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NHK大河ドラマでは描かれない…紫式部の死後に宮廷の貴公子たちと次々と浮名を流した娘・賢子の意外な大出世

プレジデントオンライン / 2024年12月15日 15時15分

土佐光起筆 紫式部図(一部)(画像=石山寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

紫式部はいつ亡くなったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「没年に関してはさまざまな説がありはっきりしない。一方で、娘の賢子については80歳前後までの生存が確認されている」という――。

■紫式部の生没年について史実としてわかっていること

旅に出て、夫の藤原宣孝(佐々木蔵之介)のかつての赴任地である大宰府を訪れ、さらに友人だったさわ(野村麻純)が亡くなった地だという松浦(長崎県松浦市)向かっていたまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)。そこに、壱岐や対馬を襲ったのちに、北九州に上陸した異賊である刀伊(とい)が襲いかかった。

刀伊とは主として、中国大陸でのちに「金」や「清」を建国する女真族だったと考えられている。

父の為時(岸谷五朗)の赴任に同行した越前(福井県北部)で知り合い、大宰府で再会した周明(松下洸平)がまひろに同行していたが、刀伊の弓に倒れてしまう。泣き叫ぶまひろだったが、従者の乙丸(矢部太郎)が彼女を必死で連れ去った。そして大宰府に戻ってきたが、刀伊を撃退した大宰権帥の藤原隆家(竜星涼)の前で、「周明と一緒に私も死んでおればよかったのです」と、泣き続けるのだった。

だが、NHK大河ドラマ「光る君へ」の第47回「哀しくとも」(12月8日放送)で、このように描かれたまひろの登場シーンは、すべてが創作である。刀伊の入寇が起きたのは寛仁3年(1019)3月から4月にかけてのことだが、このころ紫式部がなにをしていたかは、まったくわかっていない。それどころか、生きていたのかどうかさえたしかではない。

紫式部を主人公にする以上、史実としてわかっていることが限られ、生没年も確定していないので、創作は必須である。いかに本当らしく創作できるかが脚本家の腕の見せどころだが、書き遺したものから察するに斜に構えたひねくれものとおぼしき紫式部が、感情をあらわにして泣き叫んだりして、青臭すぎる気もするのだが……。

■日記にあらわれる紫式部の影

ただ、史料に紫式部の影がまったく見えないということではない。「光る君へ」で秋山竜次が演じている藤原実資の日記『小右記』には、たびたび取り次ぎの女房が登場する。

『紫式部日記』によると、上級貴族たちが中宮の御所を訪れ、中宮になにかを伝える場合、中宮に直接伝えるのではなかった。それぞれの貴族に「おのおの、心寄せの人(それぞれがひいきにしている女房)」がいて、その女性を介していた。御簾越しに要件を女房に伝えると、女房はそれを中宮に取り次いでいた。

そして中宮で、一条天皇の死後は皇太后となった彰子の御所においては、実資の「心寄せの人」は紫式部だったと考えられている。実資自身が長和2年(1013)5月25日の条に、「越後守為時の女、此の女を以て、前々、雑事を啓せしむるのみ(越後守為時の娘=紫式部である女房を通して、さまざまなことを皇太后様に申し上げてきた)」と注記しているのである。

同じ人物とおぼしき女房が、『小右記』には長和元年(1012)5月28日の条を皮切りに、たびたび登場している。その日は一条天皇の一周忌の法会が行われた翌日で、実資はその少し前に連日行われていた一条天皇追悼の法華八講について、中宮を慰労する言葉をその「女房」を通じて伝えている。

『小右記』からは、実資と紫式部のあいだに信頼関係が形成されていた様子がうかがいしれる。

十二単衣をまとう女性の足元
写真=iStock.com/Yusuke_Yoshi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yusuke_Yoshi

■いつ彰子のもとを去ったのか

『小右記』にはその後も、長和2年(1013)7月5日、同年8月20日、長和3年(1014)10月9日などに、同じ人物と思われる「女房」が登場している。

だが、その後、この「女房」がまったく出てこなくなったので、紫式部は長和3年(1014)ごろに死去したという説もあるが、登場しなくなったわけではない。道長が出家し、続いて刀伊の入寇があった翌年の寛仁4年(1020)9月11日の条にも「太后宮の女房に相遇ひ、罷り出づと(皇太后彰子様の女房に会って、退出したという)」という表現がある。

これは刀伊の入寇を撃退した隆家からの伝聞を、実資が書き記したもので、「女房に相遇ひ」は隆家のことだが、伊井春樹氏は「実資がわざわざ『女房』と記すのは、不特定の女房ではなく、なじみの紫式部であったことによる」と書いている(『紫式部の実像』朝日選書)。

伊井氏はさらに「実資の日記には、これ以降も『女房』の記述はあるが、『相遇ふ』といった具体的な行動ではなく、複数の女房を指してのことばも用い方となる」と記す。そのうえで、「紫式部は『小右記』の最後に見える寛仁四年九月以降、病気か、何かの事情によるのか、皇太后宮のもとを去り、その後亡くなったのではないかと思う」と推察している(同書)。

■還暦を迎えられなかった可能性

しかし、取り次ぎの「女房」自体は、『小右記』には道長が死去した万寿4年(1027)まで登場しているため、このころまで紫式部が宮廷に出仕していたと主張する向きも少なくない。

実際、紫式部の没年に関しては、長和3年(1014)説にはじまって、長和5年(1016)説、寛仁元年(1017)説、寛仁3年(1019)説、寛仁3年以降という説、万寿2年(1026)以降という説、長元4年(1031)説……と、じつに多くの説がある。

だから、「光る君へ」で描かれるように、道長よりも長生きした可能性も低いとはいいきれないが、まったくわからないというのが、真相に近いのではないだろうか。

また、生年も確定できないのだが、「光る君へ」の時代考証を務めた倉本一宏氏は、「紫式部が天延元年(九七三)に生まれたと仮定すると、寛仁元年には四十五歳、万寿二年には五十三歳、長元四年には五十九歳となる」と記している(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。還暦を迎えなかった可能性が高い、ということはいえるかもしれない。

■女版「光源氏」になった賢子

ところで、「光る君へ」の第47回では、まひろと娘の賢子(南沙良)との母娘の対話が描かれた。『源氏物語』を読んだ賢子は、母の文才を敬うと伝えたうえで、「政の頂きに立っても、好きな人を手に入れても、よいときはつかの間。幸せとは幻なのだと、母上の物語を読んで知りました」と伝え、「どうせそうなら、好き勝手に生きてやろうと。だから『光る女君』と申したのです」と決意を語った。

この時点で紫式部が生きていたかどうかは、前述のとおりわからないものの、賢子がドラマで語った決意は、史実につながっていく。というのも、これ以降の賢子は「光る女君」という呼び名がダデではないほど、宮廷の貴公子たちと次々と浮名を流している。

鳥文斎 栄之・葛飾北斎画 『錦摺女三十六歌仙』より大弐三位(藤原賢子)
鳥文斎 栄之・葛飾北斎画 『錦摺女三十六歌仙』より大弐三位(藤原賢子)(写真=メトロポリタンコレクション/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

その相手は、道長が次ぎ妻の明子に産ませた次男の藤原頼宗にはじまって、藤原公任の息子の定頼。道長の正妻倫子の兄の子である源朝任……。『栄花物語』によれば、道長の次兄道兼の次男であった兼隆と結婚し、その娘を産んだとされている(「左衛門督と呼ばれるその相手は、別の人物だとする説もあるが」。

そして、「どうせそうなら、好き勝手に生きて」やった結果、母を超える高い地位を獲得している。

■母親以上にたくましく生きた

万寿2年(1025)、娘を産んだ直後、道長の六女の嬉子が出産した親仁親王(嬉子は出産後に死去)の乳母に選ばれたことが幸いした。その後、東宮権大進の高階成章と再婚して一男一女をもうけていた賢子は、寛徳2年(1045)、親仁親王が即位すると(後冷泉天皇)、典侍(後宮の事実上のトップ)に抜擢され、さらには従三位に任ぜられた。

このとき、夫の成章も大宰大弐に就任しており、このため賢子は「大弐三位」と呼ばれるようになった。文才を母から受け継ぎ、歌集に『大弐三位集』があり、この名で百人一首の歌人としても知られる。

さらには80歳前後までの生存が確認されており、ある意味、母以上にたくましく生きたことが、史料から確認できるのである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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