81歳が握るおにぎりは1日300から500個…都内で50年続くおむすび屋の看板娘「休みはいらない」の深いワケ
プレジデントオンライン / 2024年12月24日 7時15分
■活気ある仙川商店街で50年間、「おむすび」を販売してきた人気店
ほのかに温かい小ぶりのおにぎりは、ツヤツヤのお米が口の中でふわりと解け、心の奥にまで染み入るような味わいだった。たっぷり入った甘じょっぱい豚そぼろも、旨味たっぷりのネギ味噌も、甘めに炊き上げたあさりも、具はどれも後引く美味さ。しっとりとした海苔と相まって、手に包んで頬張れば、このおにぎりに出会えた喜びが込み上げる。
素朴で飾らない、まるで握り手の人柄そのもののような珠玉のおにぎり。一つ一つ、握っているのが“看板娘”の手島弘子さん、81歳だ。27歳からおにぎりを握り続けて、もうすぐ55年という。
世田谷区と調布市の境目に位置し、白百合女子大学や桐朋学園大学がある京王線「仙川」駅。全長1キロほど続く商店街の一角、「おむすび てしま」は長年、地元で愛されているおにぎり専門店だ。黒を基調としたシックな雰囲気、木目を生かしたあたたかみのあるこぢんまりとした店内には、ざっと20種ほどの手作りのおにぎりが並ぶ。おにぎりばかりか、さまざまなお弁当にお惣菜と、食いしん坊にとってはたまらない空間だ。
息子の健太さんと共に大黒柱として、この店を切り盛りしている弘子さん。その丸まった背中が、どれだけ働き続けてきたかを物語る。小柄な体に、好奇心旺盛なくりくり動く瞳が印象的で、お茶目な笑顔がなんともかわいらしい。
■昭和18年生まれ、小学生の頃から食事を作り、手にはあかぎれ
弘子さんは昭和18年1月、7人きょうだいの上から4番目として生まれた。祖父は五反田で米屋を営んでいたが、戦争が終わってすぐ、弘子さんが2歳の時に、一家で仙川へ移住した。
「私は戦前の生まれだけれど、戦争のことは何も知らないの。なんで、仙川に来たのかも」
記憶にある仙川は辺り一面、畑ばかり。畑の合間に、商店がポツリポツリと建っていた。祖父は仙川でも米屋を始めた。
「私が小学校2年生の時に米屋を始めたのだから、うちの米屋はもう70年」
弘子さんは、どんな子どもだったのだろう。
「おとなしい子だったね。ピアノと歌が好きで、小学校の音楽室でピアノを弾いて、バイオリンもちょこっと、かじってね。先生が教えてくださった。音楽室に入り浸りだった」
小学生時代を思えば、真っ先に出てくるのは姉と一緒に、朝ごはんをつくったことだ。
「母が更年期で、朝、起きられないの。だから9歳上の姉と二人で、朝ごはんの支度をするの。前の日にお米を洗っておいて、朝、薪でご飯を炊くの。味噌汁も作って。もう、すごい、あかぎれ。水仕事だから。学校の先生が私の手を見て、『働く手だねー』って」
弘子さんは小学生の時から、「働く手」の持ち主だった。働き続ける生涯を、まさか小学生で予見されるとは……。
■内向的な性格で、中学校卒業後は祖父の米屋を手伝う
中学生になった頃には、母親の体調も回復し、朝ごはん作りはなくなったが、中学生の弘子さんの楽しみは部屋の中にあった。
「私は人とお話をするのが嫌いで、部屋の中に一人でいて、細かいことをするのが好きだったの。編み物が好きでねー」
弘子さんは内向的で、ひっそりとした時間を好んだ。それが、楽しかったからだ。編み物や手芸など細かい手作業に没頭することこそ、喜びだった。周りに流されず、自分の「好き」を貫く、きっぱりとした少女の姿がある。
中学卒業後は、祖父の跡を継いだ父が営んでいた、家業の米屋を手伝うことにした。ここでも、きっぱりしているのだ。
「姉さんは外に勤めに出たんだけれど、私はそれが嫌で、うちに入ったの。だから、私はほとんど外に出ていないのですよ。ずっと、家の手伝いをしていた。やっぱり、仕事をするのが好きだったから」
「働く手」は、動きを止めない。働くことが、喜びだから。ただし、米屋の仕事は嫌いだった。
「当時の米屋は、俵(たわら)で米が入ってくるの。俵を解くと、まだ籾殻(もみがら)がついているもんだから、叩いて白米にするの。父と一緒に、叩いてね。米を叩くから、埃(ほこり)になるわけですよ。糠(ぬか)は、うちの中にまで入ってくる。糠や藁(わら)の埃が家中に舞ってね。だから、絶対に、お米屋さんには嫁に行くまいと思ったの」
なんと! それなのに、まさかの生涯“米屋・現役”ではないか。
■革ジャンを着てバイクで店に乗り付けた4つ年上の青年と結婚
「米屋だけは嫌」という少女の決意を簡単に翻させたのが、夫となる男性の出現だった。
「主人は米の問屋に勤めていたので、うちはお客さんだから、しょっちゅう、うちに出入りしていたの。それで知り合って、父親も主人のことをすごく気に入って、それで結婚したの」
大人しく、人と話すことが嫌いな内向的な少女は、革ジャンを着てバイクで店に乗り付ける、4つ上の青年に間違いなく恋をした。この人と一緒なら、どんな人生でも構わないと思ったのだろうか。まさに一心同体のような夫婦を生涯、生きることになるのだ。
結婚したのは22歳、1年後に娘を出産した。二人目の子が生まれた時に、実家の米屋の支店という形で、少し離れた場所に家を建て、夫と二人で米屋を開業した。さらに、次男の健太さんも生まれ、弘子さんは3人の子の母となった。
「最初の5年は、米屋だけをやっていたの。だけど、主人が米屋だけでは先行きが大変だから、米を使って、おにぎりを売ろうと発案したの」
■コンビニがない時代、先駆けて「おむすび屋」を始めた
娘が小学生、健太さんは保育園に通っていた時期のことだった。
「主人といろいろ研究して、最初は機械を借りてやってみたんだけれど、機械では美味しくないから、やっぱり手作りにしようと。小ぶりで具沢山にしようというのは、最初から。主人がこだわったのは米、新潟の胎内米に決めて、それは今までずっと変わらない。海苔は有明産。これも、今も同じ。最初は、定番の5〜6種だけ。今は、具は30種。お客さんの要望で、増やしていって」
コンビニおにぎりがなかった時代のこと、米屋のおにぎりは近所の学生をはじめ、多くの住人から歓迎された。
「子どものことをほったらかしにして、ずっと働きずくめでしたね」
長年、立ちっぱなしでおにぎりを握り続けていたなんて、超人技としか思えない。小柄な身体のどこに、そんなエネルギーがあるのだろう。とはいえ、50年もの歳月には、さまざまな紆余曲折もあったのではないだろうか。
「大変だったこととか、私、そういうことを思うのが嫌なんです。もともと、振り返るのが好きじゃないから。今が元気で、働ければいいなと思うだけで」
■3人の子を育てながら、夫婦ふたりで仲良く働いてきた
間違いなく、苦労はあったはずだ。しかし。弘子さんは苦労を苦労とは思わない。黙々とおにぎりを握り続け、3人の子どもを育て上げ、今は高齢で働くことが難しくなった夫の代わりに、息子と一緒に働く日々。その健太さんも今や、51歳だ。
「母は、自分が小さい頃からずっと働いていましたね。おにぎりだけでなく、父の米の配達にも一緒に行っていたし、仲のいい夫婦でした」
夫婦は毎日、顔を突き合わせて働き、米を売り、おにぎりを作り、一緒に店を繁盛させ、子どもを育て、暮らしてきた。
世は専業主婦が生まれ、「亭主、元気で留守がいい」と言われた時代だというのに、夫婦力を合わせて、額に汗して、共に店を守る。それが弘子さんにとっては、当たり前のことだった。働くことこそ、喜びだから。しかも、惚れて一緒になった伴侶と、だ。
■81歳でも現役、毎日300個以上のおにぎりを作る
弘子さんの仕事場の床には、長方形の箱が置かれている。年季の入ったその箱に、帽子とエプロンという制服を身につけた弘子さんがちょこんと乗り、飯切桶の前に立つ。炊き上がった米を飯切に移し、塩を振り、両手で米をふわっと丹念にかき混ぜる。片手にふわりと包むように米を乗せ、具を乗せ、その上に米をかぶせ、計量して、海苔をつけて三角に包んで台に置く。その一連のスピーディーな作業に、一瞬で目が奪われる。鮮やかで無駄のない、まさに職人技だ。
これは、いつから手についた技なのか。
「いつというか、自然とね。その流れでの、今ですね。おにぎりは、握らなければいいんですよ。握らないで、米を掌に入れて、具を入れて、その上にふわっと米をかぶせて、海苔を巻いた時だけ、ちょっと力を入れる。握らなければ、美味しいおにぎりになるんです」
おにぎりは、握らなければ美味しい。まさに、これぞ名言。握るものだとこれまで疑うことなく思い込んでいた身にとって衝撃で、目からうろこの思いだった。
■起床は朝5時、背丈は20センチ近く縮んだが、病気知らず
毎朝、5時か5時半に起き、2階の住まいから6時に店へ降りてくる。ここから7時半の開店まで、弘子さんのおにぎり作り“第1ラウンド”が始まる。朝ごはんは食べない。昼も、そして夜も、さほど食べない。何かをつまむ程度でいい。健太さんがこう教えてくれた。
「食事を食べないもんだから、どんどん小さくなっちゃって。15センチぐらい、背が小さくなっているし、骨も丸まってきている」
弘子さんが笑ってうなづく。
「この台に乗っても、もう、お店は見えないの。前は148センチあったのに、この前、測ったら、129センチになってたね」
それはもう、15センチどころではない。ただし、病気はしたことがない。
「ここにきて腰が痛くなって、コルセットするようになったり、白内障になって病院に行くようになったりしたけど、病気はしたことがなくて、内臓はどこも悪くないの」
■夜の楽しみは、自宅でゆっくり「相棒」などを見ること
最大の楽しみは、夜のドラマ。甘いものが大好きなので、コーヒーやお茶と一緒に、今日食べたいと思ったケーキを用意して、テレビの前に座る。それが、一日で最もワクワクする時間だ。
「『相棒』は必ず見る。『ドクターX』も。今は火曜日の『あのクズを殴ってやりたいんだ』と、木曜の松本若菜ちゃんの『わたしの宝物』。この前、撮影でうちの店に来られたの、若菜ちゃん。きれいな人だったねー」
まさか、ドロドロ系ドラマに推し女優まで。大好きなケーキを食べながら、ドラマの世界にのめり込み、弘子さんは毎夜、キュンキュンしている。歌やピアノが好きだった少女は80歳になっても、芸能好きは変わらない。
■お店を切り盛りし、働く喜びが何よりも健康の秘訣に
仕事が好きで、息子と一緒に働けて、夜にはちゃんと自分の楽しみがある。なんと、素晴らしい人生だろう。コツコツとおにぎりを握り続けた日々に何一つ、愚痴も不満もなく、あるのは働くことの喜びのみ。
「店で働いていないと、つまんない。休みは、なくてもいいぐらいなの。3日休みって言われたら、2日でいいよって」
毎日欠かさず買いに来る客も、一人や二人ではない。今や、地元商店街になくてはならない、唯一無二のおにぎりだ。
「お客さんから、美味しいって言われて。それはうれしいですね。この前も男の子から、『やってて、ありがとう』って言われたね」
健康の秘訣は、「過去を振り返らない、くよくよしない、うじうじしない」こと。「働く手」の赴くまま、毎日300から500個のおにぎりを握る。その日々の繰り返しこそ、弘子さんの人生そのものであり、家族の物語でもあり、なんと尊いものかと思わずにはいられない。
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ノンフィクション作家
福島県生まれ。ノンフィクション作家。東京女子大卒。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち』(集英社)で、第11 回開高健ノンフィクション賞を受賞。このほか『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』(集英社)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『シングルマザー、その後』(集英社新書)などがある。
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(ノンフィクション作家 黒川 祥子)
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