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「頭のいい人」は毎晩何をしているのか…福沢諭吉がひと眠りした後、夜明けまでやっていたこと

プレジデントオンライン / 2024年11月30日 7時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/arthobbit

博識な人はどうやって知識を身に付けているのか。明治大学の齋藤孝教授は「記憶は寝ている間に頭の中で最適化されるため、知識をインプットするなら夜が最適だ。福沢諭吉も夜に王道といえる知識の習得法を実践していた」という――。

※本稿は、齋藤孝『頭のいい人の夜に学ぶ習慣』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

■「知識の習得」には夜が適している

「学び」や「知的生産」の核となるのは、いかに情報を知識として定着させ、思考を深められるかになります。その基本は「インプット」にあります。

まったく「インプット」をせずに知的生産を続けるのは、難しいものがあります。燃料を入れずに車を動かすようなものです。思考を深めるためには、「知識や教養」という燃料が必要になります。

知識の習得には、夜が適しています。

昼間に会社で仕事をしていたとすると、まとめて知識を習得するのはなかなか難しいでしょう。これは学生でも同じです。

夏目漱石が『道楽と職業』という講演の中で、「道楽というものは、自分のためにすること。そして職業というものは、人のためにすること」という主旨のことを語っています。

■夏目漱石が語った道楽と職業の違い

職業というものは要するに人のためにするものだという事に、どうしても根本義を置かなければなりません。人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本位である。すでに他人本位であるからには種類の選択分量の多少すべて他を目安にして働かなければならない。要するに取捨興廃の権威共に自己の手中にはない事になる。

したがって自分が最上と思う製作を世間に勧めて世間はいっこう顧(かえり)みなかったり自分は心持が好くないので休みたくても世間は平日のごとく要求を恣(ほしいまま)にしたりすべて己を曲げて人に従わなくては商売にはならない。

(中略)

いやしくも道楽である間は自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違ないが、その道楽が職業と変化する刹那に今まで自己にあった権威が突然他人の手に移るから快楽がたちまち苦痛になるのはやむをえない。

『夏目漱石全集10』所収(ちくま文庫)

つまり、職業とは、人のためにサービスをしてお金をもらうことだと言っているのです。

道楽とは自分のためにやるもの。たとえば、作家が何かものを書くにしても、自分のために書いているのであれば、漱石に言わせればそれは道楽ということになります。

■仕事中に自分のための勉強をしてはいけない

また、禅寺のお坊さんが、自らの悟りのために座禅をしているのであれば、それも「人のため」ではありませんから、道楽だというふうに、漱石は解釈しているわけですね。

すなわち、行動そのものが真面目かどうかではないのです。

お坊さんが座禅を組んでいるのは真面目ですが、それでも道楽だという考えです。だから、仕事の時間に「自分のための勉強」をするのは、どんなに真面目な勉強でもあってはならないのです。

多くの場合、知的生産とは仕事以外の時間、つまり夜に行うものなのです。

■就寝中に脳が「最適化」し、知識が定着

私には、記憶は夜のほうが定着しやすいという実感があります。

寝る前に大量に記憶して、寝ている間に頭の中で勝手に整理をしてもらう。寝ている間に脳は、パソコンでいう「最適化」の作業を行ってくれるのです。これを私は「お任せ勉強法」と呼んで、学生時代から実践していました。

夜、力尽きるギリギリまで勉強をして頭に詰め込み、バタンと眠りに入ってしまうと、朝起きたときに、不思議と勉強した内容が整理されて頭の中に定着しているのです。

夜にものごとを大量に覚えると、夢の中でも思い出すことがあります。

たとえば、寝る前に見たホラー映画の内容を、夢でそのまま見てしまうということがありますよね。同じように、寝る直前まで仕事をしていると、寝ている間も頭の中でそれがなんとなく続いていて、寝ている間に新しい発想が生まれることもあります。

『論語』に、「久しいかな、吾(わ)れ復(ま)た夢に周公(しゅうこう)を見ず」という言葉があります。

周公とは聖人です。それを最近、夢に見なくなったと、孔子は言うのです。

これは自らの衰えを嘆く言葉です。

自分が仰いでいる聖人である周公を、昔は夢に見ていたのでしょう。それを最近、夢に見ない。それは自分が衰えたからだと反省しているのです。

孔子のように、「夢に見ないようなものは本気ではない」と考えて、知識を詰め込む。すると寝ている間に頭の中で最適化されて、知識が定着していきます。

■夢に見ないものは「本気」ではない

私自身にも、似たような経験があります。

1980年代の半ば、まだワープロが出始めのころです。当時、論文を膨大に書く必要があり、寝る直前までワープロでカタカタと論文作成を進めていました。寝る直前まで膨大な量の文章をワープロで打ち込むとどうなるか。夢の中の会話がすべて、「ワープロで打ち込んだ文字」としてやり取りされるのです。

自分の話すこと、相手の話すこと、すべてが全部、ワープロでカタカタと打ち込まれるかたちで展開されていく。非常にまどろっこしく、「夢を見るだけなのになぜこんなに苦労しなければならないのか」と思いましたが、同時に、「ああ、自分も孔子が言うような域に少しだけでも到達したのかもしれない」と嬉しくなったりもしたものです。

夢で見るようになって、初めて「本気」といえるのではないでしょうか。

■福沢諭吉が実践していた知識の習得法

夜の学び、インプットの柱になるものは読書です。

読書はやはり、知識の習得法としては王道といえます。テレビやインターネットに比べてエネルギーが必要で、そのために本を読むのが苦手な人もたくさんいます。しかしこれが身につくと、知的生活の安定した基盤ができます。

たとえ、すぐに使う知識ではなくても、教養が増えていくのは面白いものです。人間として今生きていく喜びを感じることができます。

福沢諭吉は、『福翁自伝』で夜の読書のやり方についてこう言っています。枕を使わない生活をしていたというほどの読書生活です。

福沢諭吉
福沢諭吉(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

それから緒方の塾に入ってからも私は自分の身に覚えがある。夕方食事の時分にもし酒があれば酒を飲んで、初更(よい)にねる。一寝(ひとね)して目がさめるというのが、今で言えば十時か十時すぎ、それからヒョイと起きて書を読む。

夜明けまで書を読んでいて、台所のほうで塾の飯炊(めした)きがコトコト飯を炊く支度をする音が聞こえると、それを合図にまた寝る。寝てちょうど飯のでき上がったころ起きて、そのまま湯屋に行って朝湯に入って、それから塾に帰って朝飯を食べてまた書を読むというのが、たいてい緒方の塾にいる間ほとんど常(じょう)きまりであった。

『日本の名著 33 福沢諭吉』所収(中央公論社)

読書というものは、生きる土台になります。

夜は知的な読書をして過ごし、知的な土台をつくるための時間にあてたいものです。

■夜の読書を続けると明らかに変わるもの

毎日、1時間から2時間、夜のゴールデンタイムを読書に使い、それを3カ月続ける。それだけで、あなたの話し言葉は明らかに「深く」なります。

本を読んでいる人と読んでいない人とでは、話し方が歴然として違います。

まず、語彙の量が全然違います。日頃から本をしっかり読んでいる人は、ボキャブラリーが着実に増えてきます。

そのため、話し方が自然と知的になってくるのです。「いつの間にそんな言い回しを覚えたの?」というくらいに変わります。同時に、話すテンポもてきぱきしてきます。

ただ日常を生きるだけなら、「かわいい」「やばい」など、感覚的な単語を5~10語使うだけでも過ごせてしまいます。実際、SNSでもそのような単語が行き交っていますが、残念ながら、あまり知性を感じません。

語彙の少ないSNSやインターネットの世界から離れて、本の世界で膨大な語彙のシャワーを浴びましょう。

読書
写真=iStock.com/ridvan_celik
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ridvan_celik

■読書量が足りない人は書き言葉で話せない

また、本をたくさん読むと「書き言葉で話せるようになる」ということも大きな特徴です。その人が話した音声をそのまま文字に起こしても、しっかりとした文章になっている。そのような話し方ができるようになるのです。

読書量が足りない人は、話した言葉をそのまま文字にすると、主語と述語の関係に大きなねじれが生じることが多くあります。「○○は」から始まった文が、「△△である」と終わることなく、新たな「××は」が入り込んでしまう。

たとえば、野球の解説者が次のような解説をしていたらどうでしょう。

「私は、今のボール、アウトコースにギリギリ入っていましたけどね。私は、今日の審判は少し厳しいですね」

この二つの「私は」はどこに行ってしまったのか、気になりますよね。

これは極端な例ですが、プレゼンでも、学生の研究発表でも、同じように「一つの文に複数の主語が入ってしまう」という例はかなりあります。

齋藤孝『頭のいい人の夜に学ぶ習慣』(ポプラ新書)
齋藤孝『頭のいい人の夜に学ぶ習慣』(ポプラ新書)

「話し言葉がそのまま書き言葉になっている」という話し方は、読書をしている人だけに可能な能力です。活字を見慣れているために、自分の言葉が活字になったところを想像できるのです。

主語と述語の関係がねじれることなく、聞き手にわかりやすく説明できます。ここをねじれた文章で話してしまう人は、読書量が足りません。複雑にものを言おうとして、結果、何も伝わってこないというのが、読書量が足りない人の話し方です。

夜の深い読書を続け、学ぶことで、こうしたことは自然に回避できるようになります。

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齋藤 孝(さいとう・たかし)
明治大学文学部教授
1960年静岡県生まれ。東京大学法学部卒業後、同大大学院教育学研究科博士課程等を経て、現職。専門は教育学、身体論、コミュニケーション論。ベストセラー作家、文化人として多くのメディアに登場。著書に『孤独を生きる』(PHP新書)、『50歳からの孤独入門』(朝日新書)、『孤独のチカラ』(新潮文庫)、『友だちってひつようなの?』(PHP研究所)、『友だちって何だろう?』(誠文堂新光社)、『リア王症候群にならない 脱!不機嫌オヤジ』(徳間書店)等がある。著書発行部数は1000万部を超える。NHK Eテレ「にほんごであそぼ」総合指導を務める。

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(明治大学文学部教授 齋藤 孝)

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