「田沼意次=賄賂政治家」は時代遅れ…まっとうな人格者を歴史的悪人に仕立て上げた"2人の人物"
プレジデントオンライン / 2025年1月5日 9時15分
※本稿は、河合敦『蔦屋重三郎と吉原蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。
■国民に染みついた「賄賂政治家」
田沼意次といえばもう賄賂政治家のイメージしか思い浮かばないという方が多いのではないだろうか。
やはり小説や時代劇の影響に加え、かつて学校でそう習ったからだと思う。
たとえば、およそ50年前の歴史の教科書を紐解いてみよう。そこには、確かにこう書かれている。
30年前の日本史の教科書でも、「意次は、賄賂による役職の売買などを非難されて失脚した」(『高校日本史』三省堂1993年)と明記されている。
■今の歴史教科書に書かれている評価は…
また、田沼意次の屋敷には毎日大勢の客人が高価な贈答品をもって訪れ、客間はそうした人々であふれかえっていたという話は、松平定信と同時代を生きた松浦静山の『甲子夜話』に記されているし、意次が日本橋稲荷堀に下屋敷を新築したとき、「庭の泉水に魚を入れたらさぞ面白かろう」とつぶやいたところ、その日の夕方までに諸大名から続々鮒や鯉が贈られ、池には魚が群れていたという話もある。
また、これは俗説だろうが、さる大名は、等身大の京人形だと称し、大きな箱に本当の京美人を入れ、意次に進呈したという話も人口に膾炙している。
では、今の教科書は、田沼意次のことをどう評価しているのだろうか。
「意次の政策は、商人の力を利用しながら、幕府財政を改善しようとするものであり、これに刺激を受けて、民間の学問・文化・芸術が多様な発展をとげた。一方で、幕府役人のあいだで賄賂や縁故による人事が横行するなど、武士の気風を退廃させたとする批判が強まった」(『詳説日本史日本史探究』山川出版社2023年)
■エピソードの出所は政敵の松平定信一派
現在の教科書にも「わいろが横行」とか「賄賂や縁故による人事」という文字が載っている。やはり、「田沼意次が賄賂政治家だという評価は変わっていないではないか」そう考えるのは早とちりである。もう一度、山川の教科書をよく読んでいただきたい。
この時代に賄賂が横行したとあるが、それは単に当時の風潮を述べているだけで、意次自身が賄賂を受け取ったとは書かれていないことがわかるはず。
意次が賄賂政治家だったことについて、近年、疑問が生じているのだ。
確かに江戸時代の史料には、意次が賄賂を受け取った記述がいくつも残っている。ただ、その出所をよくよく探ってみると、平戸藩主・松浦静山など意次の政敵・松平定信一派が発信していたり、誰彼と悪口を言う人物が書いていたりする。
しかも、研究者の大石慎三郎氏によれば、こうした賄賂に関する逸話は「すべて田沼意次が失脚したのちに書かれたものである」(『田沼意次の時代』岩波書店)という。田沼が政権を握っていたときの記録ではないわけだ。
なのに、賄賂政治家の汚名を着せられたのは、やはり意次を失脚に追いやった松平越中守定信とその一派の仕業だと思われる。つまり意次失脚後、わざと巷にフェイクニュースを流した可能性が高いのだ。
■定信は意次を殺したいほど憎んでいた
政権を握った人物が前の権力者を貶めることは歴史上よくあることだが、ここまで悪評が広まったのは、定信に明確な復讐の意図があったからだと思われる。
じつは、定信は意次を殺したいほど憎んでいたのである。というより、刺し殺そうと短刀を懐に入れて江戸城内をうろついていた。本人が告白しているから本当だろう。
世の中を腐敗させた田沼政治を憎んだのだというが、定信が意次の妨害で将軍になりそこねたからだとする説もある。
ちょっと怪しげな話だが、面白くもあるので、紹介しておこう。
■徳川将軍になれるチャンスを逃した
十代将軍徳川家治には嫡男・家基がおり、彼が十一代将軍になるのは確実であった。
ところが18歳のときに急死し、次期将軍には御三卿(八代吉宗の子や孫の家柄)から一橋家の家斉が選ばれた。これを松平定信が憎悪したというのだ。
じつは定信は、御三卿の田安宗武の次男で、そのまま田安家にいたら、このとき将軍になれた可能性が十分にあった。田安家を継いだのは兄の治察だったが、治察はとても病弱で、いつ没してもおかしくない状態。このため田安家では、次男の定信を家中に置いておきたかった。
なのに定信は、幕府の命により、無理やり白河藩主松平定邦(十一万石)の養子に出されてしまった。案の定、それから半年後に治察が死んでしまい、一橋家は当主不在に陥ってしまう。そこで田安家としては、幕府に定信の復帰を願ったが、認められなかったのである。
そしてそれから5年後、先述のとおり、将軍家治の嫡男・家基が急逝したというわけだ。もし定信が田安家の当主になっていたら、英邁の噂が高かったので、十一代将軍を拝命していたかもしれない。つまり定信は、裏で田沼意次が自分の将軍就任を妨害したと信じ、憎悪するようになったという説だ。
■人気が高まる定信、人気が落ちる意次
真偽は不明ながら、定信が意次を殺したいほど憎んでいたのは事実であり、そんな彼の一派によって意次の悪評が流されたことは頷けよう。
しかも、松平定信は寛政の改革の実行者であり、清廉潔白な人物だった。だから明治時代になっても人びとの尊敬を集め、あの渋沢栄一も非常に敬愛していた。そのうえ大正時代には、定信が支配していた白河の地に彼を祭神とする南湖神社が創建されている。
このように、定信の人気が高まれば高まるほど、敵である意次は不人気になっていくのは必然だった。
私の手元に明治時代末の『尋常小学日本歴史教授書』(教員の歴史教授法の手引き書)があるが、そこに意次のことがどう描かれているかをみてみよう。
「田沼意次が、家治の時には側衆となり、遂には大名になり、今や老中に進み、一門皆顕要の位置に立ち、茲に威福を弄し、下情を壅閉して種々の弊害を惹起すに至つた(旧教科書には田沼意次の名ありたれども新教科書には省かれてある。国史としては其の氏名の如きは重要にも非ざれば、便宜省略するも可なり。)
今其の弊政の例を簡単に挙ぐれば、賄賂公行は言ふを待たず、諸大名などが家督の祝に老中を招待して饗応する事を法令で催促するやうな事さへあつた」
■田沼意次を悪玉に仕立て上げた教授
ちょっと難解な文章だが、「種々の弊害を惹起す」などと意次をことさらおとしめ、彼の名前なんて重要ではないので教えなくてよいとか、賄賂をもらうだけでなく饗応を法令で催促したなど、いかに悪い人間だったかを書き連ねていることがわかる。
一方、定信については「文武の道に秀でた人で、老中となるに及び、(略)節倹を行ひ、武備を励まし、奸邪(かんじゃ)を斥け、俊才を挙げ、幕府復興るに至つた」とベタ褒めである。こうして意次=悪人、定信=善人というイメージが確立していったのだ。
先の大石氏は、「田沼意次の悪事・悪評なるものを総まとめにして世間に周知させたのが、辻善之助氏の『田沼時代』という著名な著書である」(『田沼意次の時代』)と、意次の悪評に拍車をかけた歴史書を指摘する。
同書は大正4年(1915)に刊行されたもので、著者の辻善之助は当時、東京帝国大文科大学助教授だった。後に同大学の名誉教授となり、文化勲章を授与された歴史学の権威である。
そんな辻氏が不確かな史料を用いたり、恣意的に史料を取り上げ、「田沼意次のみを悪玉」に仕立て上げたのだと断じている。さらに大石氏は、「田沼意次についてこれまで紹介されてきた『悪評』はすべて史実として利用できるものではない」と明言する。
結論を言えば、田沼意次は取り立てていうほどの賄賂政治家ではなかったのである。
■物腰柔らかく、職務精励がモットー
そもそも当時、付け届けによって出世や利得をはかるのは珍しいことではなく、幕府の最高権力者に贈答品が殺到するのは、それが意次でなくても当然の現象であった。
では、意次は本当はどのような人物だったのだろうか。
残念ながら、その人柄がわかる一次史料(当時の日記、手紙、公文書など)は極めて少ない。そうしたなかで、意次が家中に与えた遺訓がある。深谷克己氏はこれを分析し、意次の性格を次のように論じている。
つまり、まっとうな人格者だったというわけだ。
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歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数
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(歴史作家 河合 敦)
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