規模施設に入所するほかない。もっとも都市部でもそうした施設の入所料や利用料がどんどん高騰しており、やはり中長期的にはお金持ちだけしか入れない施設になっていくだろうが。

多くの人が誤解しているのだが、医療や介護のサービスのひっ迫は、実際には金銭的(財政的)なレイヤーの問題だけではない。もちろん社会保障費の収支バランスの急激な悪化は無視することはできない深刻な課題のひとつではあるが、十数年後の未来に直面するのはそうした「金勘定」の問題だけでは済まなくなる。もうひとつのレイヤーの重大な問題が、まだ世の中にはそこまで表面化してきていない。

もうひとつの重大な問題とはすなわち、人的リソースのひっ迫である。

■医療・介護業界からの人材流出が進み、介護サービス難民が発生

いまから十数年後の2040年ごろには、だれの目にも明らかなくらい「人手不足による基本的な社会生活インフラの綻び」が広がってくる。古屋星斗らの著書『「働き手不足1100万人」の衝撃』によれば、その表題にもあるように今後あらゆる分野で人手不足が深刻化し、社会全体で見たときには1100万人もの労働力不足が発生する。数少ない希少な資源となった(若い)人的リソースを、社会のありとあらゆる業界や企業が取り合う、熾烈な争奪戦が繰り広げられることになる。

人手不足にともなうインフレと賃金上昇は加速していくため、制度によって報酬面がおおよそグリップされている医療・介護業界からは人離れが加速することにもなる。もうすでに介護業界からの人材流出の兆しは見えてきている。介護事業者が「人手不足による倒産」に追い込まれるケースが続出してきているが、今後はそうした動きがますます活発になってくる。

むろん、人びとが空前の売り手市場を追い風にして、よりよい仕事を求めて移動することは憲法で保障された自由である以上、止めることはできない。それ自体、市場競争の原理が正常に働いた結果ともいえよう。医療・介護業界はあらゆる業界の労働需要が高まるインフレ局面においては若くて優秀な人材がどんどん失われることは避けられないため、人的リソースを奪い合う時代ではどうしても「負け組」になってしまう。

人的リソースの奪い合いで介護業界が敗北してしまうこと――それを言い換えれば、介護サービスを受けたくても、そもそも提供してくれる人員が確保できないため、サービスからあぶれてしまう「介護サービス難民」が大量発生する時代の到来でもある。

■介護サービスは「権利」ではなく「サービス」だ

冒頭のニュースに対する反応でとりわけ私が気になったことがある。いま世の中の多くの人は、介護サービスのことをだれもが当たり前に享受できてしかるべき「権利」だと思っている節があることだ。よって「介護をお金持ちしか介護が受けられない可能性」については「権利侵害」の文脈で憤りを感じているように見える。

だがこれは、権利ではなくあくまでサービスだ。

食事を配膳する介護スタッフ
写真=iStock.com/byryo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/byryo

もはやこの国の当たり前の社会インフラのひとつになってしまった介護サービスが受けられなくなるかもしれない未来のことを「深刻な権利侵害だ」と考えたくなる気持ちはわからないではない。だが、繰り返しになるが介護サービスはあくまでサービスだ。エコシステムの循環によって成立するサービスであって、無尽蔵に湧き出る石油やガスと同じではない。財政的ひっ迫と人員的ひっ迫のダブルパンチによってサービスの持続可能性が損なわれれば、どうしたって維持不可能になってしまう。

■日本国憲法第二十五条「生存権」

極論すれば、金銭的問題だけの話なら、借金を積み増すとかそういった方法で当座やりすごすことは可能だったかもしれない。しかし人的リソースの問題はどうすることもできない。借金をこさえてお金をいくら刷っても、結局のところそれを受け取って働いてくれる人がいなければただの紙切れにすぎないからだ。

かりに介護サービスを本当に「権利」として考えるなら、いったいなんの法的根拠に基づいていると判断するだろうか? この問いを考えるとき、ただひとつだけ、恐ろしい可能性がある。

それはもしかして、日本国憲法・第二十五条でいう「生存権」なのだろうか。

〈日本国憲法 第二十五条〉

1.すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2.国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

1項は世の中のさまざまな場面で引用されているから世間的にも知名度は高いだろうが、しかし意外と2項については知られていない。だがこの条文でもっとも重要なのはこちらのほうだ。そう、2項はまさに医療や介護を含む社会福祉・社会保障の向上と増進を国に義務付けるものなのである。

日本国憲法第二十五条2項が、介護サービスを「権利(生存権の2項の範囲)」とし、またこのサービスの縮小や解体を「権利侵害」であるとする国民的世論が高まってしまえば(その主張を国が受け入れてしまえば)、国はかなり強い効力をもって「権利保障」に動くことになるだろう。

■介護リソースの決定的崩壊を避ける「最終手段」

ではその「権利保障」とやらは具体的にどう行われるのか。たとえば本サイトに7月に寄稿した記事で述べたような、介護もしくはそれに類する福祉領域に対する若年労働者の大規模動員いわば「徴介護」がその方法のひとつとして挙げられる。

これから十数年以内に確実に全国的に発生する医療・介護の圧倒的な需要超過(供給不足)に直面したとき、圧倒的な人口マス層であり政治的影響力の強い高齢者層がそれを「生存権の侵害だ」と本気の大合唱をしたなら、自己負担増やサービス利用を諦めてもらう方向へとゆるやかに傾きつつある現在の潮目は一気に変わってしまう可能性はある。ロジック的には「理」を通せる道筋はあるからだ。

無人のベッドと車椅子
写真=iStock.com/byryo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/byryo

もっとも、ここで書いたシナリオは私の想像あるいは杞憂にすぎない。

杞憂もしくは勝手な妄想で終わってほしいと願ってやまない。

■「介護は権利かサービスか」国民的議論は避けて通れない

だが今後、否応なしに高齢者医療・高齢者福祉の問題は政治的争点になり、高齢者側の負担増を求める声は政治的にも社会的にも大きくなることは必至だ。

その議論が沸騰しているさなか「介護は権利である」というロジックが世の中的に広く周知されてしまえば、「介護サービスの自己負担大幅増・サービスの大幅縮小」の方向の議論は停滞し、リソースもマンパワーも徴発して「権利の保障」に動く可能性はある。たんなる「市場原理の問題」から「憲法上の権利問題」のレイヤーに一気に格上げされてしまうのは、本来それくらいに政治社会的インパクトがあるのだ。

介護サービスの破綻にいまこれだけ多くの国民世論が懸念や反発を示している以上、「介護は権利かサービスか?」という問いに対する国民の共通認識をすり合わせるための議論は避けて通れないだろう。できれば、早いうちにやっておいたほうがよい。

この議論を全社会的に興したせいで「国民のほとんどが介護を権利だと思っていました!」という薮蛇が出るかもしれないが、それでも議論のテーブルを設けて、落としどころを探らなければならない。

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御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』(イースト・プレス)を2018年11月に刊行。近著に『ただしさに殺されないために』(大和書房)。「白饅頭note」はこちら。

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(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)

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