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「子供はまだなの?」はめんどくさいの極み…令和の出産適齢期世代がイラっとする"母親たちの一言"

プレジデントオンライン / 2024年12月5日 17時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fantom_rd

女性にとって「子供を産むか、産まないか」は人生で直面する大きな問題だ。夫と二人で暮らすライターの月岡ツキさんは、母親をはじめとする親世代の女性からの何気ない言葉に違和感を抱くという。著書『産む気もないのに生理かよ!』(飛鳥新社)より、一部を紹介する――。(第1回/全3回)

■近所に住む60代女性との世間話で…

「お子さんがいないうちに好きなことやっておかなくちゃね。生まれたら忙しくなるし、今だけよ~」と、ご近所の60代のマダムに言われた。習い事の教室へ行く道すがら声をかけられて、ちょっとした世間話をしているときだった。

私は妊娠中ではないし、妊活中でもない。子供が生まれる予定は今のところない。

たぶんこの先も、“ないであろう”方向で結婚生活を楽しんでいる。

すれ違えば挨拶して一言二言交わす程度のマダムが私について知っているのは、私が結婚してこの地に引っ越してきたので夫と暮らしているということと、けっこうな頻度で習い事をしていることと、だいたいの年齢(生物学的に言えば出産適齢期であること)くらいだ。「もうすぐ子供が生まれる」とも「いつか子供が欲しいと思ってる」とも話した覚えはない。

私は愛想笑いで「あはは、ですね~」と煙(けむ)に巻きつつ、「では、急ぎますので」という意味の会釈をしてその場をやり過ごした。

■初対面なのに「子供は? まだなの?」

私はこんなことでは別に傷ついたりイラついたりしないが、投げかけられた言葉への反論は口から発されることなく腹の底に溜まっていく。私の何を知っていて、何の権利で踏み込んでくるのか――。

知人の夫婦(子なし希望)も、引っ越したマンションの隣の部屋に挨拶に行ったら、ちょうど親世代くらいの年配の女性住民から「子供は? まだなの?」と聞かれたらしい。初対面にもかかわらず、である。

「やっぱあの世代のおばさんはめんどくせえな」と雑な世代論で括りたくもなる。

もし私が不妊治療中でどうしても授かれなくて、なんとか気を紛らわすために習い事に向かう最中だったとしたら、一体どうしてくれるのだろう。実際はそうじゃないからよかった(別によくはない)のだが、あの調子なら誰彼構わず出産適齢期の女に似たような言葉を投げかけているに違いない。

■そんなこと同世代でもいきなり聞けない

「私はそんなこと言わないわよ!」というマダムと同世代の女性がいらっしゃったら申し訳ない。一緒くたにしてごめんなさい。

でも、似たような言葉を年長者から投げかけられたことがある人は少なくないだろうし、私がこういうことを言われたのは何もあのマダムからだけではない。

同世代と話している分には、こういった発言に面食らうことはほとんどない。気心の知れた仲なら、「産むか・産まないか」について率直な気持ちをああだこうだ言い合うことができるし、大して相手を知らない場合は「お子さんは?」なんてそもそも聞かない。「聞けない」のほうが正しい。

持ちたいと思っているか、望んでいるがなかなか授かれないか、人に言っていないだけで流産や死産や中絶の経験があるか、配偶者と性交渉がなく悩んでいるのか、相手や自分に連れ子がいるのか、などなど。

未婚率も離婚率も増え、出産年齢も上がって、不妊治療をする人も増えている私たちの世代は、「相手にあるかもしれないさまざまな事情」を踏まえると、子供を持つこと・持たないことについて、おいそれと聞くことができないのである。

つないだ母子の手
写真=iStock.com/kohei_hara
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kohei_hara

■「子育て人生」に矜持を持っている世代

それに対して、結婚して子を産み育てることが最重要課題であり、当たり前であり、その人生を歩んできたことに少なからぬ矜持(きょうじ)を持っていて、若い世代もそうするべきだと考える世代もいる。たとえば私の母とか。そういえば、あのマダムはちょうど私の母と同じくらいの歳だ。

今の60代半ばから上、母やマダムの世代は「結婚したら子供を持つことが当たり前」という意識がいまだ根強い気がする。その少し下、いわゆる「均等法世代」以降になると少し雰囲気が変わってくるだろうか。女の人生すごろくに「仕事」というコマが用意されはじめた世代だと、また見える景色も苦しみも違ったのだろう。

そもそも、女は家で家事と子育てを担うもの、という「良妻賢母」教育がはじまったのは明治30年代からで、全然歴史でも伝統でもなんでもないのだけれど。

■母と娘のバトルが避けられない理由

私の母の世代は「良妻賢母」が良しとされ、良き専業主婦となることが女の人生の唯一の理想であると、まっすぐ信じられた最後の世代なのかもしれない。それが良かったとも悪かったとも私は言えない。現にその良妻賢母に育てられて今の私がいるのだし――。

そんな世代の母と、私のような「令和出産適齢期世代」は口を開けば喧嘩になる。

母は「本家」に嫁いで四人の子供を産み育てた、いわば良妻賢母界の女傑(じょけつ)である。

信じてきたものが違うのだ。諍(いさか)いはほとんど避けられないと言っていい。近所のマダムは適当にあしらっておけばいいとして、身内は会釈でやり過ごすには近すぎて、嫌いになるには相手を知りすぎている。

私はこのような文章を書いていることから分かる通り、良妻賢母世代の母と思想の面で長く相容れないでいる。「勉強ができるよりも愛想よく挨拶ができる子がいい。女は愛嬌」と教える母に反発して、ますますしかめ面になるような子供だったので、この仕上がりは必然である。

母が私を手放しに褒めるのは、「夫に料理を作った」と言ったときや「義母に母の日のプレゼントを贈った」と報告したときだ。仕事でできたことなどを話しても、すごいのねえとは言ってくれるものの、基本的には「お母さんにはよく分からない」というふうでいる。「そんなに働いて旦那さんのご飯はちゃんと作ってるの?」という下の句つきだ。

■「女の幸せ」を実行しない意味不明の存在

母にとっての私は「妻としての役割を果たし切れていないのに、夫が寛大だから好きにやらせてもらえている娘」という評価になるし、そのうえ子供を産まないとなると「もはやよく分からない存在」に見えるのかもしれない。自分が「これが女の幸せだ」と信じて当たり前にやってきたことを全然やらないのに、なんだか楽しそうにしているのだから。

長らく、帰省のたびに私が子供を産む・産まないの話で母と喧嘩になっていた。

ふとした会話の折に「一人くらい産んでおけばいいのに」と言われ、「“くらい”って何? そう簡単に言わないでよ」と私が怒る。

小さな甥や姪と遊んでいると「あなたも自分が産んだときの練習になっていいね」と言われ「そんな“とき”は来ない。これは子育ての練習じゃない」と私が怒る。

「近くに住んだら孫の面倒を見てあげるのに」と言われ、「あなたに孫を見せるために私が子育てに苦労するんですか?」とまた怒る。

■「母の望む娘にはなれない」と泣けてくる

私が怒るたびに、母は「あ~ハイハイまた怒らせちゃったわね、すぐ怒るんだからまったく」という調子。あくまで私がすぐキレる面倒な娘で、自分はなんら間違ったことを言っていないと思っている。

そんなに喧嘩するなら帰らなきゃいいだろとも思うが、そう単純に行かないのが家族であり、母と娘だ。こんなに母にキレている私ですら母に会いたいときもあるし、母にいろんなことを話したいし、母にもっと幸せになってほしいと思っているのも事実なのだ。

大事に思っているのにどうして相容れないのだろう……。

私が自分の思うように生きている以上、母の望む娘の姿にはなれないのだ。実家から帰る電車で泣いたこともあった。これを書きながら今も少し泣いている。

母の「当たり前」は結婚して子供を何人か産んで、仕事はそこそこにやるか辞めるかして子育てに専念することだ。それは長らく社会の「当たり前」でもあった。

そんな母が育ててくれたから、学校から帰れば母がいたし、手作りの品数が多いご飯を毎日食べられたし、部活の送迎もいつもしてもらって、それを当たり前のこととして子供時代を過ごした。

■母にも家・夫・子供から解放されてほしい

けれど同時に、それらのタスクをこなすことに疲れ果て、他に逃げられる自分の居場所もなく、いつも擦り切れそうな母を見てつらかったのも私の子供時代だった。

家と夫と子供にすべてを捧げて、この人は本当に幸せなんだろうか?

私たちがいるからこんなに大変なんじゃないか?

私も将来、同じことをやらなきゃいけないのか?

どうして女ばっかりこうなるんだろう?

母に育てられた私は、母に育てられた結果として、母とは違う道を歩もうとしている。私の生き方は、母にとっては自分の生き方の否定のように映るのかもしれない。

だけど、私は本当は今でも母に、家や夫や子供から解放されてほしいと思っている。

月岡ツキ『産む気もないのに生理かよ!』(飛鳥新社)
月岡ツキ『産む気もないのに生理かよ!』(飛鳥新社)

自分だけ自由になってごめんなさいという罪悪感だってある。それでも、母にとっての「当たり前」を生きるのは、生まれ変わってもたぶん、私には無理なのだ。

幾度も私が子供を産む・産まないの話で喧嘩をして、最近はようやく母も態度が軟化したように見える。内心は今でも「娘に子供を産んでほしい」と思っているだろうけど、形だけでも「あなたが幸せならそれもいいんじゃない」という言葉が出るようになった。

私が母と同じ「当たり前」を歩まなくても、めちゃくちゃ幸せに生きている姿を見せることが、私の母への果たし状であり詫び状なのかもしれない。

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月岡 ツキ(つきおか・つき)
ライター・コラムニスト
1993年生まれ。大学卒業後、webメディア編集やネット番組企画制作に従事。現在はライター・コラムニストとしてエッセイやインタビュー執筆などを行う。働き方、地方移住などのテーマのほか、既婚・DINKs(仮)として子供を持たない選択について発信している。既婚子育て中の同僚と、Podcast番組『となりの芝生はソーブルー』を配信中。マイナビウーマンにて「母にならない私たち」を連載。創作大賞2024にてエッセイ入選。

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(ライター・コラムニスト 月岡 ツキ)

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