教育虐待で15歳で家出し、セックスを対価に男の家で食いつないできた70歳の私が「毒親育ち」に言いたいこと
プレジデントオンライン / 2024年12月15日 17時15分
■自分の思い通りに育てようとした父
キックボクシングを習い始めた。週に2回、グローブを着けてサンドバッグを叩いたり蹴ったりしている。
70歳の私が健康維持のために始めるなら、もっと年齢にあったエクササイズを選ぶのが普通かもしれない。だけど私は、もの心ついたときから負けん気が強く、後先を考えずに突進する乱暴者だった。
子どものころから、行くなと言われればますます行きたくなって、一人で遠くまで行っては迷子になっていた。男の子数人を相手に取っ組み合いの大喧嘩をしたり、230メートルの薄暗い電車専用トンネルを一人でこっそり歩いて抜けてみたり。勝ち目があろうがなかろうが、怖いと思えば思うほど突き進むタイプ。はっきり言ってバカである。
これは、そんな私を自分の思い通りの娘に育てようとした親と、それに逆らい続けたじゃじゃ馬な私の、壮絶な戦いの物語である。
私の父は、当時ちょっと名の知れた編集者だった。ことあるごとに反戦平和・自由・平等を口にする、いわゆる「良心的左翼文化人」とされていた人だ。
■テレビは禁止、クラシックとピアノと絵の習い事…
ところが、父が好んだのは禁止と管理。テレビは下劣で下品。あんなものを観ていたらバカになると言って禁止。クラッシック以外は音楽ではないと言って、歌謡曲も洋楽も禁止。文化的素養を身に付けさせようとしたのか、ピアノや絵を習わせた。習い事をしている子どもなど、まだほとんどいない時代だ。父は私を、利発な優等生にしたかったのだ。
けれども私は、大人しく親の言うことを聞くような子どもではなかった。東京郊外の、多摩丘陵を宅地化した新興住宅地。まわりは里山。私は、近所の男の子たちと丘陵を駆け回って木に登り、茣蓙(ござ)を尻の下に敷いて急斜面を滑り降り、藪に分け入ってキイチゴを採ったりキノコを採ったり、田んぼでは泥だらけになってタニシやザリガニを採っていた。自由奔放、お転婆のかぎりをつくしていたのだ。
さっさとあきらめてくれればよかったのだ。だが父は、そんな私をますます厳しく調教しようとして、門限を決め、ピアノのお稽古は毎日1時間と決めた。おかげで、私はますます叱られることばかりするようになった。父に内緒でテレビを盗み見たり、友だちと遊びたくて門限を破ったり、お稽古をさぼったり。バレたら怒られるので、嘘をついたり、ごまかしたり。友だちみんなが持っているのに、絶対に買ってもらえない匂い消しゴムや紙石鹸を万引きしたり。
■「ブタ野郎。出て行け。今すぐ死ね!」
子どもだった私の悪事はすぐにバレる。黙って見逃せば父に厳しく叱責される母は、私の悪事を余すことなく父に報告。おかげで私は、毎日のように父に怒鳴られ、しまいには、叩かれたり蹴られたりが日常となった。
学校に行くと熱が出て、保健室に入りびたりになったのはこのころだ。連れて行かれた東京女子医大での診断は「自律神経失調症」。そんな病名、当時は誰も知らなかった。父と母は、それを「甘ったれのわがまま病」と解釈。娘の根性を叩き直すしかないと思ったのだろう。私に対する父の「しつけ」は苛烈さを極めていく。
初めは防御する一方だったが、いつしか私は、父に殴られると応戦するようになっていた。殴り合いの大喧嘩である。どんどん厄介なことになっていく。
業を煮やした父は、「ブタ野郎。出て行け。死ね。いますぐ死ね!」と絶叫して、私を玄関のたたきに蹴落としたりする。家から出されても行くところなどない。しかもまだ中学生だった私は無一文。何度も、夜の住宅地をさまよいながら泣いた。悲しかったし悔しかった。しばらくすると、父が探しに来て私の腕をつかんで連れ戻す。「一人で生きられもしないくせに」とあざ笑う父。私は、歯噛みをするような屈辱感を味わっていた。
■父の欺瞞に気づくことができなかった
「学校の成績などで人の価値は測れない」と言う父は、私の成績が下がるたびに「怠けている」と言って私を責める人でもあった。成績など重要ではないと言うくせに、娘の成績が下がることは許せない。まだ中学生だった私は、父の欺瞞に気づくことができず、成績が下がるたびに、背筋が凍るような恐怖を感じていた。「父の言う通り、私は怠け者のブタ野郎かもしれない」という、自分に対する疑いを打ち消すことができなかったからだ。
そんな私の唯一の逃げ場が本だった。本さえ読んでいれば、成績が悪くても大丈夫だと思っていた。父が編集者だったから、家には腐るほど本があった。片っ端から読んだ。意味がわからなくても読んだ。活字を追っていれば、すべてを忘れることができた。
中学3年になったころ、大学で始まった大学紛争に同調する若者たちが、燦々囂々集まって、新宿駅西口広場で反戦歌や革命歌を歌っていた。フォーク集会である。
私が産まれたとき、両親はともに共産党員だった。その後、2人とも共産党から抜け、当時、父は「ベトナムに平和を!市民連合=べ平連」の運動に参加していた。好むと好まざるとにかかわらず、私は、左翼思想にどっぷり浸かって育ったのだ。
■14歳で新宿にたむろするように
初めて一人で新宿へ行った。西口広場は若者であふれていた。知らない人たちに囲まれて、私は大声で反戦歌や革命家を歌った。連れて行かれたメーデーや、家に来る父の仲間たちが歌っていたから、どの歌もよく知っていた。「いくつ?」と聞かれ、「14」と答える。みな驚いたような顔をする。自尊心をくすぐられた。
何度か新宿に足を運び、知り合った中学生から、「全国中学生共闘会議」を立ち上げるからと言って誘われた。当然、参加すると答えた。家庭にも学校にも馴染(なじ)めなかった私は、初めて仲間と呼べる人たちと出会えたような気がしていた。
高校受験。私は、公立高校の入学試験に落ちた。補欠だったと嘘をついた。すぐにバレた。母は泣いていた。結局、私はランクが下がる私立高校に入ることになった。入学金が高かったせいで、父と母は「お前のためにいくら金を使ったと思っているんだ」と言って、ことあるごとに私をなじった。情けなかった。
入学したのは、「自由や自主性を重んじる」が謳(うた)い文句の高校。私服通学が許されていた。だが私は、唯々諾々、喜んで私服を着て行く気になれず、中学のときに着ていた制服を着て入学式に出た。どこまでも反抗的なへそ曲がりである。
■高校を中退し、15歳で家出
高校は電車で一駅のところにあったが、私は、多摩丘陵の林のなかを一時間ほど歩いて通うことにした。途中、牛がいたり花が咲いていたりする。そのたびに私は立ち止まり、牛を眺めたり、花の匂いを嗅いだりする。当然、遅刻。
入学して15日目。私はとうとう高校に行かなくなった。ぐずぐず歩き、始業時間よりかなり遅れて高校に着くと、そのまま校舎の前を通り過ぎ、隣接する大学の学食に行く。そこで時間を潰し、夕方になるとまた林のなかを歩き、何食わぬ顔をして帰宅した。当然、バレる。出席日数15日。一学期の終わりに渡された通知表には、赤ペンで書かれた「無評価」という文字が並んでいた。
父は、「学校に行かないなら家を出て、一人で生きろ」と言った。本当に出て行くとは思っていなかったのかもしれない。だが私はさっさと家出。新宿で知り合った学生から教えられた大学の寮に転がり込んだ。そのころ、大学の寮は出入り自由。誰からも咎められることはなかった。投げ出されていた汚い布団に包まり、空き瓶を拾い集めて金に換え、180円のアジフライ定食を食べて数カ月を過ごした。
そこで私は初めてセックスをした。相手の男が好きだったわけではない。怖気づいていると思われたくなかったのだ。男の体の下で「セックスなんてたいしたことではない」という顔をしていた。15歳だった私は、そうやって自分を守っていた。
あとになって、相手の男が「あいつはマグロだ」と言っていると聞き、そうか、ああいうときは、感じたふりをしなければいけないのかと知った。それぐらい無知だった。
■セックスは寝床の対価だった
それからも、家に帰りたくない一心で、声をかけてきた男のアパートに転がり込んだりした。食べさせてもらい泊めてもらう。セックスはその対価。これで貸し借りなしだと思っていた。馴れ馴れしくしてくる男の手を振りほどき、「私にかまわないで」と言う。男はとたんに不機嫌になって「そんな女だとは思わなかったよ」と吐き捨てる。「どんな女だと思ってたのよ」と言いながら、私は唇をひん曲げて笑う。体を投げ捨てるようなセックス。二度と会うこともない男たち。たがいに軽蔑を見せつけることで、脆弱な自尊心を保っていた。
「……遊郭をひやかす。写真を見てもみな頗る醜悪なり。格子の奥にタバコを吹かす女、あたかも白粉樽にころがる半腐爛の豚のごとし。路地にも肥料のごとき異臭あり」
これは、山田風太郎の『戦中派不戦日記』のなかの一節。私の祖父が経営する「久保田楼」という女郎屋は、山田がひやかしたこの遊郭のなかにあった。父はここで青年時代を過ごし、赤線が廃止になったあとも家業を深く恥じていた。
その反動だろう。父は、自分の家庭に性的な匂いが入り込むことを極端に嫌った。母には、化粧をすることも半袖を着ることも許さず、ミニスカートを履いた私を、ものすごい勢いで殴りつけた。修道院のような家庭にしたかったのだ。
■ついにたった一人になってしまった
それなのに、娘の私は高校を中退して家出。不敵な顔をして不純異性交遊だ。これもまた、私なりの父への反動だったのだろう。反動から反動へと極端に揺れ動く。父と私はよく似ていた。
だが父は、そんなふうには考えなかった。「お前は人間じゃない。メス犬だ。お前とは親子の縁を切る。お前は、お前が生きるに相応しい場所へ行け」と言って、新宿の「風林火山」という店の場所を私に教えた。その店の周辺は、当時、売春婦が立ちんぼをしていることで知られていた。父の言葉を冷めた思いで聞きながら、私はここでもまた、唇をひん曲げて笑っていた。
全国中学生共闘会議の流れで知った、ノンセクトの高校生グループ「暫定フラクション」の集会や勉強会に参加した。けれども私は、革命など起きたら真っ先に粛清されるような人間だ。リーダーから「これはお遊びじゃないんだぞ。真面目に革命を目指す気がないなら出ていけ」と言われてパージ。追放である。おっしゃる通り。社会に対する不満はあったが、革命なんて絵空事だと思っていた。
それでも私は、このとき、帰属するものも友だちもすべて失った。完全に孤立。誰にも頼れない私は、優しくしてくれる男だけに頼るようになった。
■ゴールデン街で一番酒癖の悪い女
相手の男は何回か変わったが、男のアパートに転がり込んでなんとか食いつなぐ生活から抜け出したのは、17歳になった直後だった。「アルバイトをしないか」と声をかけてくれたスナックのマスターが、アパートを借りる金を貸してくれたのだ。なにもないアパートの畳の上で、大の字になって解放感に浸った。やっと一人で生きて行ける。心底、嬉しかった。
男との縁は切れたが、アルコールに溺れた。毎日、浴びるように飲んだ。酔うと大泣きすると店のマスターが教えてくれたが、記憶はなかった。その店を皮切りに、バーやクラブを転々とし、最後は銀座のバーに勤めた。22歳になっていた。
銀座に移ってからも、酒はやめられなかった。店がはねてから、毎晩、新宿のゴールデン街に行く。一人で何軒も梯子して、へべれけになるまで飲む。それが日課だった。
一人で飲んでいると、いろいろな男が声をかけてくる。ゴールデン街のママやマスターが「純に触るな!」と言ってくれるが、それでもしつこい男がいる。かまわれたくない私は、突然、激高し、ビール瓶をたたき割って相手の男に突きつける。「ゴールデン街で一番酒癖の悪い女」と言われるようになっていた。
■ある日、アメリカ旅行に誘われ…
そんな私にも、店をやらないかと言ってくれる人がいる。なぜかわからないが、水商売に向いていると言われた。だが、店をやる気にはなれなかった。山椒魚のように、一生、カウンターの中から出られなくなりそうな気がしていた。
ある晩、店の客が、「アメリカ行きのツアーに突然キャンセルが出て困っている」と言って駆け込んできた。「格安にするから。行き帰りだけで、あとは自由にしていいから」と言われ、その気になった。景勝地や観光地には興味がなかった。人間が見たいと思ってニューヨークに行った。
といっても、昼間から酒を飲んで、ニューヨークの街をふらふら歩いていただけだ。奇抜な服を着た人や、ボロボロの服を着た浮浪者みたいな人が行き交っている街は、どこか自由で肌に馴染んだ。それでも、強く印象に残るものはなにもなかった。まあ、面白かったという程度の感想で、帰りの飛行機に乗り込んだ。
ところが、飛行機が離陸を始めたとき、突然、「もう一度、ここに来なければならない」と強く思った。自分でも驚いた。理由がまったくわからなかったからだ。それでも、久しぶりに目的というものをもった私は、理由がわからないまま、それを「天啓」と名付け、1年後、再びニューヨークに降り立った。
■それは、帰りの飛行機の中で起きた
なぜ、もう一度ここへ来なければならないと思ったのか。自問しながら、1年前に歩いた道を残らず歩いた。この街にあったなにかが、私を強く惹きつけたはずだ。それはなんだったのか。いくら歩いても、いくら考えてもわからなかった。大事なものをつかみ損ねたという失望を抱え、再び帰りの飛行機に乗った。成田までの直行便だった。
3カ月近くアメリカにいて、そればかり穿いていたので、私のジーンズはボロボロだった。臀部が大きく破れ、下着が見えていた。それでもニューヨークには、眉をひそめる人も、じろじろ見る人もいない。だから私は、下着が見えていることなどほとんど忘れて、そのままの恰好で飛行機に乗り込んだ。
ニューヨークを発った飛行機は、どんどん日本に近づいていく。あと数時間で日本に着くというとき、私の心に奇妙な変化が起きた。下着を見せて歩いていることが、急に恥ずかしくなったのだ。
乗客は、ニューヨークから成田までずっと一緒だった。搭乗したときは少しも恥ずかしくなかったのに、なぜ私は恥ずかしくなったのだろう。ここにはなにかある。考えなければならないなにかがある。そう思いながら私は、ジーンズの破れを隠すため、上着を腰に巻き付けて日本に戻った。
■私を軽蔑する目は、父母の目だと思っていたが…
それから数日、私は、そのことを考え続けた。突然、わかった。
目だ! 私はベッドの上で起き上がり、ここ数日、考えていたことを復唱した。「飛行機の乗客は、ニューヨークから成田までずっと一緒だった。だから私が恥ずかしくなったのは、乗客の視線が原因ではない」。それから私は、おもむろに付け足した。「私が恥ずかしくなったのは、私を見る、私の目が変化したからだ」
私を見る目。私はそれを、ずっと自分の外にあるものと思っていた。私を非難し、断罪し、軽蔑する目。それは父の目であり、母の目であり、世間の目だと思っていた。違う。私のなかに、私を見る目がある。私を非難し、断罪し、軽蔑する目は、私の中にある私の目だ。
いまならわかる。それは価値観の内面化だ。父や母や世間の価値観。その価値観は、私を問題児と決めつけ、堕落していると決めつけ、まともに生きることができない人間と決めつけていた。反発しているつもりだった。私はそんな人間ではないと、叫んでいるつもりだった。だが、なんのことはない。私は、そのような価値観を内面化し、自分のことを、堕落したどうしようもない人間と決めつけて断罪していたのだ。
■2つの人格が統合され始めた
つきものが落ちたような感じだった。そうだったのか。そういうことだったのか。私は世間や両親の価値観を批判しながらも、それを打ち消すことができずにいた。それなら私は、堕落した人間のクズではないのか。いや、そうではない。私は確かに堕落した人間のクズだった。自分でもそれを知っていたのだ。
私の中で、分裂していた2つの人格が統合され始めていた。私をクズと決めつける世間や親に牙をむき、その価値観を否定しようと躍起になって抗っていた自分と、「お前はクズだ。生きる価値などない」と、誰よりも厳しい声で私を責めたてるもう一人の自分。この2人の激しい抗争が、私を破滅へと導いていた。対立する2人の自分の狭間で、私は自分を見失い、自分がなにを望んでいるのか、なにがしたいのか、まるでわからなくなっていた。
命を奪いかねない勢いで対立していた2人の自分が統合されていく先で、私は、どのような自分に、どのような人間になっていくのだろうか。そのときはまだ、なにもわかっていなかった。
■私は「かわいそうな子ども」だったのか?
私の両親のような者は、最近「毒親」と呼ばれているらしい。そんな親に育てられた私のような子どもは「アダルトチルドレン」と呼ばれたりもする。
だが私は、これらの言葉が好きではない。これらの言葉は、親を加害者、子どもを被害者と規定している。そのことに間違いはない。だが、被害者は弱者である。そこには「かわいそうな者」というニュアンスがある。アダルトチルドレンは、「かわいそうな子ども」だ。
私は自分が、かわいそうな子どもだったとは思わない。親のせいでひどい目にあったことは確かだし、そのせいで愚行を重ねたことも事実である。だが、私の愚行は、すべて抵抗であった。戦い方がわからなかったので自分を痛めつけ、体にも心にも生涯消えることのない傷を負った。だがその傷は、押し付けられた人生を拒否しようとして、死力を尽くして戦った証である。どれほど愚かしい戦いであろうと、それは「被害者でいることに甘んじるつもりはない」と、もがいた私の足跡である。
■どんな親の元に産まれようと…
多くの子どもたちが、いまも勝ちが見えない戦いに挑んでいる。その戦いによって、身を亡(ほろ)ぼす子どもは少なくない。大人になっても、消えることのない痛みや歪みを抱えて苦しむ者もいる。だが、どんな親の元に産まれようと、被害者であることから抜け出すことをあきらめてはいけない。
親や世間に抗いながら生き延びた私の経験が、生きづらさを抱えて苦悩する多くの者たちにとって、少しでも役に立つことを願っている。
ここまでのことは、『ねじれた家 帰りたくない家』(講談社刊)で詳しく書いた。2003年に出た本なので、もう書店にはない。もしかしたら古書店にはあるかもしれない。読んでやろうと思ってくださる方は、お探しいただければ幸いである。
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径書房代表
1954年、東京生まれ。編集者。15歳で和光学園高校中退。1980年、長女出産。1989年、径書房に入社。竹田青嗣氏に師事。現在、径書房代表取締役。著書に『ねじれた家 帰りたくない家』(講談社)、岸田秀氏との対談『親の毒 親の呪縛』(大和書房)、『ちつのトリセツ 劣化はとまる』(径書房)『人生最高のセックスは60歳からやってくる』(径書房)がある。
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(径書房代表 原田 純)
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