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なぜ「大した結果も出していない人」が出世するのか…日本の人事制度が「完成形」にたどり着けない哲学的理由

プレジデントオンライン / 2024年12月1日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/GeorgiosArt

努力して結果を出しても、評価されないと感じる人がいる。一体なぜなのか。コンサルタントの山口周さんは「人事制度は、ほとんどの企業でうまく働いていない、むしろ茶番と言っていい状態になっている。この問題を考えるうえで、プロテスタントの『予定説』という概念が役に立つ」という。山口さんの著書『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』(KADOKAWA)から紹介しよう――。
ジャン・カルヴァン(1509~1564)
フランス出身の神学者。マルティン・ルターやフルドリッヒ・ツヴィングリと並び評される、キリスト教宗教改革初期の指導者。いわゆる「長老派教会」の創始者。

■ローマ・カトリック教会にケンカを売ったルター

皆さんもご存知の通り、16世紀に始まった宗教改革は、マルティン・ルターによって口火を切られています。ルターはカトリック教会から破門され、帝国から追放されることになりますが、ザクセン選帝侯によって保護を受け、神学の研究にさらに打ち込みます。こののちルターの教えはドイツばかりか、ヨーロッパ全土へと広まっていき、やがて「プロテスタント」と呼ばれる大きな運動へとつながっていくことになります。

プロテスタントという言葉は、いまやごく普通に用いられる名詞になってしまいましたが、あらためて確認すれば、もともとは「異議を申し立てる」という意味です。これを意訳すれば、つまりは「ケンカを売る」ということで、ではその「ケンカを売る」相手は誰なのかというと、当時のヨーロッパ世界を思想的に支配していたローマ・カトリック教会ということになるわけですから、これは本当にスゴイことなんですね。時代への登場の仕方が実に「ロケンロール」です。

■「贖罪符」にケチをつけた

さて、このルターの問題提起はローマ・カトリック教会にとっては、非常に「面倒くさい」ことでした。というのも、彼らの大きな財源であった贖罪符(註)に関する神学的な意味合いにケチを付けたからです。

(編註)信徒がこれを購入することで、罪の償いが免除されるとした証書

実はこの時期、贖罪符については、ローマ・カトリック教会の内部でも「アレはどうかと思うけどね」という神学者も多くて、綺麗に整理のついていない状態のまま、半ば教皇をはじめとした権力者がつくりだした「空気」に押し切られる形で販売されていたという側面があります。ルターの問題提起はそういう意味で、ローマ・カトリック教会の「痛いところ」をついちゃったわけです。

■善行を積んだかどうかは関係ないという「予定説」

このマルティン・ルターのロケンロールなシャウトを受けつぎ、これを洗練させるようにしてプロテスタンティズムに強固な思想体系を与えたのがジャン・カルヴァンでした。この思想体系が、やがて資本主義・民主主義の礎となり、世界史的な影響力を発揮していくことになります。

では、そのポイントは何か。カルヴァンの思想体系を理解するための、最大の鍵が「予定説」です。予定説とは、次のような考え方です。

ある人が神の救済にあずかれるかどうかは、あらかじめ決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことは、まったく関係がない。

実に、信者ではない人からすると驚くべき思想です。当時、悪名高かった贖罪符によって救われることはない、というのならわかります。事実、ルターの最初の問題提起はその点を問うていました。しかしカルヴァンの思想はそうではない。贖罪符によって救われないのは当然のこととしながら、そもそも「善行を働いた」とか「悪行を重ねた」とかいうこと自体が、どうでもいいことだ、とカルヴァンは主張したわけです。

■聖書にも「予定説」は登場する

これはカルヴァンが生み出した独自の思想なのでしょうか。いや、そうではありません。カルヴァンは、ルター以上に「聖書」というテキストに徹底的に向き合った人です。では「予定説」は聖書に書かれていることなのか。うーん、確かに聖書を読むと、カルヴァンの「予定説」として読める箇所があることがわかります。

例えば新約聖書の「ローマの信徒への手紙」第8章30節には、「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」と書かれている。聖書を読んでいくと、このような「あらかじめ定められた」という言葉がキーワードのようにあっちこっちに出てきますから、テキストを字義通りに読んでいけば、「予定説」という考え方は当然出てくることになります。

一点注意を促しておきたいのが、現在、予定説を認める教派は少数派であり、これをキリスト教の普遍的な教義だと考えるのは誤りだ、ということです。例えば最大教派であるローマ・カトリック教会ではトリエント公会議において正式に「予定説は異端」とされていますし、他にも、東方正教会には全く受け入れられておらず、メソジストは予定説を批判するアルミニウス主義を採用しています。

■報酬をもらえる人はあらかじめ決まっている

ということで、ここから先は、この予定説が、主にプロテスタントを中心にして見られる教義だという前提で読み進んでください。

さて、あらためて考えてみたいのは、これほどまでに、言ってみれば「御利益」のなさそうな教義が、進化論的に言えば「淘汰」されずに受け入れられ、やがて資本主義や民主主義の礎となっていったのはなぜなのか、という問題です。

予定説によれば、信仰を篤く持とうが善行を多く重ねようが、その人が神によって救済されるかどうかには「関係ない」ということになります。この考え方は、私たちが一般に考える「動機」の認識と大きな矛盾を起こしますよね。

「報酬」と「努力」の関係で言えば、「報酬」が約束されるから「努力」するための動機が生まれる、というのが通例の考え方でしょう。ところが、予定説では「努力」は関係なく、あらかじめ「報酬」をもらう人ともらえない人は決まっている、と考えます。

この因果関係を仏教と比較してみると予定説の異常さが際立ちます。仏教では因果律を重視します。全宇宙は因果律によって支配されており、釈迦の大悟はこの「因果律」の認識によっている。釈迦は全宇宙を支配する因果律を「ダルマ=法」と名付けました。当然のことながら、釈迦以前から「ダルマ=法」は存在していた、つまり教祖とは別に絶対的に法は存在したわけで、だから「法前仏後」となるわけです。

予定説はこれをひっくり返します。神が全てを予定、つまり「予め、定め」ているわけで、ここに因果律は適用されません。だから、プロテスタンティズムは「神前法後」になるわけです。私たち日本人にとって「因果応報」という考え方はしっくりきますが、これは仏教の影響が色濃いのであって、プロテスタンティズムでは必ずしもそうは考えない、ということです。

■「予定説」の下でも人は頑張った

さて「努力に関係なく、救済される人はあらかじめ決まっている」というルールの下では、人は頑張れないし無気力になってしまうように思うのですが、どうなのでしょうか。

いや「まったく逆だ」と主張しているのがマックス・ヴェーバーです。あの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の著者です。マックス・ヴェーバーは、まさに『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、カルヴァン派の予定説が資本主義を発達させた、という論理を展開しています。

お金は徐々に高く積み上げられ、最初からゴールまで遠く離れた
写真=iStock.com/takasuu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu
山口周『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』(KADOKAWA)
山口周『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』(KADOKAWA)

救済にあずかれるかどうか全く不明であり、現世での善行も意味を持たないとすると、人々は虚無的な思想に陥るほかないように思われるでしょう。現世でどう生きようとも救済される者はあらかじめ決まっているというのなら、快楽にふけるというドラスティックな対応をする人もいるはずです。

しかし、人々は実際にはどうだったかというと、そういう人ももちろんいたのでしょうが、多くの人はそうはならなかった。

むしろ「全能の神に救われるようにあらかじめ定められた人間であれば、禁欲的に天命(ドイツ語で“Beruf”ですが、この単語には“職業”という意味もある)を務めて成功する人間だろう、と考え、『自分こそ救済されるべき選ばれた人間なんだ』という証しを得るために、禁欲的に職業に励もうとした」というのがヴェーバーの論理です。

■人事制度に「茶番」がある理由

浅薄な合理主義に毒されている人からすると、ヴェーバーのこの主張はちょっとした詭弁に聞こえるかも知れません。しかし、例えば学習心理学の世界ではすでに「予告された報酬」が動機付けを減退させることが明らかになっている、という事実を知れば、私たちの「動機」というのが、シンプルな「努力→報酬」という因果関係によっては駆動されていないらしいということが示唆されます。

これはまた、現在の人事制度が、ほとんどの企業でうまく働いていない、むしろ茶番と言っていい状態になっていることについて考える、大きな契機をはらんでいると思います。人事評価が前提としている「努力→結果→評価→報酬」という、一見すれば極めて合理的でシンプルな因果関係が、これだけ不協和を起こし、数十年かけても未だに洗練された形で運用できないのはなぜなのか。

■努力するだけ報酬が得られる世界はつまらない

人事評価制度の設計では「頑張った人は報われる、成果を出した人は報われる」という考え方、つまり先述した「因果応報」を目指します。しかし、では実際にその通りになっているかというと、多くの人はこれを否定するのではないでしょうか。むしろ、人事評価の結果を云々する以前に、昇進する人、出世する人は「あらかじめ決まっている」ように感じているはずです。

女性が青い棒グラフを通って上がり、男性は棒グラフの最終地点に到達するショートカットを見つけた
写真=iStock.com/ismagilov
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ismagilov

その上でなお、因果応報を否定する予定説が、資本主義の爆発的発展に寄与したのであるとするならば、私たちはなんのために莫大な手間と費用をかけて「人事評価」というものを設計し、運用しているのか、あらためて考えるべきなのかも知れません。

本節の締めくくりとして、哲学者の内田樹の次の指摘を紹介しておきます。

自分の努力に対して正確に相関する報酬を受け取れる。そういうわかりやすいシステムであれば、人間はよく働く。そう思っている人がすごく多い。雇用問題の本を読むとだいたいそう書いてある。でも僕は、それは違うと思う。労働と報酬が正確に数値的に相関したら、人間は働きませんよ。何の驚きも何の喜びもないですもん。
(内田樹・中沢新一『日本の文脈』)

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山口 周(やまぐち・しゅう)
独立研究者・著述家/パブリックスピーカー
1970年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修了。電通、ボストン・コンサルティング・グループ等を経て現在は独立研究者・著述家・パブリックスピーカーとして活動。神奈川県葉山町在住。著書に『ニュータイプの時代』など多数。

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(独立研究者・著述家/パブリックスピーカー 山口 周)

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