日本経済の復活には欠かせない…「103万円の壁の見直し」がもたらす"手取りが増える"以外の効用
プレジデントオンライン / 2024年11月20日 11時15分
■税負担の有無を隔てる「103万円の壁」
衆院選の結果、自民・公明連立政権は少数与党となり、議席数を7から28へ大幅に伸ばした国民民主党がキャスティングボードを握ることとなった。その国民民主党の玉木代表が打ち出した目玉政策の一つが年収の「103万円の壁」見直しである。
この「103万円の壁」については、すでに数多く報道されているが、複雑な仕組みであり、議論が錯綜している印象もあるため、改めて内容を整理したい。
まず、対象となるのは給与所得だけを得ている人であり、事実上はパートタイムやアルバイトといった非正規労働者に絞られ、所得税と住民税がかかり始める年収103万円を「壁」と呼んでいる。
103万円の根拠は、所得税や住民税を計算する際、実際の年収から差し引かれる基礎控除48万円と給与所得控除55万円の合計である。なお、基礎控除とは「最低限度の生活を維持するため」の額とされ、所得額に応じて金額は減少し、所得2500万円以上でゼロとなる。
また、給与所得控除とは、自営業者と同様に経費を一定額ではあるが認めるものであり、その額は所得が増えるに応じて決まるが、195万円を上限とする。
所得税・住民税は、年収がこれら基礎控除等の合計103万円を超えた部分に対してのみにかかり、所得195万円までだと所得税の税率は5%、住民税は10%、合わせて15%である。つまり、年収110万円であれば、103万円との差額7万円に対して15%、1万500円の税金がかかり、税引き後の手取りは109万円ほどになる。
同様に、年収150万円では税金6万4500円、手取りは143万円ほど、年収200万円では税金14万5500円、手取り185万円程度となる。年収が増えると税負担が加速度的に増えている印象はあるが、手取り額も順調に増えているため、年収の「壁」という表現が適当かどうかは議論の余地があろう。
■もう一つの「103万円の壁」の側面
さらに、扶養を受ける立場の配偶者や子供であれば、自らの手取り額だけでなく、世帯主の納税額にも年収「103万円の壁」が影響する。世帯主側から見ると、配偶者や子供がいれば配偶者控除や扶養控除が受けられ、その分、所得税や住民税の負担が軽くなる場合があるが、その条件は配偶者や子供の年収が103万円以下となっているためである。
配偶者控除が受けられるのは、年収900万円以下であれば基本的に38万円であり、年収が高いと控除は減り、1000万円を超えるとゼロになる。一方の扶養控除は、子供の年齢が16歳以上30歳未満で38万円、19歳以上23歳未満(特定扶養親族)であれば63万円に増える。
ただ、配偶者や子供の年収が103万円を超えると、これらは適用されない。例えば、年収500万円の世帯主の所得税・住民税は、配偶者控除により計7万6000円、特定扶養親族が1名いれば計12万6000円も軽減される。そのため、これらが失われるのは正に「壁」であろう。なお、配偶者控除については、配偶者特別控除が2018年に改定され実際には「壁」が150万円まで後退している。
■会社規模で異なる社会保険料の「年収の壁」
こうした「年収の壁」は、社会保険料の支払いが生じ始める所得水準という形でも存在する。一つは「106万円の壁」、もう一つは「130万円の壁」であり、両者の違いは、勤務先の事業所の規模である。
前者は従業員51人以上、後者は50人以下なので中小企業をイメージすればよいだろう。前者の場合、残業代などを除いた基本給部分の年収が106万円を超えると、原則として社会保険へ加入する必要があり、社会保険料の目安は年収120万円で月1万3900円、年間で17万円程度となる。
そのため、仮に年収を105万円に抑えておけば、税負担はほとんどなく手取り額も105万円近くあるものが、年収106万円となれば、税引き後の105万円強から更に社会保険料が引かれ、手取り額は90万円程度になってしまう。
給料を1万円増やしたばかりに、手取りが15万円も減ってしまうので、明らかな「壁」である。「130万円の壁」も、金額が異なるだけで仕組みは同じである。
■厚生労働省が「壁」撤廃を検討している理由
なお、こうした社会保険料を巡る「年収の壁」については、厚生労働省が撤廃を検討していると報じられた。
正確には、社会保険の加入条件である①週の所定労働時間が20時間以上、②所定内賃金が月額8.8万円以上(年額105.6万円)、③2カ月を超える雇用の見込みがある、④学生ではない、の4条件のうち、②の年収105.6万円以上という条件を撤廃するものである。併せて従業員規模による区別の撤廃も検討されている。
検討の背景には賃金の上昇がある。上記①の条件である「週の労働時間20時間」は、1カ月を4週間と1日(4.2週間)とすれば「月間84時間」となる。これに、2024年度の全国平均の最低賃金1055円を掛けると8万8620円となり、②の月額8.8万円を上回る。
つまり、賃金水準が上がってきたため、①の条件を満たせば多くの場合②の条件も満たしてしまう。さらに、今後も賃金の上昇が続けば、②の条件は近い将来、完全に不要になる。今回の厚生労働省の検討は、それを先取りしたに過ぎない。
重要な点は、その結果、社会保険に関する「壁」は、年収から労働時間に軸が移り、今後は「週労働20時間」が意識されるということである。
■バイトやパートの多くが「103万円の壁」や「130万円の壁」を意識
見直しを迫られている「年収の壁」であるが、これまで非正規雇用の就労行動に大きな影響を与えていたことがデータから確認できる。
総務省「就業構造基本調査」の最新2022年調査によると、パートやアルバイトなど非正規雇用2111万人のうち、就業調整をしている人の数は全体の約4分の1に相当する537万人に上っている。
そのうち、年収50万~99万円では46%の259万人が就労調整をしており、うち約7割の186万人は「配偶者あり」、約2割の53万人が学生とみられる「15~24歳」である(図表1)。また、年収100万~149万円では40%の186万人が就労調整をしており、うち85%にあたる158万人が「配偶者あり」だった。
こうした実際の就労行動から、学生アルバイトの多くで「103万円の壁」が意識され、配偶者のあるパートタイム労働者では「103万円の壁」や「130万円の壁」が強く意識されている様子が窺える。これらの「壁」は明確に存在していたと言えよう。
■「年収の壁」見直しは日本経済復活の支えになる
以上の制度変更や就労状況の現状を踏まえ、「壁」見直しの効果について考えてみたい。国民民主党は、所得税・住民税の基礎控除と給与所得控除の合計103万円を178万円に引き上げたいとしている。
その根拠は、1995年から実質的に据え置かれている基礎控除などの水準を、その間の賃金上昇に応じて見直すべきだというものである。賃金ではなく物価の上昇に応じた幅にすべきだという指摘もあるが、所得水準に伴って最低限の生活水準も上がると考えるのであれば、一定の合理性はあろう。
いずれにしても、この通り見直しを行えば、給与所得が年間300万円であれば所得税・住民税合わせて11.3万円減少、500万円であれば15.0万円、1000万円なら24.4万円の減税となり、その分、手取り額は増える(図表2)。デフレ脱却に向けて個人消費主導の景気回復を目指す日本経済にとって、大きな追い風となろう。
■「年収103万円の壁」の見直しだけでは不十分
また、就労調整の必要性が低下することで、追加的な労働力が捻出され、人手不足が緩和する効果も期待できる。
現在、就業調整をしている非正規労働者の平均労働時間は1日4時間(週20時間)程度とみられるが、これを1日5時間(週25時間)まで引き上げれば、労働力(労働投入量=就業者数×労働時間)は全体の約1%増加する。さらに、年収の「178万円の壁」に見合うと考えられる週27時間へ引き上げれば、労働力は1.4%増加する。
その場合、人手不足がどの程度緩和されるのか。当社が労働投入量と実質GDP成長率の関係を単純に計測した結果によると、成長率1%に見合う労働投入量の増加は0.59%であった。
当社は2025年度から2026年度にかけて年1%程度の経済成長を見込んでいるが、これに基づけば2年強の成長を賄う程度の労働力が捻出できることになる。これは、人手不足が経済成長の制約要因になりつつある日本経済にとって、持続的な成長のため極めて有効であることは間違いない。
ただ、これを実現するためには、税に関する「年収103万円の壁」の見直しだけでは不十分である。労働時間が週20時間を超えれば社会保険料の支払いが発生するため、社会保険に加入するメリットを強く感じない限り、労働時間は増えない。
■大幅な税収減をどう補うのか
そのほか、問題点が幾つか指摘されている。筆頭に挙がるのは、所得税・住民税の大幅減収である。
国民民主党が掲げる基礎控除等の178万円への引き上げによる税収減は、政府の試算によると7.6兆円にも上る。政府の債務がGDPの2倍を超え先進国で最悪の財政状況にあるだけでなく、防衛費倍増や異次元の少子化対策実施のための財源確保が必要な点も考慮すると、このような大幅な税収減は容易には受け入れられない。
「年収の壁」見直しの主目的が手取り額の増加であるなら、その対象を、相対的に所得水準の低い世帯に絞ることで、税収の落ち込み幅を縮小すべきであろう。円安や資源高による食料品やエネルギーの価格の上昇は、全ての世帯に悪影響を及ぼしてはいるが、こうした生活必需的な品目の価格上昇による影響は、これらの支出の割合が高い低所得者層ほど大きい。
総務省「家計調査」によると、昨年から今年にかけて、ほとんどの所得階層で食費は増加したが、その増加額は所得階層による明確な違いは見られない(図表3)。
一方で、消費支出全体に占める食費の割合を示すエンゲル係数は、年収200万円未満の世帯では34%程度であるが、年収450万~500万円では29%程度、900万~1000万円では26~27%であり、所得が高いほど食費の負担は小さい。そのため、食料品価格の上昇による悪影響は、所得の低い層ほど大きい。
■所得税率をセットで見直せば「財源問題」は解決できる
「年収の壁」見直しのための財政負担を抑える方策として、178万円までとしている基礎控除等の引き上げ幅を縮小する案が有力視されているが、それだけでは高所得者の減税額が相対的に大きい状況は変わらない。そのため、所得税の累進税率構造を修正することで、高所得者層の減税幅を縮小することも検討すべきであろう。
筆者の試算では、基礎控除等を103万円から178万円に引き上げた場合でも、税率20%を適用する所得の下限を現行の330万円から230万円に、23%の適用下限を695万円から300万円に、33%の適用下限を900万円から796万円に引き下げれば、減税幅は給与所得500万円まではほとんど変わらないが、700万円で22万円強から約10万円に縮まり、1200万円では30万円強がゼロとなる(図表4)。
■「手取りを増やす」だけで終わらせてはいけない
そのほか、社会保険制度については、そもそも「130万円の壁」の内側にいる配偶者に基礎年金の受給権を与える「3号被保険者制度」を廃止すれば良いのではないか、との指摘も少なくない。
ただ、限られた範囲で働く非正規雇用を選んだ理由の上位には、自由な時間に働けることや、家計の補助や学費を得ること、育児や介護など家庭の事情との両立、などが並んでおり、フルタイムで働く必要がないか、何らかの事情でフルタイムでは働けない人が多くを占めている。
そのため、社会保険料負担を負ってまで労働時間を増やそうとする人が多いとは思えず、少なくとも労働力捻出の観点では有効ではないだろう。
結局のところ、「103万円の壁」見直しの目的が、ただ手取りを増やすだけなのか、それによってデフレからの完全脱却に向けた個人消費の安定的な拡大を目指すのか、経済成長を制約する人手不足の解消につなげたいのか明確でないことに、議論が錯綜している原因があるのではないか。
■人手不足緩和で成長余地を生み出し、社会保険を安心できる制度に
財源を気にせず、選挙の票を買うかの如く国民から集めた金をばら撒くだけであれば、本質的には政治資金の問題とさほど違いはない。
一方で、「年収の壁」へ注目を集めたことは、いよいよ女性と高齢者頼みの労働力捻出に限界が近づくなかで、新たな人手不足対策の切り口を提供し、その根底にある社会保険制度の抱える問題にまで焦点を当てるという成果につながったように思う。
なかでも、社会保険の加入を拒み、労働時間を制限する動きからは、社会保険制度に対する強い不信感が感じられる。いわゆる「3号被保険者」が社会保険に加入するメリットは、将来受け取る年金額が増加することのほか、厚生労働省のパンフレットには傷病手当金の支給や、雇用保険に加入すれば失業給付や育児休業給付も受けられると書かれている。
ただ、現実には、それらのメリットは保険料負担に見合わないと評価されている。社会保障制度に対する信頼回復のため、制度間の重複機能や世代間の負担と給付のバランス格差、保険料の未収問題など、公平性や持続可能性を低下させる問題の解決が急務であろう。
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伊藤忠総研社長・チーフエコノミスト
1990年3月、大阪大学工学部応用物理学科卒業、2022年3月、法政大学大学院経済学研究科修了。1990年4月、第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。第一勧銀総合研究所(現みずほ総合研究所)、みずほ銀行総合コンサルティング部などを経て、2009年1月、伊藤忠商事入社、マクロ経済総括として内外政経情勢の調査業務に従事。2019年4月、伊藤忠総研へ出向。2023年4月より現職。テレビ東京「モーニングサテライト」でレギュラーコメンテーター、日経QUICK東京外為コメンテーター。
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(伊藤忠総研社長・チーフエコノミスト 武田 淳)
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