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次の大河ドラマの主人公・蔦屋重三郎はこうして成り上がった…今も通用する「薄利だが確実な」儲け方

プレジデントオンライン / 2024年12月15日 8時15分

山東京伝作『箱入娘面屋人魚 3巻』中の蔦唐丸(蔦屋重三郎)、寛政3年(1791)、出典=国立国会図書館デジタルコレクション

2025年NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の主人公は、江戸後期に活躍した版元の蔦屋重三郎(演・横浜流星)。その成功の秘密を調べた川上徹也さんは「蔦重は時代を読む嗅覚に優れ、浮世絵などで話題作を続々と世に出した。それでいて経営者としても堅実な一面を持っていた」という――。

※本稿は、川上徹也『江戸のカリスマ商人 儲けのカラクリ』(三笠書房・知的生きかた文庫)の一部を再編集したものです。

■大河ドラマの主役になった蔦屋重三郎のプロフィール

蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)(1750 - 1797年)

江戸出版界きってのヒットメーカー。通称「蔦重(つたじゅう)」。遊廓の吉原で生まれ、小さな貸本屋から江戸有数の版元(出版社発行人)に成り上がった。34歳の時、日本橋通油町(現在の中央区日本橋大伝馬町)に進出。「黄表紙」「酒落本」「狂歌絵本」「錦絵」などのヒット作を次々とプロデュースして、時代の寵児となりブランドを確立した。

しかし「寛政の改革」が始まると、風紀取り締まりも厳しくなり、やがて山東京伝(さんとうきょうでん)の酒落本が摘発され、版元の蔦重にも財産の半分を没収という厳罰が下される。

その後、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)の大首絵(おおくびえ)の美人画や無名の新人絵師東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)の役者絵をプロデュースして復活するが、持病の脚気(かっけ)が悪化し48歳で亡くなった。

現在、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)とその関連会社が運営する、レンタルビデオショップ「TSUTAYA」や「蔦屋書店」とは、創業者の血筋などのつながりはない。

■蔦重は現代でいうとベストセラーを連発する編集者兼出版社社長

蔦屋重三郎(通称・蔦重)は江戸時代(安永・天明・寛政期)の出版界を代表するヒットメーカーでありカリスマ経営者です。小さな貸本屋から始まり、一代で江戸きっての有名版元(出版社発行人)に成り上がりました。

宣伝上手で時代の流れを読み取る嗅覚に優れ、数々の流行作家とタッグを組み、話題作を続々と世に出しました。それでいて、いわゆるクリエイターであったわけではなく、経営者としても堅実な一面を持っていました。現代でいうとベストセラーを連発する編集者兼出版社社長といったところでしょうか。

人の才能を見抜く力も抜きん出ていて、無名だった喜多川歌麿(「べらぼう」で演じるのは染谷将太)を発掘しデビューさせ江戸きっての人気絵師に仕立て上げました。晩年には謎の天才絵師・東洲斎写楽をプロデュースしたことで話題になります。蔦重の死後に大ブレイクする葛飾北斎(かつしかほくさい)、曲亭馬琴(きょくていばきん)、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)なども、無名時代から活動をサポートしていました。

この記事では蔦重の「儲けのカラクリ」の詳細を見ていきましょう。 

■遊郭のある吉原に生まれ、遊女を手配する引手茶屋の養子に

蔦重は寛延3(1750)年、江戸吉原で生まれます。7歳の時に両親が離婚し、吉原で引手茶屋「蔦屋」を経営する喜多川氏の養子になります。引手茶屋とは、酒や食べ物を提供しつつ客の希望などを聞き、それに合わせた妓楼と遊女を手配してくれる吉原の案内所のような場所です。

ここで吉原のことを簡単に説明しておきましょう。

吉原とは、唯一の江戸幕府公認の遊廓です。もともとは日本橋近く(現在の人形町)にありましたが、江戸が発展していくにつれ、遊廓が町の中心部にあることは好ましくないと幕府から移転を命じられました。折しも明暦(めいれき)の大火(1657年)で全焼したこともあり、浅草寺裏の当時は田園が広がっていた日本堤に移転していたのです。移転して以降を「新吉原」と呼ぶこともあります。蔦重が生まれ育ったのはこの新吉原です。

歌川広重(2世)画の浮世絵「東都 新吉原一覧」、1860年7月
歌川広重(2世)画の浮世絵「東都 新吉原一覧」、1860年7月(写真=東京都立図書館参照/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■吉原の裏表に通じ、23歳で貸本屋兼書店「耕書堂」を開業

移転以降、それまで禁止されていた夜間営業が認められるようになりました。敷地面積は2万坪。200軒以上もの妓楼が立ち並び、2000人以上の遊女をはじめ、約1万人が生活していたといいます。妓楼だけでなく、茶屋・料理屋・みやげ物屋・湯屋などが立ち並んでいました。季節ごとのイベントもあり、遊廓を利用しなくても楽しめる江戸有数の観光名所になっていました。また文化人が集まるある種のサロンのような役割も果たしていたといいます。

吉原という閉鎖的で特殊な場所で生まれ育った蔦重は、のちの出版業につながるさまざまな感性や知恵を身につけ、太い人脈を築いていったのです。

安永元(1772)年、23歳の蔦重は、吉原大門前「五十間道」にあった義兄が営む引手茶屋の軒先を借りて、貸本屋兼書店「耕書堂(こうしょどう)」を開業しました。当時、書籍の値段は庶民には高価で、手軽な料金で本をレンタルできる貸本屋が繁盛していたのです。

しかし蔦重は、ただの貸本屋で終わるつもりはありませんでした。いずれは版元になりたいと野望を抱いていました。貸本屋として、妓楼や茶屋などの店に出入りすることで、吉原きっての事情通となっていきます。

■遊廓のガイドブック「吉原細見」の企画編集を任される

場所柄、販売の主力商品は「吉原細見(よしわらさいけん)」という遊廓のガイドブックです。吉原内の略地図をはじめ、妓楼の場所や遊女の名前などが記載されていました。通常、春と秋の年2回発行されていました。実用的なガイドブックとしてだけでなく、江戸みやげとしての需要もあり、隠れたベストセラーだったといいます。

鱗形屋版『吉原細見』延享2年(1745)、国立国会図書館デジタルコレクション
鱗形屋版『吉原細見』延享2年(1745)、出典=国立国会図書館デジタルコレクション

当時「吉原細見」は、江戸の大手版元である鱗形屋(うろこがたや)孫兵衛(「べらぼう」で演じるのは片岡愛之助)が独占販売をしていました。しかし遊女の出入りが激しいにもかかわらず、あまり改訂されずに情報が古いことも多く情報誌としての信用が落ちていました。このままでは売り上げに響きます。そこで情報をアップデートするために「細見改め」に抜擢されたのが蔦重だったのです。

「細見改め」とは今でいうリサーチャー兼編集者で、遊女の最新情報などを集めて新しい「吉原細見」を企画編集する仕事でした。吉原で生まれ育ち、人脈がある蔦重にはぴったりの役割といえます。

蔦重は、鱗形屋の下請け(今で言う編集プロダクション)というポジションで、「吉原細見」の企画編集に携わるようになったのです。

■25歳のころ、自分で新しい「吉原細見」を出し、大版元に勝利

それまで、本のレンタルと販売だけを商売にしてきた蔦重ですが、ここから版元として本の制作分野に進出していきます。

蔦重が初めて版元として出版したのは安永3(1774)年7月刊行の『一目千本 華すまひ』です。これは人気絵師である北尾重政(きたおしげまさ)が、遊女の評判を生け花に見立てて描いたという風雅な画集で、実用性よりも妓楼や遊女から上客への贈呈用に買い取られたとされています。

北尾重政(1世)作、勝川春章画『青楼美人合姿鏡秋冬』、山崎金兵衛・蔦屋重三郎発行、安永5年(1776)刊、出典=国立国会図書館デジタルコレクション
北尾重政(1世)、勝川春章画『青楼美人合姿鏡秋冬』、山崎金兵衛・蔦屋重三郎発行、安永5年(1776)刊、出典=国立国会図書館デジタルコレクション

その後、鱗形屋の従業員が重板の罪(今でいう「著作権の侵害」)を起こして謹慎処分となり、「吉原細見」を出せないという事態に陥ります。蔦重はその間隙をぬって自らが版元となって「吉原細見」を出版します。

吉原のことを知り尽くした、蔦重版「吉原細見」はたちまち大人気になりました。その後、鱗形屋版「吉原細見」の刊行も再開されましたが、蔦重版には勝てず、7年後には蔦重版が独占状態になりました。やがて大手版元だった鱗形屋は衰退し江戸の出版業界から姿を消すことになります。

■蔦重版「吉原細見」が画期的だった3つのポイント

① 最新の情報にアップデート

それまでの「吉原細見」は、情報が古かったり間違っていたりすることが多く、信頼性に欠けていました。そこで、蔦重は店を回って最新の情報に書き換えました。店や遊女の格付けや詳細な料金などの情報も充実させたのです。吉原の事情通である蔦重にはうってつけでした。

蔦屋重三郎版『吉原さいけん』、安永8年(1779)、 出典=国立国会図書館デジタルコレクション
蔦屋重三郎版『吉原さいけん』、安永8年(1779)、 出典=国立国会図書館デジタルコレクション
② 有名人の序文で箔づけ

蔦重が細見改めとして最初に関わった「吉原細見」のタイトルは『細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)』。その序文を人形浄瑠璃の人気作家・福内鬼外(ふくちきがい)に依頼しました。福内鬼外は、エレキテルの発明などで有名なマルチクリエイター平賀源内(ひらがげんない)(「べらぼう」で演じるのは安田顕)のペンネームです。この序文は大きな話題を呼んだといいます。

耕書堂の独占状態になって最初の「吉原細見」である『五葉の松』は、序文を朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)(同・尾美としのり)、跋文(ばつぶん)(あとがき)を四方赤良(よものあから)(大田南畝(おおたなんぽ))、祝言狂歌を朱楽菅江(あけらかんこう)(天明狂歌四天王のひとり)という有名作家3人の揃い踏みでした。 

その後も、有名人やベストセラー作家の序文で箔をつけ、「吉原細見」のブランドを高めることに成功しました。

蔦屋重三郎版『吉原さいけん』、安永8年(1779)、 出典=国立国会図書館デジタルコレクション
蔦屋重三郎版『吉原さいけん』、安永8年(1779)、 出典=国立国会図書館デジタルコレクション
③ 判型レイアウトの変更で「薄い、安い、見やすい」へ

安永4(1775)年、蔦重が版元となって最初に刊行された細見『籬(まがき)の花』は、今までの鱗形屋版細見から見た目が大きく変わりました。

「横長」から「縦長」になり、大きさも約2倍に判型を変更しました。これは現在の単行本の判型四六判とほぼ同じになります。通りを真ん中に配置し、その両側に店を書き込む等、遊廓の位置関係をよりわかりやすくしました。

蔦屋重三郎版『吉原さいけん』、安永8年(1779)、 出典=国立国会図書館デジタルコレクション
蔦屋重三郎版『吉原さいけん』、安永8年(1779)、 出典=国立国会図書館デジタルコレクション

判型とレイアウトの変更で、ページ数を減らしたことにより、大幅なコスト削減に成功します。その分、安価で販売することができました。「薄い、安い、見やすい」と喜ばれたのです。

このように、かゆいところに手が届く蔦重版の「吉原細見」は大ヒットします。春秋と2度の改訂版が出て、そのたびに一定の売り上げが見込めます。また吉原の各店からの広告収入もあります。

■「ストックビジネス」の先駆けとなり、安定した経営基盤を築く

川上徹也『江戸のカリスマ商人 儲けのカラクリ』(三笠書房・知的生きかた文庫)
川上徹也『江戸のカリスマ商人 儲けのカラクリ』(三笠書房・知的生きかた文庫)

その他の出版物も、吉原からの求めに応じてつくられた贈答本やイベントのガイドブックが主力商品でした。制作費は発注元が出してくれるのでリスクはなく、定期的に発行されるので確実に利益があがりました。

他にも往来物と呼ばれる寺子屋の教科書なども手がけました。薄利ながら長期にわたって同じものを刷れば一定の売り上げと利益が見込める商品です。

「吉原細見」をはじめとするこれらの出版物により、蔦重は安定した収入を得ることができたのです。現在で言うところの「ストックビジネス」の先駆けだと言えるでしょう。小さな貸本屋から始まった耕書堂ですが、蔦重はまずは安定した経営基盤を築き上げることに注力したのです。

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川上 徹也(かわかみ・てつや)
コピーライター
1985年、大阪大学人間科学部卒業後、大手広告代理店勤務を経て独立。2008年、湘南ストーリーブランディング研究所を設立。『あの演説はなぜ人を動かしたのか』など著書多数。

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(コピーライター 川上 徹也)

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