「ゆうちにー ゆうちにー」脳出血で要介護5・夜中に発作…それでも失語症の母を介護してよかったと思う瞬間
プレジデントオンライン / 2024年12月14日 10時16分
■「うちに来ない? 私たちと暮らそう」
2023年3月7日。左脳の出血の後遺症が出た87歳の母親の意思を確認するために、筑紫拓子さん(仮名・50代)さんは仕事の休みの日に夫婦で面会に行くと、看護師に母親を談話室に連れてきてもらった。
車椅子の母親は筑紫さんと夫を見つけて「ああ」と小さい声を出した。
「お母さん、退院してからのことなんだけど、うちに来ない? 私たちと暮らそう」
筑紫さんがそう言うと、母親はすぐに深く頷いた。
「お母さん、ずっとだよ? ずっと私たちと暮らすんだよ? いい?」
この言葉には、もう自分が建てた家には戻れないという意味も含まれていたが、母親はもう一度しっかりと頷いた。
そしてテーブルの向かい側に座っていた夫に向かって「あう、あう……」と懸命に何かを言おうとした。おそらく「私が行ってもいいの?」と聞いているのだろう。
母親の言いたいことを察した夫が、
「お義母さん、僕たちと一緒に暮らしましょう」
と言うと、母親はほっとしたような表情を見せ、「うれしい」と言った。
「私たちが仕事の日は、施設にお世話になるけどいい?」
と聞くと、母親はまたゆっくりと頷いた。
「お母さん、ありがとう! 私もうれしいよ」
と筑紫さんが言うと母親は、「とにかく早く」とはっきりと言って泣き出した。痩せた母親の肩を抱き、筑紫さんも泣いた。言いよどむことなく、明確に「早く」と言った母親の表情には、目に見えない切迫感や何かから逃れたいといった感情があるようにも見受けられた。
■在宅介護の準備
母親を引き取ることを姉にLINEで伝えると、
「了解です。よろしくお願いします」
と返ってきた。
「この前は責めるつもりはなかった、ごめんなさい」
筑紫さんは以前、「愛情を持って介護できないのでは?」と母親と同居する姉に率直に伝えていたのだ。
「私もあれからたくさんのことを考えた。一番協力していかなければならない私たちがこんな事をしていたらダメだなって。私もごめんなさい。ただ、私たちがお母さんのことをちゃんと考えていたことは信じてください」
と返信があった。
「『遅いよ……姉ちゃん』と思いました。姉は何かうまくいかないことがあると、昔から全部母のせいにしていましたから……。『知ってる? ストレスは脳出血のリスクを高めるんだよ』そう言いたかったけど、飲み込みました。姉には母のためにやってもらわなければならないことがまだまだあります。母のためにも、今は姉と協力し合わなければと思いました」
その後、母親が退院するまでの間、筑紫さんは月2~4回、病院で介助指導を受ける。同時に、腰を痛めないように、腰回りの筋肉を鍛える運動を開始。
担当の作業療法士と理学療法士に母親の現状を聞くと、
・右片麻痺
・失行:道具がうまく使えない
・注意障害:注意がそれる
・失語:言いたいことが言えない、簡単な言葉は理解できている
・食事は左手にスプーンを持ち自分で食べることができるが右側が見えにくいため右側のおかずを食べない
・寝返りは左右出来るが、起き上がりは出来ない
・トイレ介助をしても5回中1、2回ほどしか排泄できないため 一日2回の導尿が必要
・尿意を伝えられない
・生活全般に介助が必要
とプリントにして渡してくれた。
筑紫さんの介助指導に母親も付き合うため、母親にとってもリハビリになった。さらに並行して、筑紫さんが住む街でお世話になる訪問診療の病院や事業所探しが始まった。
7月初旬、退院前カンファレンスで7月半ばの退院が決まる。そして退院当日、実家へは寄らず、その足で筑紫さん宅へ母親を連れ帰った。
■余裕がない
倒れる前までは何でも一人でできていた母親だったが、右半身麻痺や高次脳機能障害の後遺症が残り、介護認定の結果は要介護5だった。食事、入浴、排せつを基本とする日常生活の大半にサポートが必要な「全介助の状態」ということだ。
母親は、リハビリ病院を退院した当日から訪問看護を利用し始め、退院3日目から週2日デイサービスを利用。
退院2週間目からは、筑紫さんが仕事の時などのために、必要に応じてショートステイを利用した。
退院前に受けた介助指導で、筑紫さんができるようになったのは以下のようなことだった。
・ベッドと車椅子の移乗
・トイレ介助
・おむつの交換
・口腔ケア
・食事の介助
・着替えの介助
・導尿
問題はトイレ介助だ。
母親の介助に慣れていない人の場合は二人でトイレ介助をしていたため、在宅で筑紫さん一人で介助できるかという点と、自宅のトイレに車椅子が入るかという点が問題だった。
病院には事前に「家屋情報収集シート」を記入し、家の間取りと寸法、写真を提出している。
1階トイレは大きめだが、ギリギリという印象。
「お母さまは小柄なので、小さめの車椅子で肘置きが跳ね上げ式+ステップが着脱可能であれば大丈夫だと思います」と理学療法士が言った。
「実際、ギリギリ車椅子を入れて便座に移乗させることができました。ただ、母と暮らすようになって、想像していた以上に時間がありません。母の退院前は『これを作って食べさせてあげよう』などと、してあげたいことをいろいろ考えていました。でも今のところ、手の込んだ料理を作る余裕がありません。病院の理学療法士さんが『退院後の生活に慣れるまで、自宅であっても3カ月はかかります』と言っていましたが、それは母だけじゃなく、介護をする私にも言えることなんだと気付きました」
筑紫さんの母親は要介護5だったが、起き上がることはできないものの、寝返りは打てるし、手すりを持たせて少し支えてあげれば20秒程度は立つことができた。そのため、筑紫さん1人でトイレ介助をすることができた。
車椅子上でお尻を奥にずらす時も、動く左足で母自身が踏ん張るか、ズボンのお尻を後ろから少し引っ張ってあげるだけで、自分でずらしてくれる。
「現在は一日10回ほどトイレ介助をしています。病院では“尿意を伝えられない”と言われていましたが、言葉こそ出ませんが、母はちゃんとトイレに行きたいと伝えることができています。退院後は排尿も順調なので、心配していた導尿も現在は必要ありません」
食事も車椅子で筑紫さんたちと同じテーブルにつき、少しの介助をすれば自分で食べることができた。
「少しでも自分でできることは喜ばしいことですが、そのことが、母に付き添う時間を長くしているとも言えます。まずは1カ月。今は母も私たちもこの生活に慣れることだと思っています」
母親と暮らすようになって、筑紫さんは朝5時に起きて洗濯と、24歳の娘のお弁当作りをし、6時45分頃母親を起こしておむつ交換とお尻洗浄、トイレ・身支度・食事介助などをして、デイサービスがある日は8時半にデイサービスに送り出している。
デイサービスがない日は、10時におやつ、12時に昼食、15時にまたおやつを食べさせ、昼寝。その間に夕食の準備や洗濯物のとり込みなどをして、18時に夕食。19時半に血圧・体温測定、お尻洗浄。拘縮予防の足マッサージなど、母親の就寝準備。22時にオムツ交換をして、22時半に就寝……という生活を送っていた。
■姉からの連絡
母親が筑紫さんと同居して約2カ月が過ぎたが、その間に姉が筑紫さん宅に来たのは8月のお盆に一度だけだった。一方、84歳の叔母はときどき電話をかけてきては、母親の様子をたずね、筑紫さんを労ってくれる。
「姉は、『叔母が親戚中に母が倒れたことを話した!』と怒っていました。恐らく、実家で一緒に暮らしていた自分が母を看ずに、県外に住む私が看ることになった本当の理由を知られたくないのでしょう」
母親が筑紫さんと暮らすことを選んだと知った時、「私はこっち(実家)でできることをするわ」などと言っていたが、母親が好きな食べ物を送って来るわけでもなく、「必要な物はないか」と聞いてくることもなかった。義兄に至っては、母親が転院した日を最後に、リハビリ病院には一度も面会に来なかった。
「私や私の夫に対して『お願いします』の一言もなく、驚きました。母を看る覚悟で、母の土地を担保に入れて住宅ローンを借りたのではなかったのか? あなたたちが住んでいるその家を建てることができたのは、母のお陰ではないのか……? 現在の姉と義兄を見て、やっぱりこの2人に母を任せなくて良かったとつくづく思います」
敬老の日にも、姉の2人の子どもたちからは、何の連絡もなかった。姉の長女は高校3年の時に不登校になり、母親は当時からとても心配し、いろいろと世話を焼いた。
その時、姉は「お母さんに構わないように言って! このままじゃお母さんのせいで長女がダメになる!」と筑紫さんにLINEを送ってきた。
筑紫さんは、「本当にそう思うなら、家族みんなで実家を出ればいいのに」と思ったが、ぐっと堪えて「今までお母さんにいろいろしてもらってたのに、今になって手を出すなと言っても無理だと思うよ」と返した。
「姉は、露骨に長男ばかりを可愛がっていたから、いつかこうなるのではと心配していました。長女は、高3になっても人と目を合わせて話すことも挨拶もできず、ほとんど笑わない、とても暗い子に育ってしまいました。母はそんな孫が不憫だったのでしょう。不登校の時には、姉ではなく母が保険室の先生と連絡を取っていました」
ただ、幸いにも長女は大学進学を機に家を出たら、みるみる明るくなった。
「姉は、『お母さんのせいでダメになる』と言っていましたが、違うと思います。あの子が笑わない子になったのは、姉ちゃんのせい。母が転院して間もない頃、私が姉に『お母さん、まだ笑わないね』と言うと、姉は『前から笑わないよ』と平然と言いました。その時私は、『あ、姉ちゃんは娘だけじゃなく、お母さんまで笑えなくしたんだ』と唖然としました。いつから姉はあんな人になってしまったんでしょう……」
お盆に会った後、姉からの連絡は2カ月なかった。
■介護は突然やってくる
筑紫さんは在宅介護が始まって約3カ月経った時、「もうしばらくは頑張れそうだ」と思った。
「覚悟はしていたつもりでしたが、初めの2週間がとてもきつかったです……。予想外だったのが、寝かせても10~20分ほどで起きてしまい、『ゆうちにー、ゆうちにー』と再帰性発話をして私を呼び続けること。『ちょっと待ってね』と言うといったんは止めるのですが、5分も経たないうちにまた呼び始めます。発作のような状態になった時は、体を左右に揺らし、私のほうに、動かせる左手を伸ばして呼び続け、何を言っても聞き入れてくれません。苛立ちと同時に、母の奇妙な姿を見るのもつらかったです」
再帰性発話とは、重篤な失語症の患者に見られる、特定の言語を反復する行為だ(※)。
※:国立長寿医療研究センターリハビリテーション科医長の大沢愛子さんによれば、ある人は「ひゅー。ひゅー」、別の人は「ほだね。ほだね」と繰り返し、「あの人があの人やからあの人やねん」「あの人やったというのはあの人やからな」など助詞や助動詞を挿入するなど多様な表現を繰り返す症例も報告されているという。(出典:日本医事新報社【識者の眼】「脳が生み出す言葉:再帰性発話と脳の不思議」大沢愛子
「母が横になっている間に、夫の会社(建築系)の事務仕事くらいはできるだろうと思っていたのですが、そんな時間などなく、家事もずいぶん手抜きをしています。母が朝起きてから寝るまで、常に母の状態を気にしながら過ごしています。おまけに、『はい』と『いいえ』が曖昧でお互いがイライラしてしまうのです。情けないですが、『やっぱり要介護5の母を家で介護するのは私には無理なのかもしれない』と何度も思いました」
しかし3カ月が過ぎた頃、母親の要求がわかるようになり、母親自身も環境の変化に慣れてきたのか、落ち着いてきた。筑紫さんは、「なんだ、お母さんもつらかったんだ」と気づいた。
「倒れる前は何でも一人でできていた母が、要介護5になったという現実を受け入れることはとてもつらいことでした。今でも、大好きな母がどこか遠くに行ってしまったような寂しい気持ちがあります。高次脳機能障害により、食べられないものを口に入れたり、手掴みで食事をしようとしたりし、そんな母の姿を見るととても切なくなります。パニックのような状態になり、再帰性発話を発し続ける母を見ると心が苦しくなります。この先、母の認知機能が低下していき、私の事もわからなくなった時、介護が続けられるだろうかと考えると、とても不安になります……」
筑紫さんは元気だったころの母親の写真や動画を見ながら、「一番つらいのは不自由な体になった母なんだ」と思い、「もっとお母さんに優しくしなければ!」と毎晩寝る前に反省する。
「同居する娘には時に諭され、時に励まされていますし、夫も介助を手伝ってくれています。近所に住む看護師の友人たちに介護について相談したり、アドバイスをもらったりもしています。その中で、『利用できるサービスは大いに利用し、できるだけ楽をして介護をしたほうがいい。それが長く在宅介護するために必要なこと』と言われ、介護サービスで母を預かってもらう事に罪悪感を持つことがなくなりました」
また、言葉を失ってしまったはずの母親だが、時々『ありがとう』『おやすみ』と言葉を発する瞬間や、笑顔になる時がある。そんな時、筑紫さんは母親を「介護して良かった」と感じ、母親と昔のことを話したり、母親の体調が良くなった時には、心から嬉しいと思えた。
■今思えば「母からのSOSだったのではないか」と
「『介護は突然やってくる』と聞いてはいましたが、本当にその通りです。親が高齢になったら、介護について下調べをしておくことはとても大事だと思いました。私は母がとても元気だったため、全く準備していませんでしたが、知識があれば、事業所選びなどの準備を進めるうえで、戸惑う事が減ると思います。実際に介護をしていて思うのは、自分が疲弊していたら優しく接することが難しくなり、その事で新たな悩みを抱えるということ。なので、介護サービスなど、利用できることは利用することが大切だと思います」
母親は言葉が思うように出なくなってから、落ち込むことが多くなり、筑紫さんや叔母に不安な気持ちを打ち明けていた。その度に筑紫さんや叔母は励ましたが、姉だけは違った。
「負の言葉をごちゃごちゃ言い続けてため息。やめてほしいわ。私は子どもには迷惑をかけないようにしたいわ」というLINEを筑紫さんに送っいたのだ。
「姉にはがっかりしました。(今の状態になるまでは)まだ母は何でも自分でできたし、姉夫婦の洗濯もしてくれていました。なのに姉は母に迷惑をかけられていると言わんばかり。母の一番近くにいる姉が、弱気になった母を見て励ますどころか疎ましく思っているなんて……。姉に母のこれからを任せることに不安を覚えました」
母親が倒れる2日前のことだった。
筑紫さんは、母親から3年ほど前に、「将来的にはお母さんはお前と暮らしたほうがよさそうだ」と言われていたにもかかわらず、具体的に動かなかったことを後悔していた。今思えば「母からのSOSだったのではないか」と、それを見過ごしてしまった自分を責めていた。
子は必ずしも親の介護をしなければならないことはない。
だがもちろん、子がしたいと思うならば、心ゆくまですれば良いだろう。大切なのは納得のプロセスだ。筑紫さんの看護師の友人たちが言っていたように、くれぐれも無理は禁物。娘である筑紫さんのことをわからなくなってしまった時は、どうか罪悪感を持たずに、特別養護老人ホームへの入所を検討してほしい。
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ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
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