彰子は「道長の道具」→「道長の主君」へ大変身…権力の絶頂にあった父親に出家を決意させた長女の圧倒的な力
プレジデントオンライン / 2024年11月24日 16時15分
■「うつけ」と呼ばれた彰子が国母になるまで
藤原道長(柄本佑)の長女、彰子(見上愛)。一条天皇(塩野瑛久)のもとに入内し、中宮となったころは、数え12歳にすぎなかったこともあるが、引っ込み思案で、その後もしばらくは「うつけ」という評判さえ立っていた。
そのころの様子にくらべると、NHK大河ドラマ「光る君へ」の第44回「望月の夜」(11月17日放送)で描かれた彰子の貫禄には、隔世の感がある。
目がよく見えず、耳もよく聞こえず、譲位を迫られている三条天皇(木村達成)は、抵抗する最後の手段として、自分の娘の媞子内親王を、道長の嫡男の頼通(渡邊圭祐)に降嫁させると言い出した。だが、道長が打診しても頼通は受け入れない。
そこで、道長は皇太后の彰子に意見を聞きにいった。だが、彰子は「帝も、父上も、おなごを道具のように遣ったり取ったりされるが、おなごの心をお考えになったことはあるのか」「妍子とて父上の犠牲となって、いまは酒に溺れる日々である」と道長を諭し、そのうえで「この婚儀はだれも幸せにせぬと、胸を張って断るがよい」と言い放ったのである。
天皇に臆せず譲位を迫る道長にさえ有無を言わせない貫禄が、彰子には感じられる。実際、長和5年(1016)正月、三条天皇がいよいよ譲位し、彰子の一人目の息子、つまり道長の外孫である敦成親王(濱田碧生)が即位することになると(後一条天皇)、彰子は名実ともに高みにのぼった。
■母后が高御座に登った意味
後一条天皇の即位式を描いた場面で彰子は、この儀式でもっとも大事な装置である高御座(たかみくら)に、天皇とともに着座していた。これは史実であり、母后が高御座に登った史上初の例だとされている。彰子はこうして国母になったが、高御座に登ったということからも、これまでの国母にない特別な高みに到達したといえる。
「光る君へ」第44回では、それから2年半以上のち、道長が倫子に産ませた三女の威子(佐月絵美)が後一条天皇のもとに入内して中宮になったときの様子まで描かれた。
寛仁2年(1018)10月16日、威子の立后の儀が行われ、これで道長の3人の娘が、3つの后の座を独占することになった。その晩、道長の私邸である土御門殿で行われた宴で、かの有名な「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば」の歌が詠まれたのだが、「光る君へ」では、妍子も威子も表情が浮かない。道長があいさつをしても厳しい表情を崩さない。
しかし、太皇太后となった彰子だけは違った。「頼通がよりよき政を行えるよう願っておる」と道長に穏やかに声をかけ、ほかの后たちとはまったく違う存在の重みを見せつけていた。
■道長さえもが遠慮する存在に
「光る君へ」における描写には、もちろん、ドラマとしての脚色が加えられているが、彰子が次第に、「この世をば 我が世とぞ思ふ」と詠む道長さえもが遠慮する存在になっていったのは、まちがいない。まず、彰子が力を得ていった経緯を考えてみたい。
「光る君へ」では、彰子も妍子も「父上の道具」「父上の犠牲」という言葉を使うが、彰子がそうした状況から脱したのは、寛弘8年(1011)6月、一条天皇が32歳で亡くなり、「父上の道具」として子供を産む義務から解放されたときだった。
一条天皇に代わって即位したのが、次妹の妍子が嫁いでいた三条天皇だった。榎村寛之氏は「この実妹は、彰子にはかなり気になる存在だったのではないかと思う。三条天皇は地味とはいえ、『正当な天皇』だからである」と、妍子についての興味深い見解を示している(『女たちの平安後期』中公新書)。
話は第62代の村上天皇までさかのぼる。その嫡男は63代の冷泉天皇で、64代の円融天皇は冷泉天皇の弟であって、冷泉天皇の皇子が成長するまでの中継ぎとみられていた。事実、次の65代として即位したのは冷泉天皇の第一皇子、花山天皇だったが、次の66代には円融天皇の皇子、一条天皇が就いた。
つまり、円融天皇が中継ぎを務めたのを機に、「両統迭立」といって、冷泉系と円融系の2つの皇統から、交互に天皇を出すことになったのだ。とはいっても、冷泉系が正統であることに変わりはない。だから67代となった冷泉天皇の皇子の三条天皇は、先代の一条天皇よりも正統だということになる。
しかも、三条天皇の兄の花山天皇は、母親が藤原兼家の兄、伊尹の娘で、道長との直接のつながりはないが、三条天皇の母は兼家の娘、すなわち道長の姉の超子。道長との血縁という点でも正統だった。「三条と道長の関係が修復できれば、道長の権力は村上嫡流の天皇を抱き込むことになるので、一条を介する以上に強くなるのである」と、榎村氏は記す。
■彰子が強い主張をするようになったきっかけ
そうだとすると、妍子が三条天皇の皇子を出産すれば、道長はそちらを即位させ、妍子こそが国母になる可能性があったということだ。しかし、三条天皇は譲位し、それから間もなく亡くなり、言葉は悪いが、彰子にすればホッとしたのではないだろうか。
彰子が明らかに強い主張をするようになるのは、このころからである。すでに国母だという余裕ゆえかもしれないが、三条天皇が亡くなり、その皇子の敦明親王が東宮を辞退したときも、道長の日記『御堂関白記』によれば、彰子だけが露骨に不快感を示している。
一条天皇の退位をめぐっても道長と対立したように、彰子は道長の強引な手法には以前から批判的だった。その度合いが増したわけである。むろん、道長としては、摂政の座を譲った嫡男の頼通よりも、彰子のほうをずっと怖れていた。
道長が彰子に逆らえなかったことを象徴するのが、彰子に任命される立場だったという事実である。
寛仁元年(1017)11月、後一条天皇の元服に際し、道長は加冠(髷を結って冠をかぶせる役で、後見役であることを披露することになった)を務めたが、天皇の加冠は伝統的に太政大臣が行うので、道長は太政大臣になった。その任命は、藤原実資の日記『小右記』によれば、「母后の令旨」、すなわち彰子の命令によって行われたのである。
■親玉・彰子から逃れるための出家
儀式が終わると道長は太政大臣を辞したが、いずれにせよ、道長は彰子には敵わなかった。というのも、道長は貴族としては従一位という頂点に上り詰めていたものの、あくまでも臣下にすぎなかったからだ。
一方、太皇太后、皇太后、皇后、中宮は皇族待遇で位階を持たない。当時の天皇家で皇族といえたのは、事実上、後一条天皇と東宮の敦良親王、そして太皇太后の彰子、皇太后の妍子、中宮の威子の5人で、なんとそれは道長の2人の孫と3人の娘で占められていた。彰子の立場から記述すれば、自分のほか2人の息子と2人の妹である。圧倒的な家長であって、彰子がいかにすごい立場にいたかがわかるだろう。
こうして皇族を自身の親族で固めたのは、道長の勝利であったが、同時に道長にとってのリスクでもあった。自分が臣下から抜けられない以上、いまや皇族の「親玉」である彰子に逆らえない。
道長は「この世をば」の歌を詠んだ5カ月後の寛仁3年(1019)3月、剃髪のうえ出家している。これは紫式部が内裏を離れたからではない。『日本略記』には「胸病」が原因だと記されている。ほかにも飲水病(糖尿病)の持病も進んでいたと思われ、健康不安が出家の大きな原因だったのはまちがいないだろう。
だが、ほかにも理由があったと考えられる。道長は実際、出家して「大殿」となり、臣下の立場を離れて天皇家と向き合えるようになったのである。彰子とある意味、対等に向き合えるようにするには、出家するほかになかった。
■晩年の道長にとって「目の上のこぶ」
道長は土御門殿の東に無量寿院(のちの法成寺)を造営したが、圧倒的な権威を笠に、諸国の受領層に造営を負担させている。そして、政治の実権こそ、関白になった頼通に譲ったものの、依然として影響力をおよぼし続けた。
だが、彰子も負けてはいなかったのである。道長が亡くなる前年の万寿3年(1026)には出家し、法名を清浄覚としたが、太皇太后ではあり続けた。また、道長の姉だから叔母であり、一条天皇の母だから義母だった東三条院詮子の先例にならって上東門院と称した。
そして、道長が亡くなると、最高位の尼であり、最高位の后であり、女院であるというとんでもない地位の女性として、道長に代わって天皇家と摂関家のそれぞれに君臨し続けることになった。晩年の道長にとって、目の上のこぶであり、こえたかったが最後までこえられなかった一線が彰子だった。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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