気遣いと精神力の人…コメンテーターが見たテレビには映らない小倉智昭さん「とくダネ!」最後の年の姿
プレジデントオンライン / 2024年12月11日 17時15分
■巨星墜つ
フジテレビ朝の情報番組「情報プレゼンター とくダネ!」メインキャスターを務めるなど、国民的な「朝の顔」として愛された小倉智昭さんが、8年以上に及ぶがんとの闘病の末、亡くなった。1992年放送開始の「ジョーダンじゃない⁉」、および93年放送開始の「どうーなってるの⁈」という平日昼前の2つの人気情報番組を数え入れると、小倉さんは総合司会者としてなんと29年にわたってフジテレビの午前中の顔を務めたことになる。
「とくダネ!」出演中の2016年に膀胱がんを公表、18年には膀胱を全摘し、「とくダネ!」終了後の21年秋には肺への転移を報告するなど、職業的な使命感もあったのだろうか、自身の病状を包み隠さず率直に伝えていた。闘病しながらも最後まで講演やメディア出演を果たし、驚異的な精神力と体力、そしてメディア人としての意気と粋を感じさせる方だった。
テレビ東京にアナウンサーとして新卒入社後、競馬実況などで人気を博し、その活躍ぶりを見た大橋巨泉さんにスカウトされる形で、あの当時としてはまだめずらしかったフリー転身を実現したエピソードはつとに有名だ。
その後ラジオ番組などでさらに鍛えられ、声音を使い分け流れるような話術と機転の速さで、フジテレビの帯番組MCの座へ。時に辛辣(しんらつ)だけれど、揺るがぬ信念やユーモア、他者への優しさをひたひたと湛えたトークに小倉さんの優れた人間性が表出していて、共演者たちはみな大きな信頼と親愛を寄せていたと思う。
私も、小倉さんの「とくダネ!」ラストイヤーとなった2020年度の姿を、レギュラーコメンテーターの最末席で見せていただいた一人だ。放送のたびにカメラの前で、あるいはフレームの外で小倉さんの人柄に触れ、なぜ彼がそこに座り続けてきたのかを十分に説明してくれる「魂」のありようを垣間見て、震えた。
■はじめは目も合わせられなかった
初めて本物の小倉さんにお会いしたのは、「とくダネ!」のコーナーゲストとしてニュース解説に呼ばれた2019年クリスマス、もう5年前のことだ。
90年代の「ジョーダンじゃない⁉」時代からテレビで小倉さんを見続けていた世代としては、スタジオに居並ぶ有名人にキャッキャする気持ちよりも、「とんでもないところに来てしまった」という畏怖の念の方がはるかに強かった。
小倉さんの目の前で、ニュースを解説する。私(なんか)が。
そう忘れもしない、この連載のコラムがきっかけとなって「出生数90万人割り込み、予想より早まる少子化の原因を女のワガママだとするのはNG!」的な話をしたのだった。
その日の私は「畏れ多すぎ」と隠せぬ緊張で、小倉さんとまともに視線を合わせることもできずにスタジオをあとにしたような気がする。
■新型コロナ感染への恐怖
ほどなく世界中で未知の感染症が大流行、人類は未曾有の「コロナ禍」へと突入する。そんな時に私は2020年3月末からどうしたことか「とくダネ!」のレギュラーコメンテーターに起用され、アクリル板で共演者間を区切ったり、自宅や離れた別部屋からリモート出演したりという、テレビマンもベテラン芸能人も誰もが初体験する独特なコロナ対応の中で、タレントや文化人などベテランの方々に混じり、朝の情報番組の新米コメンテーターとしての経験を一から積んでいくこととなった。
コロナ禍中にあった小倉さんの感染対策意識は、我々の比じゃない。
その1年半前に膀胱を全摘した身体を抱えて、毎朝の(当時、全世界的ステイホームゆえに視聴率絶頂の)帯番組のMCを務めていらっしゃったのだ。
「コロナ、かかっちゃいました」で済むような問題じゃない。共演者の私も、当時番組に呼ばれるのは月1や隔週程度の頻度に過ぎなかったけれど、万が一にも迂闊にウイルスを小倉さんにうつすなんてことはできない。その緊張感は今でも覚えているし、それこそが正直、あの緊急事態宣言下で私みたいにいい加減な人間が自分の生活を律する、最大でただ一つの理由だったと言っていい。
そして局内の様子に少しずつ慣れるにつれ、小倉さん専用と言ってもいいトイレが局内に存在することも知った。膀胱全摘後の小倉さんが出演前後にパッドなどを取り替えたりするための、オストメイト対応で広い、いわゆる「多目的トイレ」だ。
政府のコロナ対策、災害、アメリカ大統領選、誰かの不倫、無差別テロの発生……。あの稀代の司会者がカメラの前であれこれの時事問題を軽やかにさばく陰にはそういう姿があったのだということを、あのころ視聴者のどれほどが意識して見ていただろうか。
■予期せず届いたお中元とお歳暮
テレビ出演の右も左も分からなかった私がようやく左右の区別くらいはつくようになってきた夏、自宅のチャイムが鳴る。何かネットで注文したっけ、と怪訝な顔で出たら、宅配便のお兄さんに大きな箱を渡され、そこには「お中元 小倉智昭」とあって、私は腰を抜かした。
人生で、自分があの小倉智昭さんからお中元をいただくという経験をするなんて、1ミリも予想しなかった。
これが、レジェンドクラスのメディア人の振る舞いなんだ。番組に協力してくれてありがとう、という言葉を形にして、ファミリーの中に招いてくださるということなんだ……。
ひたすら感銘を受けながら開けると、有名店のコーヒーセット。ちなみにその後のお歳暮は名品ハムのセットだった。もちろんご本人の手書きじゃないのはわかっているけれど、しばらくの間、私はその時の熨斗を捨てられずにとっていた。想像より騒がしい人生を過ごすことになってしまった自分の、何かのお守りになるんじゃないかって、そんな気がしていたからだ。
■ホラー映画に「悪趣味だねぇ」
コロナ禍という実にイレギュラーな環境下にあったが、生放送の番組は常に刺激的で、毎回が学びに満ちていた。もちろん全国放送であるという緊張からしくじることも多く、毎回反省点ばかりではあったけれど、「河崎さんはどう思うの」という、小倉さんが私に話を振るお決まりのフレーズにも徐々に慣れていった。
「あ、ようやく今日、私はこの番組で小倉さんの魂に指先で触れさせてもらうことができたのかもしれない」。そう思ったのは、2020年秋から始まった「私の一本」コーナーだ。
自分が好きな映画や本などを、コメンテーターが視聴者に対して2分間でプレゼンするというコーナーだった。
自分の番が回ってきた生放送日、露悪的な私は、一般視聴者を対象とした朝の情報番組だというのに、ゴリゴリに怖いホラー映画を紹介するんだと意気込んでいた。それを聞いた小倉さんが、CM中に「いるんだよねぇ、女の人で、ホラー映画が大好きですとかいう悪趣味な人が」と苦笑してくれた。
「ホラー映画は悪趣味なんかじゃないです! もはや哲学ですから!」と言い返しながら、私は小倉さんが皮肉を装って愛のあるイジりをしてくれたのを感じていた。映画や音楽を愛するあまり、自宅にプロ並みのオーディオシステムで立派なシアターを作ったことでも有名な小倉さんらしい、映画を通じた一瞬の触れ合いだったと思う。
■「とくダネ!」22年の歴史に幕
番組での振る舞いにもようやく馴染んだような気がしていた頃、「とくダネ!」が2021年3月末で終了すると知らされた。「22年という長寿番組の『とくダネ!』にも、終わるなんてことがあるのか!」と純粋に驚いたけれど、そう伝えるテレビマンたちのつらそうな様子からも、さまざまな事情が絡み合う苦しい決断なのだろうと感じさせられた。
演者の皆さんにも、おのおのの感情があったのだろうと思う。私などはしょせんラストイヤーしか携わっていないけれど、ベテランコメンテーターの中には小倉さんの番組に関わって10年や20年という選手もいらっしゃったからだ。だが誰よりも番組終了への強い感情を抱いていたのは、メインキャスターたる小倉さん以外のわけがない。
■小倉さんインタビューの提案
終わりに向けた放送は、粛々と続いていった。私は自分の最終出演日、生放送が終わったタイミングで控室に残らせてもらい、あらためて小倉さんの楽屋へご挨拶にうかがって、「文春オンラインで勇退インタビュー記事を書かせていただけませんか」とお願いした。絶対にヒットさせます、という確信と覚悟を込めて。
小倉さんインタビュー案は、採用されにくいことで有名な文春の記事プラン会議を事前に難なく通っていた。若手担当編集者と私は、「小倉さんのインタビューが書かせてもらえたらすごい」と、可能性に賭けていた。なぜって、文春は小倉さんにまつわるネガティブな記事をそれまでに3本スクープしており、小倉さんに好かれているはずがなかったからだ。
■泣きながら見届けた最終回
小倉さんは、私が文春の担当編集者の連絡先を書いた紙を差し出しながらインタビューのお願いをするのを椅子に前傾しながら静かにお聞きになり、
「河崎さん、いままで番組に協力してくださってありがとうございます。インタビューの件もよくわかりました。マネージメントとも相談するので、彼に連絡先を渡してください」
と、いつも小倉さんの楽屋の前で献身的に待ち続ける大柄なマネージャーさんの方を優しく指した。
マネージャーさんに「お願いします」と託した私は、その後「とくダネ!」の最終回を自宅で泣きながら見届ける。画面の中のベテランコメンテーターさんたちも、局アナさんたちも、みんな泣いていた。
■彼は文春を許していなかった
間をおかずして、文春オンラインの編集者から悔しさの滲む連絡をもらった。「小倉さんインタビューの件、事務所から文春編集部への公式なお断りをいただきました」
「小倉さんは、文春を許していらっしゃらなかったんだ……」。担当編集者と、週刊誌ジャーナリズムの業を噛み締めた。優れたメディア人は、自らがそこを主戦場に闘い、傷を負い、生き残ってきたからこそ、他のメディアのやり方や姿勢に仁義を問う厳しい視線を失わない。
勇退したから、一線を引いたから、だから基準が甘くなったりなぁなぁになるなんてことではないのだ。
私は、小倉さんの凄みはむしろ「とくダネ!」を勇退してからの3年の過ごし方、揺らがぬ仕事の選び方にこそ感じた。本当にメディアで闘い、メディアで自らの姿を見せ続けてきた人の、最後の粋(いき)。
ひとの晩年の生き様とは、それまでの答え合わせなのかもしれないと、最近になって感じさせられる。小倉さんが病から解き放たれたいま、安らかに眠られるように、あの世で素敵な音楽と映画に囲まれて楽しく暮らされるようにと、私は勝手ながら満腔の敬意をもって祈っている。
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コラムニスト
1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。
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(コラムニスト 河崎 環)
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