「最期まで死を受け入れられなかった」弟を膵臓がんで亡くした姉の"がん外科医"が絶望のどん底で気づいた使命
プレジデントオンライン / 2024年11月19日 10時15分
※本稿は、『医学部進学大百科2025完全保存版』(プレジデントムック)の一部を再編集したものです。
■女性目線の外科医として多くの患者を救いたい
2023年7月、日本消化器外科学会は、学会として「男女の均等な活躍を支援すること」「目標を達成するために定期的に男女の消化器外科医の手術執刀数を検証すること」などを内容とした「函館宣言」を発出した。
「やっとここまできたか……」
大阪医科薬科大学の消化器外科医・河野恵美子さんは大きな感慨をもった。
「宣言」の背景には、河野さんがまとめ上げ、世界的な学術誌が認めた女性消化器外科医に関する論文があった。
「外科を志したすべての人が活躍できる社会にするために、さまざまな活動を行ってきました。そのことが、一人でも多くの患者さんを救うことになると信じているからです」(河野さん、以下同)
宮崎医科大学医学部を卒業後、河野さんが目指したのは外科医だ。
「がん治療に取り組みたいという思いがありました。がんにはさまざまな治療方法がありますが、『自分の腕でがん細胞を取り除くことができる』という外科医の仕事に大きな魅力を感じたのです」
外科医として、先輩医師と共に多くの執刀をこなしてきたが、外科医の仕事は手術をして終わりではない。術後の経過を見守り、退院するまで手を抜くことは許されない。
■子育てと外科医の仕事、両立を目指したが……
「患者は自分の命を私たちに預けてくれるのです。メスを入れる立場として、知識と手技を常にアップデートして最高の外科医を目指しています」
外科医になって5年目に結婚、6年がたったときに子供を授かり、河野さんはいったん職場を離れた。復帰後は、学生時代から希望していた乳腺外科を専門科として選択するつもりだったという。ところが……。
「『お子さんがいるなら乳腺外科ですね』と言われて、はて、と思ったんです。“子供がいるから”という部分に違和感があって、とっさに『消化器外科でお願いします』と答えました。その一言で、私の人生が決まりました」
当時、外科は24時間365日働くのが当たり前で、子育てと外科職務を両立することは極めて難しいという考え方が一般的だった。
河野さんは、病院から徒歩1分のところに移り住み、朝8時から勤務して夕方いったん帰宅、子供の食事や入浴を済ませた後は会社員の夫に託し、自分はまた病院に戻り深夜まで勤務する、といった生活を自分に課した。
「当時、私より上の世代で活躍している女性外科医はごくわずかでした。プライベートを犠牲にして仕事にまい進してきた、極めて優秀な人だけです。私は、子育て支援が充実している病院に勤務していましたが、それでも泣く泣く外科を去る後輩外科医を見てきました。もし私が夢と希望を与えられる仕事をしていたら、後輩たちは仕事を辞めずに済んだかもしれない。引き止める力もなく、ただただ唇をかみしめるしかなかった。情けなかったです」
2008年、河野さんは日本外科学会定期学術集会で「子育て外科医は継続可能か?」というタイトルで発表した。当時は「男女共同参画」といったカテゴリーはなかったが、自分にしかできない女性目線の発信をしていこうと、その後も学会での発表を続けてきた。
「外科を志した女性が普通に働ける環境にしたい、そんな思いが強かったですね」
女性外科医を取り巻く環境の一つに、手術器具の問題もある。
「外科手術に使う医療機器は海外メーカーのものが多く、それらは欧米の男性の手の大きさや握力に合わせてつくられています。手術の際、血管や腸管などをしっかりつなぐことが求められますが、女性医師にとってそれらの器具は重くて大きすぎるので、正確かつ繊細に使いこなすことが大変に難しかったのです」
11年、河野さんは「外科医の手プロジェクト」を発足。メーカーと交渉して、男女共用仕様の医療機器の開発に携わるようになる。
15年には、東京大学の野村幸世さん、日本バプテスト病院の大越香江さんと共に、女性消化器外科医に対する臨床・研究および手術手技向上のための支援、情報交換、教育啓発活動などを目的とした「消化器外科女性医師の活躍を応援する会(AEGIS-Women)」を設立。子育て中の女性医師でも参加しやすいよう託児サービス付きのセミナーや、セミナーのオンデマンド配信などもスタートさせた。
獅子奮迅の活躍を続ける河野さんに、16年、大きな出来事が起きた。弟が、すい臓がんで亡くなったのだ。
「ショックを受けたと同時に、自分が患者の家族になってみて、患者やそのご家族が、どんな思いで病気と向き合っているのか、身に染みました。絶望のどん底にいるとき、外科医の存在がどんなに救いになり希望になるのか。以前にもまして私は外科医として患者と向き合うようになりました」
子育てと家事、外科医としての仕事、医療機器の研究と開発、そしてAEGIS-Womenの活動。四刀流の日々を懸命にこなした河野さんだが、3年目に自分の体が悲鳴をあげて倒れてしまった。
■多くの患者を救うために手術から器具の開発へ
「弟は最期の瞬間まで死を受け入れることができず、新しい治療法を待ち望んで亡くなりました。その姿を目の当たりにし、こういう患者のために研究や開発があるのだと心の底から思いました。それまでの私は、臨床で手術をすることにこだわってきました。でも、外科医としてできることはそれだけではない。私は手術器具のことを細々ながらやってきた。開発のチャンスがあるならば、そこに挑戦することが、より社会全体の役に立つのではないか」
その後、河野さんは臨床を離れて大学に飛び込む決断をする。それが多くの患者を救うことにもつながると信じて。
「今、日本の外科医の世界は大きな危機に直面しています。病院に勤務している外科医の数は04年には約1万8000人でしたが、20年には1万1000人を下回るほどに減っています。平均年齢も50歳を超えていることから、新たな外科医のなり手が減っていることは明らかです。その一方で、30歳未満の女性外科医の割合は約20%の時代となりました。これからの時代、女性の力なくして外科は成り立っていきません」
19年、大阪医科薬科大学に移籍。機器の研究、開発にまい進した。さらに、18年から取り掛かっていた「外科医師の男女差に関する論文」にも本格的に取り組んだ。手術症例データベース「National Clinical Database(NCD)」のビッグデータを解析し、これまで見えなかった「執刀数の男女格差」を明らかにしたうえで、「手術の難易度が高くなるほど男性医師が配置される傾向にあること」「手術の短期成績に執刀医の男女による差はないこと」などを客観的に証明したのだ。
この論文は、医学系の5大雑誌である「JAMA Surgery」と「BMJ」に掲載された。世界が評価したのだ。
さまざまな偏見や誤解が要因となっていた消化器外科の世界における男女格差。その「ゆがみ」を正すことが女性医師の権利の回復のみならず日本の医学界を救う道なのだ。冒頭の「函館宣言」は、河野さんが描いた姿に現場が近づいた証しだ。
AEGIS-Womenの会長として、若手の育成にも力を入れている。女性外科医向けの1泊2日のセミナーはすぐに満席になりリピーターも多い。
「セミナーでは、最高の手術手技を学んでほしいので最強の講師陣を呼んでいます」
河野さんは、最後にこう語る。
「子供をもった後、私はさまざまな挫折や理不尽を経験してきました。それでも、外科医として患者に全力で向き合い、ライフワークは女性目線での仕事を貫いてきました。人は評価しないかもしれませんが、自分の信念を曲げず、仕事にプライドをもって一生懸命取り組んできました。子供は高校3年生になりました。現在も外科医としてさらなる高みを目指し挑戦し続けている、それだけで私は十分に幸せです」
2001年 宮崎医科大学(現宮崎大学)医学部卒業
2008年 日本外科学会定期学術集会にて「子育て外科医は継続可能か?」を発表後、女性医師の活動を開始
2011年「外科医の手プロジェクト」発足
2012年 大阪厚生年金病院賞(学術部門)受賞
2015年 2人の女性外科医とAEGIS-Women設立。京都大学外科交流センター学術賞受賞
2020年 内閣府男女共同参画局「女性のチャレンジ賞」受賞(個人)
2022年 パブリックリソース財団主催女性リーダー支援基金。「一粒の麦」受賞
2023年 日本消化器外科学会総会において「函館宣言」
2024年 内閣府男女共同参画局「女性のチャレンジ支援賞」受賞(AEGIS-Women)
(プレジデントFamily編集部 文=金子聡一 撮影=梅田佳澄)
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