赤穂浪士は"バカ殿"の尻ぬぐいで切腹させられた…「美談」として描かれる『忠臣蔵』の"不都合な真実"
プレジデントオンライン / 2024年12月11日 18時15分
※本稿は、本郷和人『日本史の偉人の虚像を暴く』(宝島社新書)の一部を再編集したものです。
■日本初の「主君の敵討ち事件」
歌舞伎や講談などの演目で知られる『忠臣蔵』のもととなった、いわゆる赤穂事件は、元禄14(1701)年3月14日、江戸城、松の廊下にて起きた刃傷事件に端を発した、「日本初」の主君の敵討ち事件です。「日本初」という点については、追々解説したいと思います。
赤穂事件は、赤穂藩の第3代藩主である浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、高家筆頭の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を突如として斬りつけたことから始まります。当時、長矩は朝廷からの使者をもてなす勅使饗応役を務めており、吉良義央はその指南役という間柄でした。江戸幕府は毎年1月、朝廷へ年賀の挨拶を行います。その返礼に朝廷から勅使が派遣され、2〜3月にその使者を迎える儀式が数日間にわたり行われる慣例となっていました。
事件が起きた3月14日は、この年の儀式の最終日にあたる日です。江戸城内、しかも朝廷の使者が滞在しているときに、刃傷事件を引き起こした浅野長矩に幕府は厳重な処罰を与えました。将軍・徳川綱吉は即日、切腹を言い渡しています。そして、浅野家は改易(かいえき)、つまり領地を没収され、御家は断絶となりました。斬りつけられた吉良義央は命に別状はなく、しかも一切のお咎めはありませんでした。
松の廊下での刃傷事件の翌年、赤穂藩の筆頭家老だった大石内蔵助は、46人の赤穂浪士を引き連れ、吉良邸へと押し入り、主君の敵である吉良義央を討ち取り、本懐を遂げました。その後、討ち入りに参加した赤穂浪士全員、切腹に処せられました。この一連の顚末が、いわゆる赤穂事件です。
■果たして本当に美談だったのか
主君の名誉のために自らの命を賭してまで、敵討ちを果たした赤穂浪士47人(一説には46人とする場合もあります)への同情と人気は、当時から凄まじいものでした。たちまちに歌舞伎や浄瑠璃、講談の演目として上演され、江戸庶民に親しまれる物語となったのです。こうして生まれたのが、私たちがよく知る『忠臣蔵』です。
四十七士による吉良邸の討ち入りは旧暦の12月14日に起きたことから、現代でも年末になると、『忠臣蔵』に関する演目でさまざまな興行が行われたり、NHKをはじめとしたテレビの時代劇で『忠臣蔵』が放映されたりと、日本人にとって時代を超えて愛されてきたコンテンツのひとつとなりました。
そこで描かれるのはやはり、非業の死を遂げた主君の無念を晴らそうとする大石内蔵助をはじめとした赤穂浪士の忠義であり、滅私奉公という道徳観への憧憬(しょうけい)、義理・人情に対する同情を喚起するものでした。主君のために自らの命を捧げるという忠義心が、現代に至るまで、人々の涙を誘ったのです。
時代をまたいでのロングセラーのおかげで、赤穂事件そのものはある種の美談として語られます。しかし、果たして本当にそれは美談だったのでしょうか。赤穂浪士に関する虚像は、この美談として語られる物語性そのものにあるように思えます。
■吉良家は足利家の血を引く名家
というのも、問題はそもそもの事件の発端である、松の廊下での刃傷沙汰にあると私は思います。
浅野長矩は、「この間の遺恨を覚えているか」と言って、吉良義央を斬りつけたと伝わりますが、そもそもなぜ、そのような暴挙に長矩は及ばざるを得なかったのでしょうか。それを理解するためには、まず、2人の関係性を押さえておく必要があります。
事件当時、浅野長矩は35歳、播磨国赤穂藩を治める第3代藩主でした。系譜を辿ると、豊臣政権の五奉行のひとりである浅野長政に行きつく家系になります。長政は関ヶ原の戦いの直前に隠居しており、嫡男の幸長が、徳川方である東軍につきました。
その功績が認められ、幸長に紀伊国37万6000石、長政に常陸国5万石が与えられています。その後は転封(てんぽう)などにより、三男・長重の子である長直の代で、赤穂藩となりました。その後、長政の領地は3代目の長矩に伝えられることになります。
一方の吉良義央は事件当時、62歳、高家旗本の当主です。幕府から高家肝煎(きもいり)の役を任ぜられていました。「高家」は、幕府の儀式や典礼、朝廷への使節、朝廷との間の諸礼、伊勢神宮や日光東照宮への代参、勅使の接待などを司っており、室町時代から続く名家などが世襲で務めるのが通例となっていました。
この高家諸氏の差配を担ったのが、高家肝煎です。吉良家は、鎌倉時代から続く、足利将軍家の血を引く一族でした。足利家が没落すると吉良家も衰退の一途を辿りましたが、家康の祖父が娘を吉良家に嫁がせたこともあり、江戸幕府に取り立てられたのです。
■なぜ「この間の遺恨を覚えているか」と言ったのか
先にも述べたように、刃傷事件が起きたときはちょうど、朝廷からの使者をもてなす儀式が行われていた期間にあたります。このとき、浅野長矩は饗応役を務め、吉良義央はその指南役でした。
その2人の間に、長矩が「この間の遺恨を覚えているか」と言わなければならないほどの確執が生まれたとすれば、やはりその儀式の準備などの過程で何かあったのだと考えられます。しかし、長矩はなぜ吉良義央を斬りつけたのか、動機を明かさなかったため、真相はわかっていません。
塩田と塩の製法をめぐる確執とも言われ、さまざまな説が唱えられていますが、いずれにせよ、江戸城の松の廊下で、しかも朝廷の使者をもてなす儀式期間中にそのような刃傷沙汰に及ぶというのは、明らかに浅野長矩の落ち度であると言わざるを得ません。饗応役と指南役の間で何かあったとすれば、それはその指導の過程での揉め事だったのかもしれません。
しかし、浅野長矩と同じく饗応役を務めた伊達左京亮村豊も吉良義央の指南を受けたひとりでしたが、彼は吉良義央を斬りつけることはしていません。ということは、吉良義央は饗応役にふさわしい振る舞いをするよう、普通に指導しただけだったのかもしれません。
■逆ギレしてしまう「バカ殿」だった
ところが、浅野長矩はそのようには思わなかった。自分のメンツを潰されたと感じたのかもしれません。今で言う「逆ギレ」です。浅野長矩は怒りに我を忘れやすい、激昂(げきこう)・直情型の人間だったと言わざるを得ないでしょう。
しかし、それが刃傷沙汰に直結するとなれば、穏やかではありません。それがもとで浅野家は潰されてしまったのですから、あまりにも短絡的です。赤穂に戻れば、家臣やその家族たちもいる。自分の行動ひとつで、その人たちの生活も台無しにしてしまうことがわかりそうなものですが、それができなかった。人の上に立つべき人間の器ではない、ダメな殿様だったのです。
浅野長矩の「バカ殿」ぶりに比べると、四十七士を率いた大石内蔵助の傑物ぶりが際立ちます。彼は主君の敵討ちをやり遂げただけでなく、収支記録をきちんとつけた上で、赤穂藩の清算をしました。ちょうど討ち入り前に資金がゼロになるように、勘定もきっちりしていたのです。
初めからゼロになるようにしたのか、資金が尽きるからそろそろ敵討ちをするかと動いたのかはわかりません。しかし、その手腕は見事なものです。赤穂藩の清算から吉良邸への討ち入りまでを見ていくと、きちんと資金を管理している点がよくわかります。
■藩士300人全員の給与と退職金を手配
赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助のもとに主君の切腹と改易の報(しら)せが届いたのは、事件から5日後の3月19日のことでした。内蔵助は同日のうちに藩士たちに登城を命じ、事件のあらましを報告しています。翌日にはすぐに藩札の回収に動きました。
江戸時代では金貨・銀貨・銭貨だけでなく、諸藩独自の貨幣が発行されていました。藩札はその独自通貨のことであり、金貨・銀貨・銭貨と交換ができます。しかし、改易となれば紙切れ同然です。だからこそ、内蔵助は藩札の回収を急ぎました。
同月27〜29日には再び藩士を城内に集め、大評定を実施しています。当時の慣習としては「喧嘩両成敗」が道理として生きていました。それゆえに、吉良義央が処罰されなかったことに対する不満が強く、大評定は紛糾します。
籠城しての抗議、家臣一同が殉死しての訴えなどさまざまな意見が飛び交(か)いますが、一同は浅野家の再興を願って、無血開城を選択しました。同年4月、赤穂藩が所有する船や武具、材木など幕府に返上するもの以外は、全て現金に換えて、藩の財政の清算が実施されます。藩士300人の最後の給与と退職金もこのときに支払われました。
なお、内蔵助は退職金を受け取らなかったとされています。
■浅野家の再興に賭けたが…
給与と退職金の総額は、金に換算して2万4009両3分。現在の貨幣価値にすると、およそ24億97万5000円。1人平均800万円くらいでしょうか。額面だけ見ればそれなりの金額と思えるかもしれませんが、武士は家族のほか養わなければならない使用人を抱えています。それらの支払いを考えると、決して満足な額とは言えません。
4月19日、赤穂城を幕府に明け渡し、赤穂浪士は散り散りとなりましたが、内蔵助を中心に手紙などで連絡は取り合うこととしました。そこで、旧浅野家家臣として何をなすべきかということが議論されました。
意見は大きく分けて2つです。ひとつは浅野家の再興に賭けるという意見。浅野長矩の弟・大学を新たな藩主として担ぎ出すというわけです。もうひとつは、吉良義央の首を取り敵討ちを果たすべきだという意見です。内蔵助らは前者を、堀部武庸らは後者を主張し、意見は割れてしまいます。
しかし、元禄15(1702)年7月、兄が起こした事件後は謹慎処分となっていた浅野大学は、旗本身分を剝奪されてしまいます。広島藩・浅野本家の預かり処分となったことで、御家再興の芽は潰されてしまいました。こうして浅野家再興を主張した内蔵助らも、敵討ち派に合流し、吉良邸への討ち入りを決心するのです。
■吉良邸に討ち入り、圧倒的な勝利を収める
当時、内蔵助の手元に残った資金は、金に換算すると約690両3分2朱。現在の価値に直せば、およそ6910万円です。仏事や御家再興のための奔走(ほんそう)でさらに193両を費やし、江戸との往復にも出費はかさんだものの、残された資金で四十七士は主君の敵討ちを果たそうとしました。
改易から吉良邸討ち入りまでの1年9カ月は、この軍資金のなかからやりくりしています。そして、その全てを使い切ったのちの元禄15(1702)年12月14日、赤穂浪士47名が、3班に分かれて、吉良義央邸へと討ち入ったのです。
吉良邸には100〜150人ほどの家臣が詰めていたとされます。事件後、かなり早い時期に編纂された『江赤見聞記』の記録では、吉良側の死者16人、負傷者21人に対して、赤穂浪士は死者はゼロ、負傷者4人と、赤穂浪士たちの圧倒的な勝利でした。内蔵助らは綿密な計画を立てたであろうことがよくわかります。
■バカな上司を持った不幸な部下たちの物語でもあった
吉良義央を討ったのち、赤穂浪士たちは亡き主君が眠る泉岳寺へと向かい、墓前に吉良の首を手向けました。その後、赤穂浪士は大名4家に分かれてお預けとなり、元禄16(1703)年2月4日、幕府より切腹を命じられ、同日のうちに執行されました。
以上の収支報告を、大石内蔵助は全て事細かに記録し、それが現在でも残っています。その細やかな仕事ぶりが窺える史料です。それほどに、大石内蔵助は傑出した人物だったと思うのです。
浅野長矩が主君としてあまりにも残念だったことを思うと、内蔵助の優秀さが際立ちます。と同時に、こんなダメな主君に命を賭してまで仕えた顚末を描く『忠臣蔵』を、ただの美談とするのは、どうも違う気がするのです。
美談というのはやはり、うまく作られた虚像のひとつであり、赤穂浪士の実態は、なんともバカな上司を持ってしまった不幸な部下たちの話とも言えそうです。
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東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。東京大学・同大学院で日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。著書は『権力の日本史』『日本史のツボ』(ともに文春新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『日本中世史最大の謎! 鎌倉13人衆の真実』『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(ともに宝島社)ほか。
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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)
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