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だから「懲役4年の実刑判決」でもトップ当選できた…田中角栄が落選した野党議員に続けた"絶妙な気配り"

プレジデントオンライン / 2024年12月19日 7時15分

実刑判決を言い渡され東京地裁を出る田中角栄元首相=1983(昭和58)年10月12日 - 写真=共同通信社

なぜ田名角栄元首相は選挙で圧勝し続けることができたのか。政治評論家の小林吉弥さんは「田中氏は身内の裏切者や、対立していた野党候補にまで気くばりを欠かさなかった。だから、ロッキード事件で逮捕され、有罪判決を受けたあとの選挙でも2位以下の候補者と圧倒的な差をつけて当選することができた」という――。(第1回)

※本稿は、小林吉弥『田中角栄 気くばりのすすめ』(ビジネス社)の一部を再編集したものです。

■“けじめ”に厳しかった田中角栄

田中角栄は、公私のけじめには厳しい部分があった。

人間はしかるべきポストに就き、いささか権力的立場に立つと甘えが出、残念ながらまたワガママも出る。そうした人物は、それだけのポストに就いたのだからある程度の能力、分別も当然ある。しかし、しょせん人間は弱い。人の眉を曇らせることをやらかす場合も少なくない。

とはいえ、人間は弱いものだと甘えているようでは、組織の中で強い指導力を発揮することなどはしょせん無理と思いたい。まさに、「上、下を知るのに3年」かかるのに対し、「下、上を知るのはたった3日」で、部下は「公私」のけじめのつかぬ上司を早々に見抜いてしまうのが常である。

そこから、例えば組織の緩みが出、いざというときの組織の結束力の弱さにつながるということである。

昭和47年の自民党総裁選。ご案内のように田中、福田の「角福戦争」を経て田中が制しているが、互いの多数派工作は熾烈(しれつ)であった。1票でも負けは負けであることから、自陣への抱き込みのための実弾(カネ)も、相当に飛び交ったともはやしたてられた。

しかし、実際は世間で言われたほど、必ずしも目が飛び出るような金権選挙とは言えなかったようだ。

「とりわけ、田中がカネで票を買ったように伝えられたが、対立陣営からのやっかみ部分が多かった。むしろ、田中陣営はポストの“約束手形”を多々切っていた。つまり、田中陣営には初めから勝てるとの余裕があったということだ」

とは、当時の田中を推した大平派の議員の証言である。

■筋を通したことで、深い関係性を築けた

また、この総裁選では、「角福」陣営には、それぞれにしがらみのある“迷える議員”が多々いた。田中とのしがらみはあるものの福田への信奉者もいたし、その逆の議員もいた。

第2次田中角栄内閣発足後の記念撮影
第2次田中角栄内閣発足後の記念撮影(首相官邸HPより)

あるいは、田中と同じ新潟県の出身ながら、選挙区は「福田王国」と言われた群馬県にあるといった議員もいた。そうした中に、福田系と色分けされた中曽根派の長谷川四郎、長谷川峻(たかし)という二人の議員がいた。

共に、心は揺れたが福田とのしがらみは強い。筋を通すことでも知られていたこの二人は、田中のところにわざわざ仁義を切りに出向いた。田中に、“了承”を求めたのである。

「決選投票では、今回は福田さんに投票させて頂くつもりです」

このとき、田中はこだわりを見せずにこう言った。

「友情は友情だ。君はそういう立場にいるんだから、福田さんに投票しなさい」

総裁選がすんだ後、この2人の議員と田中の関係はそれまでと何ら変わるものはなかったのだった。むしろ、信念に敬意を表した形で、田中は自らの内閣で長谷川峻を労働大臣に抜擢(ばってき)した。長谷川峻もそうした田中に報いたか、その後、終生、陰になり日向になり、“隠れ田中派”を貫いたものだったのである。

■後援会の中から“造反者”が出てしまった

徳川家康。この人物も、「公私」のけじめには厳しかった。こんなエピソードがある。駿府城にいた頃、城の庭の池の水の入りが悪く、そんなとき部下がこう言った。「新しく水を引きたいと思います。途中、小さな寺がありますが、水を引く障害になるので代替地を与え、場所を動いてもらおうと思いますがいかがでしょうか」しかし、家康は、キッパリと言ったのだった。

「それは、ならぬ。池に水を引くことはオレの私事だ。寺をよりどころにしている民を混乱させるわけにはいかない。池の鯉には少し我慢してもらって、別の方法を考えるべし」

「公私」のけじめに厳しく対処できる人物は、気高さを感じさせる。気高さを前にした人は、異論をはさんでくることが少ない。「公私」のけじめなき気配りは、存在しないと言っていいようである。

組織内から造反者が出る。機密、秘密が持ち出される可能性もある。このとき問われるのが、組織のリーダーの器量でもある。昭和55年6月の衆参ダブル選挙で、当時の田中の選挙区だった旧〈新潟3区〉から桜井新という若手が立候補した。

桜井は早稲田大学理工学部在学中から、東京・目白の田中邸で書生として勤めていた。やがて、新潟県南魚沼郡(当時)六日町で土建業を経営、一方で県会議員をやるかたわら田中の後援会「越山会」の青年部長として、組織固めの才能を発揮していた。言うなら、田中の片腕でもあったのである。昭和55年と言えば、折から田中がロッキード裁判のさなかにあり、いかに田中とはいえ、このときの選挙は危機感に溢(あふ)れたそれであった。

ところが、こともあろうに「越山会」の中から、“造反者”としてこの桜井が出馬の手を挙げたのである。

■潰そうと思えば潰せた新人をあえて無視した

「山口県でも岸信介、佐藤栄作の兄弟が骨肉の争いをしたということもある。田中先生をいまでも尊敬しているが、選挙は別だ。『政治の再生』『人心の一新』を掲げる」というのが、桜井の“出馬の弁”であった。

筆者も、このとき〈新潟3区〉の選挙内を取材したが、桜井は拠点の南魚沼はもとより大票田の長岡市にも後援会事務所を設立、必勝態勢で臨んでいたものだった。長岡市は、田中の“牙城”でもあったのである。ところが、逆に田中は公示の前も後も、桜井の拠点の南魚沼には入らなかったのだった。

政界の大実力者が時に街頭で新人候補とやり合うなどは、とても田中にはみっともなくてできかねるということのようでもあった。結果、田中は“指定席”のトップ当選、桜井も初出馬にして当選を果たした。

1972年に撮影された田中角栄元首相の写真。
1972年に撮影された田中角栄元首相の写真(首相官邸HPより)

それから約3年後の昭和58年5月9日、田中はその後初めて南魚沼郡六日町に入った。時局講演会に出席のためである。

「これまで南魚沼へは意識的に入らなかった。桜井君が出たからだ。しかし、もう一人前になったから入ることにした」

そう挨拶、万雷の拍手を浴びたものだった。田中と桜井の間で、果たして選挙地盤の“棲み分け”がデキていたのかどうか、いまにしてその真相は分からない。しかし、潰そうと思えば一発で潰せたであろう田中が、あえてこの新人候補の足を引っ張らなかったことだけは事実だった。

■実刑判決を受けても圧倒的なトップ当選を果たす

こうして久しぶりに南魚沼に入ってから5カ月後、ロッキード裁判一審判決が出、田中は懲役4年の衝撃的な実刑判決を受けた。

その苦境の真っ只中で、その約1カ月後に総選挙があった。結果は、ロッキード事件の余波を受けて自民党は惨敗、しかし田中自身は22万票という“オバケ票”を取ってトップ当選を飾ったのだった。

22万という票が、いかに凄かったか。〈新潟3区〉全立候補者が集めた票のじつに47パーセントにあたり、2位から5位の当選者の合計が18万票に過ぎなかったことで明らかだった。とりわけ、南魚沼郡は桜井がいたにもかかわらず、田中にも多くの票が出たのである。

「“造反”と言われた桜井の初陣に、田中さんは目をつぶってくれた形でこの南魚沼には入らなかった。先生の大きさを改めて見た。こんどは、苦境の先生をわれわれが後押ししたのは当然でしょう」とのちに語っていたのは、南魚沼郡の元「越山会」幹部である。配慮に満ちたリーダーの器量、かくありきということであった。

■カネは「もらって頂く」という姿勢で渡す

田中角栄の抜群な気配りは、カネに関してもみることができる。選挙の季節となると、資金が足らずで田中に「SOS」を訴えてくる議員が多かった。時に、田中は秘書にそうした議員が選挙活動中の地元にナニガシかを届けさせたものだ。

その際に田中が秘書に申し渡したのが、次の言葉であった。

「いいか。お前は絶対に『これをやるんだ』という態度をみせてはならん。あくまで『もらって頂く』と、姿勢を低くして渡せ。世の中、人はカネの世話になることが何よりつらい。相手の気持ちを汲んでやれ。そこが分かってこそ一人前」

合わせて、渡したカネのことは一切、口外することがなかった。ために、田中から資金援助を受けた議員は口を揃えたように言ったものだ。

「人に知られてみじめな思いをすることがなかった。角さんからのカネは心の負担がないのだ」

だから、田中のもとには人が集まった。「カネが上手になれて、初めて一人前」との俚諺(りげん)もあることを知りたい。

■本人には黙って毎月20万円を送り続けた

また、カネに関してはこんな話もある。戦後間もなくから田中角栄が旧〈新潟3区〉の選挙でシノギを削ったのが、社会党の三宅正一代議士(のちに衆院副議長)であった。

田中と三宅は保守・革新と立場は違っても、ともに新潟の豪雪苦や開発の遅れなどからの脱却に、お互いの熱い血をたぎらせてきたものだ。言わば同じ郷土愛を持った「戦友」でもあり、互いにどこかで心を許し合い、畏敬の念も抱いていた。

その三宅は大平正芳首相が選挙運動さなかに死去した昭和55年6月の衆参ダブル選挙で落選、それを機に政界を引退した。田中の凄さが、ここで出た。落選議員は家の子郎党(ころうとう)の面倒も見なくてはならずで、生活は厳しいものである。これを見た田中は、なんと三宅のもとに毎月20万円を送り続けたというのである。しかし、絶妙の気配りはここからである。

小林吉弥『田中角栄 気くばりのすすめ』(ビジネス社)
小林吉弥『田中角栄 気くばりのすすめ』(ビジネス社)

そのあたりの事情を知る人物の証言がある。「田中は三宅本人には送らず、近い人にこう厳命したうえで送った。『このカネが私から出ているとは、口が腐っても本人に言ってはならない』と。三宅さんのプライドを慮ったということだった。結局、このことを三宅さんは亡くなるまで知らないでいた。しかし、人の口に戸は立てられずでやがてこの話が漏れ、『田中はなかなかの男だ』という声が三宅さんを中心とする社会党支持者の間に伝わっていったのです」

この気配りは、田中が選挙で一番苦しかったと言われたロッキード選挙で“開花”することとなった。田中はこの選挙で落選もあり得るとのメディア報道を一蹴、じつに前代未聞の22万票を獲得したということだった。

「社会党支持者の票がかなり回った」(新潟の地元記者)との見方があったのである。カネは、「両刃の剣」である。上手に使えば自分の“栄養”になるが、ヘタな使い方をすれば人品が卑しくなって評判を落とすのだということを知っておきたい。

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小林 吉弥(こばやし・きちや)
政治評論家
1941年、東京都に生まれる。早稲田大学第一商学部卒業。的確な政局・選挙情勢分析、歴代実力政治家を叩き合いにしたリーダーシップ論には定評がある。執筆、講演、テレビ出演などで活動する。著書には、『田中角栄 心をつかむ3分間スピーチ』(ビジネス社)、『田中角栄の経営術教科書』(主婦の友社)、『アホな総理、スゴい総理』(講談社+α文庫)、『宰相と怪妻・猛妻・女傑の戦後史』(だいわ文庫)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『新 田中角栄名語録』(プレジデント社)などがある。

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(政治評論家 小林 吉弥)

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