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だから坂本龍馬は教科書から消えかけた…東大教授・本郷和人「歴史研究者が坂本龍馬に見向きもしないワケ」

プレジデントオンライン / 2024年12月12日 18時15分

桂浜の坂本龍馬像(写真=baggio4ever/本山白雲作/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

坂本龍馬はNHK大河ドラマや小説で描かれ、いまでもファンが多い。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「専門家からすれば、坂本龍馬は歴史研究の対象にはならない。「薩長同盟の立役者」と言われるが、実際には西郷隆盛の使い走りでしかなかったという説を唱える研究者もいる」という――。(第2回)

※本稿は、本郷和人『日本史の偉人の虚像を暴く』(宝島社新書)の一部を再編集したものです。

■坂本龍馬も新選組も研究対象にはならない

日本史のなかでも、根強い人気があるのはやはり、「戦国時代」と「幕末」ですが、その理由のひとつは、いずれも個性的な英雄が登場し、そのキャラクターに感情移入したり、「推し」にしたりしやすいからなのかもしれません。

そのなかでも、とりわけ「幕末」の「英雄」と称される坂本龍馬や逸話揃いの新撰組には多くのファンがいます。

その人気にあやかって町おこしに使われたりもしていますから、迂闊なことは言えないのですが、歴史研究を専門とする身からすると、正直に言えば、坂本龍馬も新撰組も、研究の対象とは言えないのです。

『日本史の偉人の虚像を暴く』でも、藤原道長や平安時代の歴史研究の薄さについて、門外漢ながら指摘させていただきましたが、やはり歴史研究の対象になりやすいのは、歴史のターニングポイントであり、エポックメイキングな偉業を成し遂げた人物やその周辺なのです。その意味でいうと、坂本龍馬も新撰組も、歴史の大きな流れにおいて、いったい何をした人物なのか、よくわかりません。

坂本龍馬にしろ、新撰組の隊員たちにしろ、いずれも歴史研究というよりも、小説や漫画、映像作品など、エンターテインメントの世界で深掘りされてきた人物なのでしょう。特に坂本龍馬の人気は衰えを知りません。

■大ヒット小説で人気に火が付いたが…

まだ明治維新から間もない明治16(1883)年に地元の高知(土佐)の新聞で連載された伝記小説『汗血千里の駒』が人気を博して以降、たびたび坂本龍馬は話題となってきた人物です。

当時の明治政府では薩摩・長州閥の権力が強く、そこで土佐の人間も忘れるなということで坂本龍馬が持ち出されたという話もあります。しかし、その後、現代まで続く坂本龍馬の不動の人気を決定的なものにしたのは、やはり司馬遼太郎先生の『竜馬がゆく』でしょう。

それは新撰組にしてもそうです。早いものでは、新撰組の生き残りである二番隊隊長の永倉新八が記者の取材に協力した『新撰組顚末記』などが大正2(1913)年に小樽新聞で連載されています。

昭和3(1928)年に刊行された子母澤寛『新選組始末記』でその存在が一躍知られるようになり、やはり司馬遼太郎先生の『燃えよ剣』の人気によってさらに火がつきました。今では、漫画やアニメ作品などの題材になることも多く、特に隊士たちを美形・イケメンキャラで描くなど、女性人気も高い存在となっています。

そんな人気のためか、しばしば近現代史の先生が揃って語る悩みに、「坂本龍馬か新撰組で卒業論文を書きたがる学生が多い」ということがあります。先に述べたように、坂本龍馬も新撰組も、歴史学では評価しづらい存在のため、確実な論文を書きたいなら、テーマを変えるように指導をしているとのことでした。

■実質的には西郷隆盛の「使い走り」

新撰組は京都の市中の治安を守る一種の警察組織ですから、歴史の大きな流れに影響を与えたかどうかという観点で言えば、学術的な対象になりづらいのはわかります。しかし、坂本龍馬の場合はどうでしょうか。

一般的には、坂本龍馬は倒幕の原動力となった薩長同盟を結ばせた立て役者ということになっています。けれども薩長同盟の主体は、あくまでも薩摩藩と長州藩です。

この場合、薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎がすごいのであって、仲立ちをしたとされる龍馬は、そもそも当事者ではありません。一部の研究者によれば、坂本龍馬は「西郷の使者」に過ぎず、西郷の命で動き回っていた使い走りなのだから、薩長同盟への貢献はさほど認められないのだそうです。

西郷隆盛像
写真=iStock.com/PhotoNetwork
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PhotoNetwork

龍馬の発案としては、「船中八策」が知られていますが、これも龍馬本人にオリジナリティがあるものとは言えないそうです。

以前、徳川家19代目の御当主で、歴史研究家でもある徳川家広さんとお会いしていろいろとお話を伺ったことがありました。そのとき、家広さんがおっしゃっていたことに、「日本三大どうでもいい事件」というものがあります。

世のなかには、未解決のために陰謀めいた説を含めてさまざまに論じられている事件がありますが、なかでも取り上げることすら意味のないものが3つあるというのです。

■ただの「警察組織」を研究しても意味がない

ひとつは、GHQによる暗殺説がある下山事件。戦後間もない1949年、国鉄総裁の下山定則氏が失踪し、翌日に常磐線の北千住駅と綾瀬駅の間で、轢(れき)死体となって発見された事件です。未だに真相が究明されていない戦後の未解決事件のひとつですが、GHQ犯行説がしばしば囁(ささや)かれています。

2つめが、本能寺の変。信長を討った明智光秀の本当の黒幕は誰かというものです。なぜ光秀は信長を討ったのか、さまざまな黒幕説・共謀説が唱えられて今もなお議論をされていますが、歴史学的にはそれを指し示す史料が何もない以上、検証のしようがありません。

そして、3つめが坂本龍馬の暗殺事件です。坂本龍馬が歴史学上、そこまで重要な人物ではないとなれば、やはりそれは「どうでもいい」ということになります。

新撰組に至っては、やはり歴史研究の対象にはほとんどなりません。新撰組は警察組織ですから、本来は不逞浪士を取り締まり捕縛することが役割のはずです。にもかかわらず、エンタメの世界では多くの浪士を斬り殺した殺人集団として描かれることもしばしばでしょう。

■「自由な雰囲気」が人気の理由

血生臭いと言えば、新撰組内での粛清も有名です。

たしかに実際問題として、多くの人間が粛清もしくは切腹となっています。また近年では、一番隊隊長が沖田総司、二番隊隊長が永倉新八なのはよいとしても、三番隊隊長が誰だったのか議論になっているそうです。よく知られているのは、斎藤一ですが、六番隊隊長とされていて、多摩時代から近藤勇らと一緒だった井上源三郎が実は三番隊隊長だったのではないか、という意見もあるのです。

隊の組織形態もよくわからない状態であり、それほど専門の研究は進んでないのではないか。それだけに、新撰組はフィクションの対象として面白いのかもしれません。

坂本龍馬も新撰組も人気はあるけれども、学問としての歴史研究においては対象にするほどの歴史的人物ではない……、ということで坂本龍馬と新撰組の虚像を暴いておしまい、というだけではなんとも味気ないですね。いずれにしても、現在の坂本龍馬や新撰組の人気はすごい。

どちらも、その人気を決定的にした司馬遼太郎先生が亡くなった後も、衰えを知りません。特に龍馬に至っては、その自由な雰囲気を身にまとったような行動が、人々の精神を鼓舞しているかのようです。

■暗殺犯はどんな人物だったのか

歴史研究者からはほとんど見向きもされない龍馬暗殺ですが、私自身はこの事件を通して、当時のさまざまな勢力の動きをまとめることは、非常に面白いのではないかなと思います。また、龍馬の暗殺には新撰組が関わっているとする説もありますから、以下では坂本龍馬の暗殺の犯人についてまとめてみましょう。

京都市にある壬生寺。新選組が訓練場として使っていたことでも知られている
京都市にある壬生寺。新選組が訓練場として使っていたことでも知られている(写真=Hyppolyte de Saint-Rambert/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)

下手人探しについては、龍馬暗殺の2カ月後に戊辰戦争が始まったため、実際の容疑者取り調べは、明治2(1869)年5月の箱館戦争終結後に実施されました。当初、事件への関与が疑われていたのは、新撰組のなかで主に「暗殺」の任務を担っていたと言われる「人斬り鍬次郎」こと、大石鍬次郎でした。彼への取り調べが行われましたが、その後、京都見廻組が実行犯であるという証言が出てきたのです。

見廻組の隊士・今井信郎を取り調べたところ、犯行を供述し、その結果、今井を含む京都見廻組7名が、坂本龍馬暗殺の実行犯であったことが判明しました。しかし、今井以外の6名はすでに戊辰戦争で戦死していました。そのため、今井だけが刑に服すことになりました。しかし、今井の自供した内容には矛盾も多く、信憑性(しんぴょうせい)に欠けていました。

また、禁固刑に服していましたが、わずか2年で赦免となっており、不審な点が多いのです。京都見廻組は新撰組同様、京都の治安を守る警察組織のようなものですが、有象無象の集まりであった新撰組と違って、主に旗本で構成されたエリート集団でした。

剣の達人揃いで、なかでも西岡是心流の桂早之助は小太刀の名手として知られていました。

■龍馬に恨みを持っていた人物はいたが…

龍馬が暗殺されたのは近江屋の室内でのことです。

かなり狭い部屋で、大人2人が立つこともままならないくらいの広さでした。通常の刀を振るうことは難しかったでしょうから、犯人は小太刀で龍馬を斬りつけたと考えられます。それゆえ、小太刀の使い手である桂早之助が龍馬暗殺の下手人だと思われました。

暗殺の1年前、龍馬は京都伏見の船宿・寺田屋で、京都所司代指揮下の伏見奉行所の捕吏たちに襲われたことがあります。その際、龍馬は高杉晋作からもらったピストルで応戦し、逃げのびました。この事件では、伏見奉行所側に死傷者が出ています。

当時、桂早之助は京都所司代の同心でした。つまり、桂早之助にとって龍馬は自分の部下や同僚を殺し、傷を負わせた人間ということになります。だから、桂早之助には龍馬を斬る十分な理由があるというわけです。しかし、どうも京都見廻組が龍馬を暗殺した理由が、ある意味では私怨(しえん)に近く、動機の根拠としては弱いように思えます。

■大政奉還に反対する勢力の犯行だった可能性が高い

私が気になるのは、まず龍馬が殺された時期です。武力によらない平和的な倒幕を念頭に置いた大政奉還が実現した、わずか1カ月後のことでした。

薩摩と長州は武力によって幕府を打ち倒そうとしたわけですが、幕府側は薩長の攻勢をかわすための窮余(きゅうよ)の一策として、政(まつりごと)を朝廷に返上するというアクロバティックな一手に出たのです。

これを後押ししたのが、土佐藩の後藤象二郎であり、同じ土佐藩士の坂本龍馬が暗躍していたとされています。つまり、幕府側は大政奉還を望んで行ったことになります。

旗本を中心にした上位の組織である見廻組は、浪士を集めて組織された新撰組よりも、ずっと幕府の中枢に近い存在です。幕府の考え方により精通し、より忠実であって当然でしょう。それなのに、大政奉還を進めた龍馬を守りこそすれ、反対に殺(あや)めてしまうというのは、幕府の意に背くことになってしまいます。

やはり、京都見廻組では龍馬を暗殺する動機が弱いのです。そうなると、反対に大政奉還を推進されると目障りだと考える者たちが、龍馬暗殺の下手人である可能性が高いということにならないでしょうか。

高知県の桂浜にある坂本龍馬の銅像
高知県の桂浜にある坂本龍馬の銅像(写真=京浜にけ/本山白雲作/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■薩摩藩は圧倒的な倒幕派だった

そもそも大政奉還はいかにしてなされたのか。

まず慶応2(1866)年1月、土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎を仲立ちにして、薩摩と長州の間で、薩長同盟が結ばれます。その翌年に薩摩藩と土佐藩の間で薩土盟約が、薩摩藩と長州藩と安芸藩の間で薩長芸三藩盟約が結ばれました。これらの藩は明治維新の原動力となりましたが、しかし、それぞれの主張や思惑、立場は微妙に異なっていました。

特に意見の相違があったのは、徳川幕府をどうするかという問題です。

土佐藩は幕府と朝廷を一体化させる公武合体を推進していました。藩主の山内容堂も、15代将軍・徳川慶喜を最後まで擁護していました。安芸藩も諸外国の脅威に危機感を持っており、徳川幕府を仲間に引き入れるべきだと主張しました。

一方、明らかに倒幕派なのは薩摩藩と長州藩でした。幕府との武力衝突を避けたい土佐と安芸は、幕府へ働きかけ、大政奉還を実現させました。徳川幕府が朝廷に政権を返上したのですから、徳川打倒の大義自体がなくなってしまったのです。

■西郷隆盛は「徳川慶喜の切腹」を求めていた

これに頑(かたく)なに反対し納得しなかったのが、薩摩藩でした。特に意外と思われるかもしれませんが、西郷隆盛だったのです。

本郷和人『日本史の偉人の虚像を暴く』(宝島社新書)
本郷和人『日本史の偉人の虚像を暴く』(宝島社新書)

彼は武闘派のなかでも最強硬派であり、あくまでも徳川慶喜に腹を切らせるべきだと、武力による倒幕の姿勢を崩しませんでした。江戸に兵を進めた西郷隆盛が勝海舟と直接会談を行ったことで、江戸総攻撃は回避され、江戸無血開城となったことはよく知られています。

しかし、その直前まで、西郷は断固として軍事行動を進めようとしていたのです。

それは大久保利通に宛てた手紙にはっきりと書いてあります。このように考えると、坂本龍馬の暗殺を実行したのは薩摩藩である可能性も大いにあるのです。もちろん証拠となる史料はなく、あくまでも状況証拠を検証した結果、推理されるものの範疇にとどまります。

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本郷 和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。東京大学・同大学院で日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。著書は『権力の日本史』『日本史のツボ』(ともに文春新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『日本中世史最大の謎! 鎌倉13人衆の真実』『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(ともに宝島社)ほか。

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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)

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