NHKは「吉原の闇」をどこまで描くのか…次の大河の舞台「江戸の風俗街」で働く遊女4800人の知られざる生活
プレジデントオンライン / 2024年11月30日 18時15分
※本稿は、永井義男(監修)『蔦屋重三郎の生涯と吉原遊廓』(宝島社)の一部を再編集したものです。
■約4800人の遊女が住む吉原で生まれ育った
吉原遊廓については「江戸の文化の発信地」であるとか、「江戸の流行の源泉」とかさまざまな言われ方があります。しかし、その根本は公許の遊廓、つまり「風俗街」であり、そこで働く遊女は「風俗嬢」であるということです。吉原遊廓の本質はそこにあることを、まずは押さえなくてはいけないと思います。公許の遊廓としてスタートした吉原は、1657(明暦3)年に、現在の日本橋人形町から台東区千束へと移転して、浅草寺の裏手に広がる田圃の中に新吉原が作られました。
時代によって多少の増減はありますが、千束へと移った新吉原の場合、2万坪ほどの敷地に、およそ1万人が居住していたとされます。
1846(弘化3)年の「町役人書上」によれば、男性1439人、女性7339人と総人口は8778人とされます。女性のうち遊女は4834人ですから、まさに女性たち、とりわけ遊女たちの活躍で成り立つ世界でした。
俗に「遊女三千」と言われますが、おおよそ実際の数字と合っているのではないかと思われます。
このおよそ1万人の吉原の住民のひとりとして生まれたのが、蔦屋重三郎でした。蔦重の両親もおそらくは遊女に関わる仕事をしていたはずです。たとえ妓楼(ぎろう)の生まれでなくとも、蔦重は子供の頃からそうした世界に接していたことでしょう。
生粋の吉原っ子であり、吉原のことを知り抜いていた。それが、蔦重の版元としてのキャリアに大きな影響を与えました。
■大名や豪商が夜な夜な豪遊した「伝説的な時代」
吉原遊廓の歴史を江戸時代で区切るとすれば、およそ250年の歴史をもつと言えます。
最初の40~50年が、今の日本橋人形町に設置された元吉原です。1657(明暦3)年3月に明暦の大火が起こりますが、その後に現在の千束付近に移転し、これが新吉原となります。
まだ江戸市中にあった元吉原の頃が最初の40~50年であり、第1期とすれば、江戸の郊外にあたる千束に移った新吉原が第2期となります。それからおよそ100年の時が経過して、宝暦年間(1751~1764年)の頃に、吉原のシステムが一変します。ここからの100年間を第3期とします。
吉原の全盛のひとつは、やはり第2期の宝暦以前の新吉原であり、それは端的に「太夫(たゆう)」がいた時代でした。太夫とは吉原の最上級の遊女に対する呼称です。太夫時代の吉原遊廓で遊ぶには、客は莫大な資金を要しました。本当に選ばれた者しか、吉原遊廓では遊べない時代です。その分、格式があり、大名や豪商ら夜な夜な豪遊した、伝説的な時代でした。
■文化面では、江戸よりも関西のほうが「上」だった
当時の江戸は、元禄のバブル期へと突入し、大変潤った頃です。経済的には大きく成長した江戸ですが、しかし、文化面ではまだまだ、上方のほうが上でした。蔦重が参入する出版にしても、当時はまだ上方中心です。有名な近松門左衛門や井原西鶴も、みな関西の出版界で活躍していました。彼らが書く遊里とは、京都の島原遊廓、大坂の新町遊廓を題材としていることがしばしばでした。
しかし、元禄のバブル期が落ち着いてくると、やがて江戸でも独自の文化が発達してきます。大名ら武士階級が経済的な痛手を被り衰退していく一方で、急速に発展してきたのが、江戸の商人たちであり、江戸庶民でした。
庶民文化が興隆してくる最中で、吉原遊廓のシステムがガラッと変わります。宝暦以前は、妓楼に所属する遊女たちを揚屋に呼び出して遊ぶというのが通例でした。現代風に言えば、デリバリー・ヘルスです。揚屋方式は、客の負担が非常に大きい遊び方です。呼び出し料も必要ですし、揚屋の部屋代、飲み食い代も必要です。妓楼から揚屋まで、太夫が客の元に向かう際には、新造(しんぞう)や禿(かむろ)、若い者を従えていくわけですから、その分のお金もすべて工面しなければなりません。
■バブル崩壊で、時代劇でもお馴染み「吉原」が誕生
ただ、逆に言えば、妓楼に直接上がらなくても、揚屋に遊女を呼べば大名も気兼ねなく遊べましたし、宝暦以前はそれだけの大きな額を負担できるほどの経済力がありました。
しかし、元禄のバブルが弾けてしまうと、たちまちに財政難となり、大名も豪遊ができなくなりました。吉原も劇的な転換を迫られたのです。こうして、宝暦末までに、徐々に揚屋のシステムに変更が加えられていきます。「太夫」や「揚屋」がなくなると、客が直接に妓楼で遊ぶ仕組みへと変わりました。いわば、今の店舗型の風俗店になったのです。そして、妓楼と客の仲介役・紹介役を引手茶屋が務めます。まさに風俗の案内所です。
時代小説や漫画などの題材となり、現代人が思い描く吉原とは、この宝暦以降の、「太夫」がいなくなった吉原なのです。
■「時代の転換期」に生まれた蔦屋重三郎
この吉原の転換期と同じ時期、出版界においても大きな転換期が訪れました。江戸にも独自の本屋・版元が生まれ、上方中心だった出版文化が江戸へと移ってきたのです。その渦中で、本屋を開業したのが、蔦屋重三郎でした。
蔦重は吉原大門前の五十間道(ごじっけんみち)に店を出しますが、そこで吉原遊廓のタウンガイドである『吉原細見』を売り出します。吉原細見は各妓楼にどんな遊女が所属しているのか、茶屋や吉原の芸者たちの情報や金額などを含めた、吉原の総合ガイドブックです。正月と7月の年2回発行されますが、妓楼内の遊女の移り変わりも激しいため、改訂版なども随時、刊行されました。
そのため、新興の本屋としては、確実な定期収入になる、堅い仕事でした。
吉原細見を作っていくには当然、吉原の人たちの協力が不可欠です。吉原出身の蔦重に、吉原の人たちも全面的に協力してくれたのでしょう。またそれは、吉原にとっても益のあることでした。江戸市中の外にあり、庶民の生活とは隔絶した世界であった吉原遊廓を、出版物を通じて巧みに宣伝・プロデュースしたのです。
蔦重は盟友である山東京伝(さんとうきょうでん)らとともに吉原を舞台にした流行の大人向け絵本である黄表紙や洒落本を、多数刊行します。また、勝川春章や北尾重政といった既に浮世絵界の重鎮である絵師とともに、吉原遊廓を美しく表現した絵本を出版しました。寛政期に入ると、早くから目をかけていた喜多川歌麿の才能を見抜き、美人絵の作者として起用します。吉原の遊女をまるで、ファッション・スターのように描いて売り出したのです。
■巧みな「ブランディング戦略」で文化の発信地に
そうすることで、吉原遊廓は江戸庶民の流行文化の発信地となり、蔦重の出版物が売れるほど吉原のブランド価値も高まっていきました。黄表紙や洒落本、浮世絵を通じて巧みに吉原を演出し、これに惹かれた人々がこぞって吉原を訪れ、遊んでいく。まさに蔦重は吉原とウィンウィンの関係を築きました。
また、当時、戯作者の多くは下級の武士たちでした。基本的には原稿料は出ない趣味の範囲で、教養ある武士が戯作を書いていたのです。そうした戯作者を、自分の版元に繫ぎ止めるために、蔦重は吉原を活用しました。このような武士たちは、基本的には家禄で食べていけるけれども、吉原で遊べるほどのお金はない人間たちです。蔦重は彼らを吉原の馴染みの茶屋に呼んで接待し、妓楼まで面倒を見たのでしょう。まさに作家を銀座の高級クラブで接待するようなものです。蔦屋から本を出せば吉原で遊べるとなれば、みんな蔦屋から出したいと思うわけです。
ですから、さまざまな意味で蔦重は吉原を利用し、活用していました。反対に吉原のほうも、蔦重の作る出版物によって、吉原自体の価値を高めることができた。蔦重が吉原の宣伝・広告を担うことで、吉原遊廓も賑わい、さらに発展していく。吉原との持ちつ持たれつの蜜月が、蔦重の生涯を通じて続いたのです。
■加速していった「華やかで煌びやかなイメージ」
蔦重が売り出した出版物によって作られた、吉原の華やかで煌びやかなイメージは、それ以降もさらに加速していきます。より幕末に近づくにつれて、女性連れの江戸観光も増えましたが、江戸見物の一環で、浅草寺の観音様を訪れたついでに吉原見物もするというのが定番の観光コースとなりました。吉原で遊ばなくとも、あくまで見物に来る。今で言うなら、東京見物に来たらディズニーランドに寄るようなものです。
新撰組の前身である浪士組を組織した清河八郎という勤王志士がいます。彼は庄内藩、今の山形県出身ですが、郷里の母親をつれて旅行で江戸を訪れています。母親が見たいとせがむので、清河は母と一緒に、吉原遊郭に見物に行ったという記録があります。
このような観光地としてのイメージは、蔦重の登場以降、より強まったと言えます。それだけにこと吉原遊廓に注目すると、蔦重が果たした役割はとても大きいのです。
■裏側には、「苦界」と呼ばれた過酷な境遇
しかし、冒頭でお話ししたように、どんなにエンタメ化されようとも、吉原遊廓の本質はあくまでも風俗街であり、そこに働く遊女は風俗嬢です。お金で遊女を買い、性交渉を行う場でした。
そこで働く遊女のほとんどが、借金のカタに売られた女子たちです。遊女は妓楼と契約を交わし、借金を返し終わるまで働かされるわけですが、それは実質的な人身売買でした。
また当時の未発達な公衆衛生や病気に対する意識の低さによって、多くの遊女が性病に苦しみ、あるいは無理な堕胎によって、亡くなっています。亡くなった遊女は、葬式もあげられず、投げ込み寺に送られるだけです。また、年季明けまで勤め上げ、吉原遊廓を無事に出た遊女は決して多くありません。仮に吉原から無事に出られたとしても、その後の人生も自由なものではありませんでした。
吉原遊廓という場所を見るとき、蔦重が巧みに演出した華やかな吉原遊廓の光の側面と、その裏で「苦界」とも呼ばれる過酷な境遇のもとで亡くなっていった無数の遊女たちがいたという闇の側面があります。吉原の歴史を見る際には、この光と闇の二面性を、改めて心に留めておきたいものです。
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小説家
1949年生まれ、97年に『算学奇人伝』で第六回開高健賞を受賞。本格的な作家活動に入る。江戸時代の庶民の生活や文化、春画や吉原、はては剣術まで豊富な歴史知識と独自の着想で人気を博し、時代小説にかぎらず、さまざまな分野で活躍中。
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(小説家 永井 義男)
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