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「聴いてほしいと思っていました」袴田巌さんが元刑務官に語った静岡県警による戦慄の拷問内容

プレジデントオンライン / 2024年12月5日 11時16分

袴田巌さんと姉ひで子さんに謝罪する静岡地検の山田英夫検事正(左)=2024年11月27日午前、浜松市(代表撮影) - 写真提供=共同通信社

1980年に、最高裁判決により死刑が確定した袴田巌さん。当時、元刑務官で現在ノンフィクション作家の坂本敏夫氏が、法務省の事務官として袴田さんに三度目の面接をしたのは、1982年、再審請求の準備が始まる頃だった。そこで初めて、袴田さんが「なぜ自白したのか」その戦慄の真相を聞く――。(2回目/全3回)

■煙たい存在になった袴田さん

1982年夏、予算要求作業期間中に三回目の面接をしたのだが、今度は拘置所側がずいぶん不親切になった。

午後1時から面接させるという約束で、私は舎房中央にある取調室に案内された。ここには空調設備がない。窓を開けるが風は入らない。ひどい蒸し暑さだ。長時間待たされた。私が袴田さんと面接を果たせたのは、1時間半後だった。

その30分ほど前に、主任(階級は副看守長)がやってきて、「今日は本人の心情が不安定なので面接をさせられません」と言った。何があったのかと訊くと、区長(担当の保安課長補佐で北舎を受け持つトップ。階級は看守長)と面接中に口論になったので止めに入ったが、本人の興奮が収まらないからと言う。

主任の顔を見れば真相はわかる。興奮冷めやらないのは区長の方だろう。刑務所出身の新任看守長は思い違いをしている。囚人はいつも素直に幹部刑務官の言うことを聞き入れると思っている。それは刑務所の受刑者に限られる。この東京拘置所では通用しない。幹部だからと、偉そうな態度で面接し、ちょっとした行き違いから言い合いになったのだろう。

「あなたも大変ですね。死刑確定者だけでなく、新任区長のお守りもしなければならないのだから……。しかし私も予定が詰まっていて日程が取れないので、今日面接をします。どうしても区長が不許可というのなら、所長に直接頼みますから、今から所長室に案内してください」

私はイヤミたっぷりに無理難題を押し付けた。

「参りましたなぁ。事務官には……。上に取り次いでみましょう」。係長は腹を読まれた照れ隠しに笑顔を残して部屋を出て行った。

ドアがノックされ、「入ります」という刑務官の声がした。私は「はい、どうぞ」と返答すると、立ち上がった。ドアが開く。年配の刑務官を押しのけるようにして袴田さんが入ってきた。

私の顔を見た途端、頬を緩め目尻を下げた。袴田さん特有の控えめな笑顔である。

「事務官、お元気でしたか」と先に話しかけられた。

「袴田! 勝手にしゃべるな!」

刑務官が語気強く叱りつけた。私は〈まずい!〉と思った。今日の袴田さんは区長とトラブルを起こしている。気持ちが高ぶっているはずだから、その言い方では無用に刺激してしまう。私は無神経な刑務官に腹を立て、袴田さんの反応を追った。

「ン…………」袴田さんは声を抑え、くるりと体を捻り、後方の刑務官と向き合った。

あぶない! 右のストレートが刑務官の顔面を一撃する!

私は息を呑んだ。ところが思わぬことが起こった。

「すみません」と、袴田さんが刑務官に謝ったのだ。そして、「気をつけ! 礼! 番号氏名」という刑務官の号令に従った。「食事の関係があるので午後4時15分に迎えにきます」。刑務官は私に向かって敬礼をして立ち去った。

「よく我慢しましたね」。私は心底思ったことを口にした。袴田さんは、彼はいい担当でよく話を聞いてくれる人だと言った。さっきはパンチを顔面に叩きこむのではないかと思ったと言うと、袴田さんは声を出して笑った。「それをしたらボクサーじゃないです」「区長と口論したと聞いたのですが」「口論ですか⁉ そんなんじゃありません。日弁連から来た手紙の交付が遅かったので事情を聞いただけです」
「日弁連?」

■日弁連が再審の支援をすると通知

「はい。おかげさまで去年の暮れに再審の支援をすると通知をいただきました。どうなるのかよくわかりませんでしたが、先月日弁連から派遣されたと、弁護士が三人来てくれて、無実を主張する理由などを聞き取ってくれました」

袴田さんは胸を張って言った。いかにも誇らしいという明るい表情である。間違いなく日弁連とのつながりが生じたことによって、袴田さんは拘置所にとって煙たい存在になったのだ。

「それはすごい。日本中の弁護士がついたということです。よかったですね。でも、袴田さん気を引き締めて、職員に揚げ足を取られないようにしてください」

「……」袴田さんは怪訝な顔をしたものの頷いた。

■「死刑を執行される夢を見た」

死刑の判決が確定すると被告人から死刑確定囚と呼び方が変わる。この違いは当の本人にとっては天と地がひっくり返ったくらいだと、ある死刑確定者から聞いたことがあるが、袴田さんも同じようなことを言った。

「死刑が確定してから死刑が執行される夢をよくみます。僕は人を殺してはいない、と叫び看守の手を振りほどこうと暴れますが、閉ざされた重い鉄扉を押しているような無力を感じるだけです。ひとしきり暴れると冷たい声が返ってきます。『死刑が確定したから執行するのだ。お前が殺したかどうかは、もう問題ではない』と。何度も同じ夢をみるので、本当にそうなるのかと怖くて仕方ありません」

来年は異動になると思うので、面接も今日が最後でもう会えないかもしれない。私は袴田さんがなぜ自白したのか、どうしても本人の口から聞いておかなければという強い思いが湧いてきた。

「ところで袴田さん、聞きにくいことですが、なぜ自白したのか話してもらえますか」

袴田さんの機嫌を損ねるかもしれない質問をして、私は緊張して顔色をうかがった。

■「清水警察署は悪魔の館でした」

「聴いてほしいと思っていました。ありがとうございます」。袴田さんは頭を下げてから、ゆっくり話しはじめた。

それは、代用監獄である清水警察署で彼が経験した戦慄(せんりつ)を覚える地獄絵図だった〔注・代用監獄とは警察留置場を監獄(国の刑事施設・拘置所、刑務所)に代用することができるという監獄法に規定された制度で、法律が改正された現在も継承されている。警察が自らの収容施設に身柄を確保しておいて、24時間いつでも取り調べが可能な状況に置いておくことが出来るから、自白の強要による冤罪の温床と言われている〕

「逮捕された1966年8月18日から自白したとされる9月9日までの23日間の清水警察署は悪魔の館でした。逮捕から数日すると黒のカーテンが窓に引かれ、昼なお薄暗く、蒸し風呂のように暑いところでした」

「そこで何が行われたのか正直はっきりわかりません。日に何度も、いえ何十回も棍棒(警棒のこと)で殴られ昏倒しました。私はここで45通の供述調書を取られたことになっています。しかし、署名し指印を押したのは、最初の頃の数通です。他は全く記憶にありません」

「最後の9月9日の検事調書一通のみが証拠採用された自白調書というものですが、自白したのかどうかもわかりません。気がつけば深夜、留置室の床の上に転がっていて、目が覚めると手足の指の先に激しい痛みを感じました。よく見るとほとんどの指の爪と肉の間に針かピンで刺された傷跡がありました」袴田さんは自白をしていない! それが直感だった。この後、袴田さんは戦慄の取り調べ状況を告白したのである。

キッチンガーデン 袴田さん支援くらぶより
写真=坂本敏夫氏提供
キッチンガーデン 袴田さん支援くらぶより - 写真=坂本敏夫氏提供

■殴る蹴るとなった取り調べ

勾留の最長日数は23日、その間に起訴しなければ釈放しなければならない。逮捕から1週間。自白を迫るが否認を続ける袴田さんに、本格的な拷問が始まったという。

「殺しても病気で死んだと言えばそれまでだ! 吐け、お前がやったんだろ。吐け! 死んでもいいのか」と捜査官は脅しつけ、怒鳴りつけながら、樫材の警棒で尻、太もも、二の腕を絶え間なく殴り続けた。

時を同じくして、取調室に簡易便器が持ち込まれた。取り調べ中はトイレに行かせないという構えだった。通常の神経ならば捜査官の面前で大小便の用を足せと言われてもできるものではない。大小便を我慢している腹部と臀部に警棒が容赦なく振り下ろされたのである。激痛だけではない、袴田さんは何度も失禁して糞尿にまみれるという屈辱を味わわされたと言った。

袴田さんは取り調べ状況を一つ一つ思い出してから語った。しかし、記憶はずいぶん欠落しているようだし、思い出そうにも映像が浮かばないものが多いようだった。私はただ頷きながらメモを取った。

「どうやら、殴られ、投げ飛ばされ、気を失うと、水を掛けられ、濡れタオルで顔を拭かれたらしいです。そこで気がつくと、また暴行を受けるといったことの繰り返しでした。それが断続的に朝、昼、夜、深夜と一日中続くのです。捜査官は2人または3人ひと組で私に暴行を加えてきました」

「棍棒だけではありません。平手で、あるいは拳で、顔面を殴打されました。柔道の技で何度も何度も床に投げ飛ばされました。転げると、多くの足に踏みつけられ、蹴り上げられたのです。寄ってたかって袋叩きにされたという表現のほうが当たっていると思います。ときどき非常な激しさで何かが私の頭と体にぶつかりました。何が起こっているのかわかりません。しかし痛みはほとんど感じないし、神経が麻痺したのならこの際ありがたいと思いました」

袴田さんは、たまっていた鬱憤(うっぷん)を晴らすかのように、話し続けた。私は、自分ならば1日も持たずに暴行から逃れるために嘘の自白をするだろう。そんなことを頭の隅で考えながら聴いていた。

23日間にわたる取り調べを時系列で話していたのか、これでおしまいですが、と前置きし、「富士山が燃えているのを見たのが最後でした」と言って唇を震わせた。

「ある夜、私は涼しさを感じました。そして爽やかな風を覚えると、途端に蒸し風呂に閉じ込められるのです。もうろうとしているとまた涼風が吹き込みます。私は蒸し風呂に入ったり出たりしているのだと思いました。ひょっと気がつくと私の顔を悪魔がのぞいています。それを手で払いのけると、前方の一カ所が真っ赤になっていました。あれは富士山が燃えているのだとこの肌全体で感じました。悲しかったです。それは日本の終わりを告げているようでした。私は泣いていました。すると何者かが冷たいタオルで顔を拭いてくれました、その何者かは、あやつり人形みたいでした。何もかもが不自然で奇妙な思い出が今でも蘇ってきて、頭がおかしくなったのかと思うこのごろです」

これが、袴田さんとの最後の面接のやりとりである。

■釈放後―浜松で袴田さんと再会

それから30年以上過ぎた2014年の3月、再審請求がとうとう認められ、同時に釈放された袴田さんは、都内の病院に検査入院した。死刑確定者という身分は再審で無罪判決が確定するまでは付いてまわるのだが、再審の決定に拘置の執行停止を加え、社会に戻してくれた裁判官の勇気と英断に感激し、驚きと感謝の気持ちに満ち溢れる思いだった。

袴田さんは10日余りで退院し、姉・秀子さんのもとに帰った。そこは、秀子さんが弟・巌さんの支援と社会復帰後の生活のために浜松市に建てた、家賃収入が得られるアパートである。

私は、新聞社からの誘いがあって、袴田さんを訪ねた。すっかり落ち着いたであろうと思われた釈放から4年後の某日だった。姉の秀子さんとは釈放された年にお会いし、その後も集会では袴田さんの近況などをお聴きしていた。元法務省職員であり刑務官だった私が自宅を訪ねたら、連れ戻しに来たのではないかと思われ、心情を乱すのではないかという心配と、再び会える喜びと期待を込めての訪問だった。

袴田さんと坂本敏夫さん
写真=坂本敏夫氏提供
袴田さんと坂本敏夫さん - 写真=坂本敏夫氏提供

秀子さんが「坂本さんが来たよ~。刑務官だった坂本さんよ」と巌さんに声を掛けた。返事はない。リビングの隣室に置いた椅子に座っていた袴田さんは、急いで布団を敷いて潜り込んでいたのだ。連れ戻されると思ったのかもしれない。

秀子さんから釈放後の生活状況を聴いた。拘置所の独房で習慣化したのか、毎日2時間から3時間、6畳間の中をぐるぐると歩き続け汗をかいていた時期があったという。

また、将棋の強さは相当なもので、来訪する支援者との将棋には誰とやっても負けないらしい。袴田さんとの会話は全く成り立たないが、高齢者がかかる認知症でないことは確かだった。死刑によって命を奪われるかもしれないという恐怖と拘禁による様々なストレスから身を護るために、脳が機能するという拘禁症に間違いないと思った。

私が秀子さんと穏やかに会話をしているのを見て安心したのか、午後の散歩の時間になると、袴田さんは布団から出て、外出の準備をはじめた。袴田さんはこの散歩を町の安全を守るパトロールと言っているとのことだった。

私は散歩に同行した。話しかけても返事は返ってこなかったが、肩を抱いても拒否されなかった。改めて、袴田さんの無罪確定の日がなるべく早くやってくるようにと、心の底から祈った。(第3回に続く)

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坂本 敏夫(さかもと・としお)
元刑務官・ノンフィクション作家
NPO法人(受刑者の更生支援、こどのも健全育成等)理事長。1947年12月、熊本刑務所官舎で出生。高校卒業まで刑務所官舎で暮らす。母方の祖父、父に続き三代続いた刑務官。67年大阪刑務所刑務官(看守)に採用。神戸刑務所、大阪刑務所勤務を経て、法務省法務大臣官房会計課、東京矯正管区で予算及び刑務所・少年院等矯正施設の施設整備を担当。87年現場に復帰し、94年広島拘置所総務部長を最後に退官。以後、作家、ジャーナリスト、タレントとして活動。著書に『死刑のすべて』(文藝春秋)、『死刑と無期懲役』(ちくま新書)、『囚人服のメロスたち』(集英社)、『典獄と934人のメロス』(講談社)など多数。映画・TVドラマの監修(一部出演あり)も多い。

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(元刑務官・ノンフィクション作家 坂本 敏夫)

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