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〈NHK大河〉父・道長より民のことを想っていた…息子である天皇と共に最高権力を握った藤原彰子87年の人生

プレジデントオンライン / 2024年12月15日 7時15分

「紫式部日記絵巻」に描かれた道長の長女・彰子(右上)、後一条(後一條)天皇、後朱雀天皇の生母となった(画像=「紫式部日記絵巻断簡」/東京国立博物館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

大河ドラマ「光る君へ」(NHK)で注目された一条天皇の中宮彰子。歴史学者の服藤早苗さんは「産んだ皇子が2人とも天皇となり、彰子は国母として父の道長や弟たちより大きい決定権を持った。87歳で亡くなるまで60余年間、天皇家の家長として、道長親族のとりまとめ役として君臨した」という――。

■藤原道長が貴族としてトップに立てたのは、正妻と娘のおかげだった

彰子は、永延2年(988)に、母源倫子(25歳)の邸宅土御門殿で生まれた。父藤原道長(23歳)は、前年に倫子の父源雅信に婿取られ、妻の両親と同居していた。雅信は、宇多天皇の孫、そのうえ公卿のトップ左大臣である。倫子の噂を聞きつけた道長は、けっこう強引にアタックし、倫子の母にみとめられ、婿に入ったのだった。

彰子誕生の2年前、道長の父兼家たちのたくらみで花山天皇を出家させ、兼家は娘の詮子が産んだ7歳の一条天皇を即位させ、摂政になった。彰子が誕生した年、道長は参議を経ないで権中納言に昇進という異例の出世をする。父兼家の強引な人事だった。

彰子は、母倫子の女房赤染衛門などに傅(かしず)かれ、将来の后として大切に育てられ、長保元年(999)11月1日、12歳で一条天皇に入内し、7日には女御になった。奇しくも同じ日、一条天皇の皇后藤原定子が、第一皇子敦康親王を出産する。本来なら第一皇子の誕生は、朝廷をあげての祝賀が行われるはずであった。ところが、定子の邸宅には貴族層がほとんど出席しない。彰子の女御(にょうご)祝には大挙して押しかける。

なぜか。定子の父道隆は、長徳元年(995)4月、飲水病(糖尿病)で43歳で亡くなる。当時の酒は濁り酒で糖分が多かったので、酒の飲み過ぎとされている。さらに定子の兄弟が、花山院を射る事件まで起こし、定子には後見者がいなかったからである。同母兄弟でも末っ子だった道長にとってなんとも幸運だったのは、長兄道隆だけでなく、次兄道兼も亡くなり、「棚ぼた」でトップの座が手に入ったのである。

■あまりにも悲運だった皇后定子、彰子と個人的な対立はなかった

皇后定子は本当に「悲運な」皇后だった。長保2年(1000)12月、媄子内親王を出産し、24歳で亡くなってしまう。彰子はまだ13歳、皇子の出産などまだまだ先であり、しかも皇子出産の可能性も五分五分。定子の忘れ形見、敦康親王を失脚している定子の兄弟が養育し、将来皇位を継ぐことになると、故道隆一族の復活になる。

そこで登場するのは道長の知恵袋藤原行成。漢の明帝が、子どものいない馬皇后に粛宗(しゅくそう)を愛育させた故事を一条天皇に話し、彰子を敦康親王の養母にしたのである。馬皇后は、華美を求めず質素倹約し、修養に努めて政事にあたり、私の事を朝廷に求めない賢后だった。彰子も故事を学んだに違いない。

数年後には、彰子は、敦康親王を殿舎に引き取り、まさに同居する。定子と彰子はライバルとされるが、一度も会ったことはなく、一条天皇の寵愛する敦康親王を彰子は慈しんで育てた。そのゆえもあり、一条天皇と中宮彰子の関係は良好であった。たとえば、寛弘5年(1004)11月、清涼殿で宴会を開き、酩酊(めいてい)した一条天皇は、殿上人を引き連れ彰子の殿舎に渡り、得意の笛を数曲奏でている。

■皇子を産み、紫式部から「国母」として政治参加せよと教えられた

しかし、彰子は出産可能な年齢になってもその徴候は一向にあらわれない。焦った道長は、寛弘4年(1007)8月、皇子祈願のために金峯山に参詣し、子守三所権現(今の水分神社)等を巡詣する。さらに、金字で自筆書写した経を金銅の経筒に入れて埋納している。

なんと、この年の暮れには、彰子が懐妊する。しかし、呪誼でもされたらたまらない。道長は、彰子懐妊を秘密にしていたが、安定期に入って公にし、寛弘5年(1008)7月に出産のため土御門邸に移る。

「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし」

『紫式部日記』の書き出しである。この頃、紫式部は彰子に漢籍「新楽府」を教授する。『白氏文集』の「新楽府」は、天下の治政の混乱や世相の退廃を風刺し批判して天子に諫言し、改革を求めた諷喩詩である。紫式部は、彰子も治政に心すべきだと教えたのだった。後に、2人の皇子が天皇になり、国母として政事に後見できたのは、紫式部の教育のおかげだった、といえようか。

■2人目の皇子も得て、道長が「わが世」と詠った絶頂期をもたらす

寛弘5年(1008)9月11日、難産の末、敦成親王(後の後一條天皇)を出産する。

その騒動は『紫式部日記』に詳しい。白一色の産室の廻りには、大勢の僧侶たちの読経の声、おびただしく焚かれた護摩の煙、彰子に憑いている物の怪を憑座(よりまし)に移し調伏する修験僧たち、さらに40人以上集まった女房、殿上人、何とも喧陳(けんそう)の中での出産である。30時間もかけての御産だった。ましてや皇子である。道長や倫子の悦びようはいかばかりか。

「紫式部日記絵巻」の道長
「紫式部日記絵巻」の道長(画像=「紫式部日記絵巻」/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

新生児誕生後の奇数日に行われるお祝い、産養(うぶやしない)には、大勢の殿上人たちが駆けつける。中宮彰子の役所のトップ、中宮大夫の藤原斉信が用意した中宮の御膳は、沈香木(じんこうぼく)の懸盤(かけばん)、銀器など、何とも豪華だったという。

その14カ月後、さらに皇子敦良親王(後の後朱雀天皇)を産む。その2年後、寛弘8年(1011)6月13日に一条天皇が病気で譲位し、22日に崩御することを考えると、立て続けの2人の皇子出産は、道長のみならず、今に続く摂関家にとってまさに「幸運」だった。このときの彰子は24歳、87歳で亡くなるまで、60余年間、天皇家の家長として、道長親族のとりまとめ役として君臨したのである。

■次の天皇は誰か、臣下の道長より中宮彰子に決定力があったが…

三条天皇即位後、誰を東宮にするか。一条天皇はもちろん最愛の定子所生の第一皇子敦康親王を望んでいた。ここで、また道長の知恵袋藤原行成が、後見者のいない皇子を東宮にするリスクを一条天皇に開陳する。重病の一条天皇も仕方なく敦成親王東宮を承諾する。その後である。道長は彰子の殿舎を避け、彰子に告げることなく決定してしまう。一条天皇の遺志も踏まえ、まずは敦康親王を、次に敦成親王と考えていた彰子は、道長の決定に怒りをぶつける。本来、道長より中宮、ましてや後の国母の方が本来決定力を持っていた。だからこそ、道長は彰子に伝えなかったのである。

一条天皇没後の彰子は、黒ずみの喪服に身をつつみ、悲しみに耐えている姿が、道長のライバル藤原実資の日記『小右記』に散見される。

2023年JRA年間プロモーションキャラクターを務めた見上愛
写真=時事通信フォト
2023年JRA年間プロモーションキャラクターを務めた見上愛(大河ドラマ「光る君へ」の藤原彰子役)=2023年6月25日、兵庫・阪神競馬場 - 写真=時事通信フォト

■大河ドラマが描かなかった、彰子が道長の宴会を中止させた逸話

長和2年(1013)2月のことである。道長は親しい殿上人に通知を出し、皇太后彰子の枇杷殿で一種物を計画する。持ち寄りコンパである。ところが、彰子は中止させる。

「父道長が権力を持っている時は皆従うだろう。しかし道長が亡くなった後では皆が誹謗するに違いない」との理由からである。道長のライバル、藤原実資は「賢后なり」と絶賛している。宴会好きな妹の妍子への忠告でもあった。殿上人が持参するー種物は、たとえば、銀で作った鮭の入れ物に、干した鮭などを入れて持参するなど、大変な負担だったからである。

もっとも、彰子は宴会等の「おもてなし」の効力は熟知しており、自身が設定する宴会はよくやっている。道長が朝廷での会議の後、参加していた実資などの殿上人を引き連れ、突然彰子の邸宅枇杷殿にやってきても、彰子は酒やごちそうを出し、「おもてなし」をしている。「おもてなし」の効用は熟知しており、まさに「賢后」だった。母源倫子から学んだ処世術だと思われる。

■長男の後一條天皇即位時、国母として史上初めて高御座に昇ったか

長和5年(1016)年2月7日、9歳の敦成親王が後一條天皇として即位する。彰子は大極殿の高御座に一緒に昇る。史料的に初めての同座である。天皇の後見者として視角的に人々へのアピールである。

実際にも、摂政になった道長は、彰子の殿舎に執務室を置き、そこで公卿を集め会議を行う。当然ながら、御簾の中の彰子の意を受けてのことである。国母の政治力は史料が多く遺されており、摂政はいわば国母の代行者・代弁者といえようか。

長元4年(1031)閏10月、彰子は延暦寺の横川如法堂に、天皇と民衆の安穏を記した願文を収めている。大正12年(1923)、金銀鋳宝相華唐草文経箱が発掘され、国宝になっている。まさに、彰子が法華経を書写し納めた経箱である。彰子が政事に心をくだいた確かな証拠である。

2人の皇子、後一條・後朱雀の後、孫の後冷泉天皇・後三条天皇、曾孫の白河天皇まで彰子は天皇家の家長として、生活や政事を支えていく。天皇のキサキ決定も彰子が行った。

■「民のために」行動したのは、道長より女院彰子の方だった?

従来、後三条天皇の母は、三条天皇の皇女で摂関家と関係ないので、後三条天皇は摂関家と対立し天皇親政を目指した、とされていたが、近年の研究では否定されている。そもそも禎子内親王は道長の娘妍子所生(しょせい)であり、禎子内親王を東宮敦良親王に入内させることを決めたのは道長である。当時は、父方のみならず、母方も親族として対等に近く扱う双系性社会だった。

たしかに、道長没後、頼通は即位した後朱雀天皇に養女を、教通も娘たちを入内させる。すでに皇女2人と尊仁親王(後の後三条天皇)を出産していた禎子内親王は、怒って宮中へ入る事もなくなる。しかし、出家して上東門院になっていた彰子は、禎子内親王の出産場所や尊仁親王の邸宅などを提供し、彰子の側近が様々に援助している。けっして、摂関家と対立していたわけではない。

彰子は、87歳の長寿をまっとうした。のちの白河院(後三条天皇の皇子である白河天皇の退位後。院政を行った)は、政務への関与の先例として上東門院の事例を踏襲する史料が散見する。最近の研究では、上東門院彰子こそ、摂関政治と院政の橋渡しをした偉大な女院だと評価されている。

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服藤 早苗(ふくとう・さなえ)
歴史学者
1947年生まれ。埼玉学園大学名誉教授。専門は平安時代史、女性史。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。文学博士。著書に『家成立史の研究』(校倉書房)、『古代・中世の芸能と買売春』(明石書店)、『平安朝の母と子』『平安朝の女と男』(ともに中公新書)、『藤原彰子』(吉川弘文館)など。

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(歴史学者 服藤 早苗)

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