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71年働きっぱなしでも嫌だと思ったことはない…過酷な樺太生活で鍛えた心身で駆け抜ける91歳シニア料理研究家

プレジデントオンライン / 2024年12月14日 9時15分

テレビに雑誌に引っ張りだこの91歳シニア料理研究家、小林まさるさん。散歩の相棒、繁殖引退犬のヴァトンと。 - 写真=長野陽一

頭にはバンダナ、デニムのエプロンを身につけ、足元は裸足がトレードマーク。70歳のとき、義娘である料理研究家のアシスタントとなり、78歳で自身の料理本を上梓。91歳の今もテレビや雑誌で活躍中だ。連載「Over80 50年働いてきました」17人目は“シニア料理研究家”の小林まさるさん――。

■91歳の料理研究家は働きっぱなしの人生

テレビ画面の向こうで楽しそうに料理をつくっているのが、小林まさるさん91歳だ。この日はNHK「きょうの料理」の講師として登場。年齢を感じさせないキビキビとした動きと姿勢、そして会話のテンポもいい。ところどころでアナウンサーと笑い話を交えながらレシピの説明をしている。

「俺は簡単な料理が得意。パパッとつくれておいしいと、みんなが助かるよね」

まさるさんの自宅を訪れたのは、柔らかな日差しが差し込む午後。穏やかな笑顔で迎えてくれた。11月も半ばというのに、相変わらずの裸足だ。おもむろにミルでコーヒー豆を挽き、ケメックスのコーヒーメーカーで淹れ始めた。噂の“まさるコーヒー”だ。香りがよく、濃厚でおいしい。コーヒーに魅了されたのは20代のころで、今でも来客があると必ず淹れると言う。

「俺の人生なんて働きっぱなしだよ。20歳から91歳の今まで71年間。何のために働いているのか、人間ってこんなに働かないといけないのかって考えることはあるけれど、働くのが嫌だって思ったことが一度もなかったね」と豪快に笑いながら、歩んできた人生を語り始めた。

まさるさんの取材をしたことがある編集者やテレビ関係者の間で、おいしいと噂になっている「まさるコーヒー」。スタッフがほっとひと息つきたいタイミングを見計らい、まさるさんがたっぷり淹れてくれる。
写真=長野陽一
小林まさるさんの取材をしたことがある編集者やテレビ関係者の間で、おいしいと噂になっている「まさるコーヒー」。スタッフがほっとひと息つきたいタイミングを見計らい、まさるさんがたっぷり淹れてくれる。 - 写真=長野陽一

■飢えと寒さに耐え抜いた少年時代

1933年(昭和8年)、日本統治時代の樺太で生まれた。当時、樺太の炭鉱で働くのは給料がよく、多くの人が一旗あげに海を渡ったと言う。まさるさん一家もそうだ。樺太南部の「川上」と呼ばれた町に住み、父は修理工として炭鉱で働いていた。自宅は山の中腹にあり、学校は山一つ向こう。毎日300〜400mの坂道を上り下りの生活だ。

炭鉱での生活は厳しく、特に冬場の寒さはこたえるものがあった。「尋常じゃなかったよ」。9月末から雪が散らつき、翌年の4月までは雪に覆われる樺太は、冬場の燃料となる石炭を夏の間に運ばなければならなかった。

連載「Over80 50年働いてきました」はこちら
連載「Over80 50年働いてきました」はこちら

「毎日、毎日、背負って坂道を登るんだよ。確保しないと凍えちゃうからね」

雪が積もれば鉄板に乗せて谷底まで捨てに行く。発電所が壊れてモーターが止まれば、水も天秤棒に吊るして担いで運ぶ。

「いろいろ運んだね、何往復も。だから今でも足腰が強いのかもしれない(笑)」

冬でも裸足がまさるさんのトレードマーク。愛犬ヴァトンも、テーブル下の定位置に。
写真=長野陽一
冬でも裸足がまさるさんのトレードマーク。愛犬ヴァトンも、テーブル下の定位置に。 - 写真=長野陽一

まさるさんは7人兄弟の長男で、子供の頃から母の手伝いをするのが当たり前として育った。

「嫌だとか、つらいとか、そういう考えはなかった。家族みんなで協力しなければ、生活が成り立たなかったからね」生きる知恵も樺太で身につけたと言う。

■ロシア軍侵攻による強奪、飢餓、侮辱

8歳の頃、父から刀のようなナイフをつくってもらった。熊や野犬の住む山に入るには必需品だ。自分の身を守りながら、食糧の魚を釣りに行くのだ。ヒヤッとしたことも何度もあったが、地面に残った熊の足跡や草木の切り口の露を見て、いつここを動物が通ったかを見極めたとか。

13歳の時に終戦を迎え、さらに厳しい生活が一家を襲った。ロシア軍が海岸沿いの町、真岡へ艦砲射撃を始めて攻めて来たのだ。強奪、飢餓、侮辱……。

「親父は覚悟を持って、辱めを受けるくらいなら家族で死のうと言ったんだ。炭鉱にはダイナマイトも手榴弾もあったから。俺は、いつ死ぬのかな、明日かな、明後日かなって考えていた」

最後に訪れた感情は“無”だった。

「戦争なんてするもんじゃない。惨めなもんだよ」

窓から見える風景
写真=長野陽一

一家はロシア軍に捕えられ、まさるさんが15歳になるまで飢えと寒さに耐える日々をこの地で過ごす。ロシア人からは「すぐ日本へ返す」と言われたが、待てど暮らせど帰国の日は来ない。畑でもつくればよかったが、帰れる、というロシア人の言葉を信じたのがいけなかった。

「食べるものがなくて、寒くて。2~3か月前から食べたり食べなかったりした後に、3日間食べないと倒れる寸前だった」

それから3年後、ようやく日本の地に辿りつけた。樺太での15年間で植え付けられたことは、自分のことは自分でやる。そして家族一丸となって支え、食べ物はみんなと分かち合う。この考えは、その後のまさるさんの人生の土台となった。

幼少期を過ごした樺太の様子を説明するまさるさん。ロシア軍は、中腹にある真岡という街に海から侵攻してきた。
写真=長野陽一
幼少期を過ごした樺太の様子を説明するまさるさん。ロシア軍は北緯50度線を越えて侵攻してきただけでなく、中腹にある真岡という街にも海から侵攻してきた。 - 写真=長野陽一

■会社員として炭鉱で働き、結婚・離婚

日本に着くと、父は北海道・美唄(びばい)の炭鉱で働き始めた。まさるさんはと言うと、生活のため、すぐにでも働きたかったが仕事先がない。そこで、三井鉱山が母体の鉱業学校の門を叩く。卒業すると花形の炭鉱に就職できる学校は競争率も高かったが、運よく入学することができた。

「学生であると同時に会社員でもあるから、給料が出たんだよ。月に500円。正規の社員が1日働いて270円で、寿司1人前が80円の時代に。それに厚生年金にも入れてくれてね」

2学年に上がると炭鉱の仕事が少し入り、月2000円を稼ぐことができた。そして卒業後、20歳で入社。厳しい仕事で苦労はあったが、仲間との絆もでき、仕事が終わると集まっては毎晩飲み明かした。1日に焼酎7合なんてザラだったとか。

7年働いたある日、ドイツへ海外赴任することが決まった。炭鉱の機械の知識と技術を磨く研修だったが、「3年間、楽しかったよ。日本人に親切で、ビールも旨かった〜」。

30歳で帰国すると、美唄の炭鉱は閉山になり、三井芦別炭鉱に行くことになった。そこではリーダーとなって、部下たちを指導した。とにかく仕事は全力投球で取り組むのが、まさるさん流だ。チームの団結は強かったと振り返る。

8年間を働くことになるのだが、その間に結婚と離婚を経験する。

12歳のとき、樺太で終戦を迎えたまさるさん。樺太を出る15歳までの3年間、ロシア人と一緒に働くことになったが、ロシア人自体は好きだったと言う。
写真=長野陽一
12歳のとき、樺太で終戦を迎えたまさるさん。樺太を出る15歳までの3年間、入植してきたロシア人と一緒に過ごすことになった。ロシア人のことは好きだったと言う。 - 写真=長野陽一

■思い描いたのとは違う家庭人の人生

「結婚するつもりはなかったけど、親が勧めたから勢いでね。嫁とは結婚式までに一度しか会ったことがないから、顔すら思い出せなかった。そんな感じだったから、うまくいかないよね」

娘と息子に恵まれたが、夫婦の関係は悪化する一方。ついに別れることとなり、2人の子供はまさるさんが引き取った。両親と同居し、仕事中は母に預けるつもりだったが、父が糖尿病で倒れて入院することに。

「初めは妹に子供たちの面倒を見てもらっていたけれど、みんな疲れちゃって。しまいには、子どもまで潰してしまうから、『別れた嫁とヨリを戻せ』と母に言われて……」

そして復縁。まさるさんが38歳の時だった。

■子育てをしながら駆け抜けた20年間

「一生炭鉱で働いていたかったけれど、人生思うようにはいかないね」と恥ずかしそうに話す、まさるさん。

復縁後、小さな町は噂がすぐ広まるという理由で、家族4人で暮らすために北海道を離れ、親戚の勧めで千葉県の鉄鋼会社の職に就いた。

「慣れない仕事で、若い兄ちゃんにあーだこーだ言われて、悔しかった。何度布団の中で泣いたことか」

酒と競馬。炭鉱で得た退職金の半分を失うほどのめり込んだ。「仕事と家庭のストレスから、40歳から50歳まではヤケクソの人生」と笑う。

まさるさんの生き方に、“意固地になる”はない。過酷な環境下でも、自分のことは自分でやる。家族のために働く。信念は貫くが、我は通さない。樺太で身につけた根性魂があるからだろう。必死で毎日を過ごしているうちに、いつしか仲間の一員として認めてもらうようになった。

そんな時、妻が腎臓病で倒れて入院することになった。幸運にも会社は3交代制だったから、仕事の合間に子供の面倒と妻の看病をすることができた。誰かのために料理をつくり始めたのもこの頃からだ。

退院してからも病弱な妻との喧嘩を避けるため、家事のほとんどをまさるさんが引き受けた。その甲斐あって、子供たちは素直に育つ。働き盛りの時期を、サラリーマンと主夫という二足のわらじで駆け抜けたのだ。

57歳の時、妻が逝った。(後編に続く)

小林まさるさん
写真=長野陽一

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石出 和香子(いしで・わかこ)
ライター・編集者
長野県育ち。大学卒業後、インテリアデザイン会社勤務を経験し、編集者に。NHK「きょうの料理」、「きょうの料理ビギナーズ」のテキスト編集を経て、2012年、プレジデント社「料理男子」をきっかけに、長く『dancyu』の編集に携わる。ワインとおいしい店をこよなく愛し、予約のとれない京都の和食店「食堂おがわ」の連載を担当、書籍『京都 西木屋町「食堂おがわ」の料理帖』を大ヒットに導く。

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(ライター・編集者 石出 和香子)

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