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「『源氏物語』の作者なら男からモテモテだろう」藤原道長からセクハラを受けた紫式部の"絶妙な切り返し"

プレジデントオンライン / 2024年12月3日 17時15分

土佐光起筆 紫式部図(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

藤原道長と紫式部はどんな関係だったのか。『紫式部日記』で綴られている二人のやりとりを見ると、特別な関係だったと考える人が多いという。平安文学研究者・山本淳子さんの著書『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか――』(朝日新聞出版)より、一部を紹介する――。

■「藤原道長の側室」と伝える系図集

14世紀に成立した系図集、『尊卑分脈』。これで「紫式部」を調べると、藤原為時の子の一として「女子」と大書した周りに、注として次の言葉が記されている。

歌人 上東門院女房 紫式部是也(これな) 源氏物語作者……御堂関白道長妾云々(しかじか)。

(歌人。上東門院彰子の女房。紫式部がこの人である。『源氏物語』の作者。……御堂関白藤原道長の側室という。

(『尊卑分脈』第二篇第三 良門孫)

「妾(しょう)」は、現代の「愛人」ではない。あくまでも公認された妻の一人、しかし正妻ではない関係を言う。

この資料は、紫式部が道長とそうした関係にあったと言うのである。しかしそこには「云々」が付いているから、これは伝聞である。『尊卑分脈』が作られた時、まことしやかにそうした噂をささやく輩がいた。それは現代にまで伝えられて、二人の関係は様々に勘繰られている。

■瀬戸内寂聴「道長を拒む理由は何一つない」

それにしても、火のないところに煙は立つまい。噂の発生源はどこなのかと言えば、それは紫式部自身の記した実録『紫式部日記』である。

以下に記す通り、そこにはある夜、道長らしき人物が彼女の局(つぼね)(部屋)を訪れたことが記されている。だが、彼女は戸を開けなかったとも記されている。しかしそれが火種となって、「いや、本当は戸を開けて道長と一夜を過ごしたのだろう」「いやいや、この夜拒んだというのは本当だろう。だが後々まで招き入れなかったという証拠はあるまい」などと、かまびすしい諸説を巻き起こしているというわけである。

ちなみに、後者は先年亡くなった瀬戸内寂聴尼から、生前、筆者が直接うかがった説である。「紫式部が道長を拒む理由は何一つない」と寂聴尼は言われた。

とはいえ、彼女が道長を拒まなかったと考える根拠はあるのだろうか。たぶん、ある。そう筆者は考えている。それも同じ紫式部自身の遺した言葉の中に、少なくとも彼女の側には、道長を想っていた形跡が窺える。

そこで本稿では、道長よりも紫式部を中心に据えて、彼への気持ちがどのように彼女の中に芽生え膨らんでいったか、そのことは当時の男女関係ではどのような意味を持つものであったかを考えてみたい。

■「好きもの」と言われた紫式部は…

『紫式部日記』は、四つの部分から構成されている。最初が彰子の出産など道長家の晴れの出来事を記す寛弘5(1008)年から同6年にかけての記録、次は有名な清少納言批判などを記すエッセイ、それに続いて年次を記さない短い記事群があって、最後には寛弘7(1010)年の道長家の記録が置かれている。

問題の箇所は三つ目の「年次不明記事群」にあり、道長らしき人による「局訪問事件」はその末尾に記されている。ただ、そこにはこの訪問者が道長であるとは記していない。推理するためには直前の記事から読み始める必要がある。

源氏の物語、御前(おまへ)にあるを、殿の御覧じて、例のすずろごとども出(い)できたるついでに、梅(むめ)の下に敷かれたる紙に書かせ給へる、
すきものと 名にし立てれば 見る人の 折(を)らで過ぐるは あらじとぞ思ふ
給はせたれば、
「人にまだ 折られぬものを 誰(たれ)かこの すきものぞとは 口ならしけむ めざましう」
と聞こゆ。

(『源氏の物語』が中宮様の御前に置かれていたのを道長様がご覧になって、いつもの戯(ざ)れごとを口にされるついでに、おやつの梅の実の下に敷かれていた懐紙(かいし)に、こう書きつけられた。
梅の実は酸っぱくておいしいと評判だから、枝を折らずに通り過ぎる者はいない。さて『源氏物語』作者のお前は「好きもの」と評判だ。口説かずに通り過ぎる男はいないと思うよ
殿がこの和歌を私に下さったので、私は申し上げた。
「あら、この梅はまだ枝を折られてもいないのに、誰が『酸っぱい』と口を鳴らしているのですか? 私だって同じ。まだ殿方とお付き合いをしたこともございませんのに、どなたが『好きもの』などと言い慣らわしているのでしょうか? 心外ですこと」)

(『紫式部日記』年次不明記事群)

きっかけは、彰子が自分の部屋に置いていた『源氏物語』だった。道長はそれに目を留め、折しも御前にいた作者の紫式部をからかったのである。

■現代ならセクハラとパワハラで一発アウト

『源氏物語』は、色好みの主人公・光源氏の面白おかしい恋愛遍歴を綴った物語だと、道長は思っていた。彼は『源氏物語』を読んでいたか、少なくともあらすじは知っていたのである。

そこで手頃な紙を探し、折よく彰子のために用意されていた完熟の梅の実の下からすっと懐紙を抜き取ると、すらすらと和歌を書いて紫式部に示した。道長は日常生活のなかで、こうした風流を楽しむ人物だったのである。

しかもその和歌は、梅の実と紫式部を表裏に掛けた優れものだった。梅は甘酸っぱく、人に好んで折り取られる。同様にお前は「好きもの」で、男から好んで誘われるのだろうと。『源氏物語』の作者であるからには実際の恋愛経験も豊富なのだろうという、からかいである。

日本の梅
写真=iStock.com/undefined undefined
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/undefined undefined

現代の世でこうしたことを小説家に言いかけたりしたら、即座にセクハラと指弾されよう。道長の場合は紫式部のスポンサーでもあったので、パワハラでもある。

■「乙女」からの当意即妙な切り返し

しかし、紫式部はいわゆる〈#わきまえない女〉だった。大人しく黙っているのではなく、即座に和歌で言い返したのである。ただ、平安時代にはこうした切り返しこそが女房としての〈わきまえ〉の見せどころとされていたから、これは道長の期待に応える態度でもあった。

彼女は道長の和歌の隣に、これもさらさらと書きつけたのだろう。彼の和歌の趣向をそのまま受けて、梅の実と自分を掛けた和歌である。梅の実と言っても、まだ枝を折られてもいない場合には、酸いかどうかはわからない。そのように、自分は男に手折(たお)られたことがない――男を知らない〈乙女〉。なのに、「好きもの」だなんてどういうことでしょう?

紫式部が過去に結婚し子供ももうけていることは、その場の誰もが知っている。だからこの和歌は、「心外ですわ」とすねてみせる紫式部の演技も含めて、道長の大笑いを誘ったはずだ。

これは、『源氏物語』が生きて楽しまれていたことを示す一場面である。道長は『源氏物語』の内容を彼なりに踏まえ、作者を彼なりに認め、持ち上げた。その空気は、紫式部の作者としてのプライドを満足させただろう。返歌での切り返しも見事にできた。

だからこそ読者は、そこにはただの色事ではない、『源氏物語』風の空気を感じ取る。紫式部の返歌に笑いながら、道長の目には彼女への関心が宿ったのではないか。この作者、面白い女だ――とばかりに。読者の予感は、『紫式部日記』の次の場面への展開によって確信につながる。

■真夜中の戸

続く記事は、次の通りである。

渡殿(わたどの)に寝たる夜、戸を叩く人ありと聞けど、おそろしさに音もせで明かしたるつとめて、
夜もすがら 水鶏(くひな)よりけに なくなくぞ 真木(まき)の戸口に 叩きわびつる
返し、
ただならじ とばかり叩く 水鶏ゆゑ あけてはいかに くやしからまし

(渡殿の局で寝ていた夜、聞けば誰かが戸を叩いている。おそろしさに、私は声も出さず夜を明かした。すると翌朝、次のような歌を受け取った。
一晩中、私は泣きながらあなたの部屋の戸を叩きあぐねていました。あの、戸を叩くような声で鳴く鳥の水鶏(くいな)より、もっと激しく泣いていたのですよ
私はその場で返事を書いた。
ただ事ではない、確かにそう思わせる叩き方でしたわ。でも本当はほんの「とばかり」、つかの間の出来心でしょう? そんな水鶏さんですもの、もし戸を開けていたらどんなに後悔することになっていたでしょう)

(『紫式部日記』同前)

■2人の和歌は「恋の歌」として記録された

渡殿は、紫式部が道長の土御門殿滞在中に局を与えられていた場所である。その戸を、真夜中に叩く音。それも何度も、忍びやかに、しかし性急に。男だと、紫式部はすぐに気づいた。だが怖くて逢瀬を拒んだというのである。

山本淳子『道長ものがたり「我が世の望月」とは何だったのか――』(朝日新聞出版)
山本淳子『道長ものがたり「我が世の望月」とは何だったのか――』(朝日新聞出版)

そして翌日の和歌のやりとり。昨夜の冷たい仕打ちを詰(なじ)りつつも、まだ未練たっぷりの男の和歌に、紫式部は切り返す。あなたを部屋に入れないで良かったと。

戸を叩いた人物が誰だったかを、『紫式部日記』は明かしていない。もちろん、彼女自身はわかっていたに違いない。翌朝の和歌はどのようにして届いたのか。そのこと一つだけでも、推測は成り立つ。

だから当然、意図して書かなかったのだ。だが、前の「梅の実」のやりとりから続けて考えれば一目瞭然だ――。そう思った読者たちは、これを道長と紫式部のラブ・アフェアと断定した。

その約二百年後の鎌倉時代(十三世紀前半)、藤原定家が撰者を務めた勅撰集である『新勅撰和歌集』は、この二つの和歌を「恋」の部に載せ、「夜もすがら」の作者は「法成寺入道前摂政太政大臣」つまり道長、返歌の「ただならじ」は「紫式部」とはっきり示している。現代にまで及ぶ「御堂関白道長妾云々」疑惑は、こうして始まったのだった。

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山本 淳子(やまもと・じゅんこ)
京都先端科学大学人文学部 教授
1960年、金沢市生まれ。平安文学研究者。京都大学文学部卒業。石川県立金沢辰巳丘高校教諭などを経て、99年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士号取得(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代』(朝日選書)で第29回サントリー学芸賞受賞。15年、『平安人の心で「源氏物語」を読む』(朝日選書)で第3回古代歴史文化賞優秀作品賞受賞。選定委員に「登場人物たちの背景にある社会について、歴史学的にみて的確で、(中略)読者に源氏物語を読みたくなるきっかけを与える」と評された。各メディアで平安文学を解説。著書に『紫式部ひとり語り』(角川ソフィア文庫)、『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか』(朝日選書)などがある。

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(京都先端科学大学人文学部 教授 山本 淳子)

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