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だからSMAP解散後も「最も数字を持つ男」に君臨している…「月9主演11回」の木村拓哉がテレビにこぼした苦言

プレジデントオンライン / 2024年12月22日 10時15分

騎馬武者行列で声援に応える俳優の木村拓哉さん=2022年11月6日 - 写真=時事

国民的アイドルグループ「SMAP」が2016年12月31日に解散して8年がたつ。元メンバーがそれぞれの道を歩む中、木村拓哉さんは映画、ドラマ、舞台、CMに至るまでその姿を見ない日はない。なぜキムタクは輝きを失わないのか。「ジャニオタ男子」として旧ジャニーズタレントを追い続けている霜田明寛さんが解説する――。

※本稿は、霜田明寛『夢物語は終わらない 影と光の“ジャニーズ”論』(文藝春秋)の一部を再編集したものです。

■SMAP解散後に起きた“変化”

ここで2022年には50代に突入した近年の木村拓哉について見ていこう。

もともと、SMAPの他のメンバーのように個人でのバラエティ番組がなかった木村は、解散後、必然的に俳優業がメインとなった。さらに2020年からはソロでの音楽活動も始動させ、アルバムを出しコンサートも行っている。

楽曲は山下達郎や森山直太朗(もりやまなおたろう)、DragonAsh・Kjの提供曲や、鈴木京香(すずききょうか)や明石家(あかしや)さんまといった木村への理解の深い人物に詞を提供してもらったものなど、組む相手を選ぶ時点から作り込まれた印象だ。楽曲提供をした久保田利伸(くぼたとしのぶ)は「人生観まで声に乗せてくれた」と木村の表現を絶賛している(※1)

だが、アルバムの発売に際しては、SMAPの頃には当たり前のようにされていた、発売時期に行われる歌番組への出演なども抑えられ、過度なプロモーションはされない。商品というよりも“作品”に近い届け方になっているのだ。2022年の『ぎふ信長まつり』では、1万5000人分の立ち見の観覧席に、96万6555人が応募し、当日の木村拓哉扮(ふん)する信長の行列に熱狂する様子が大きく報じられた。

■ジャニタレトップクラスのCM本数

50歳を目前にしても“キムタク”はまだキャーキャー言われる存在なのだ。休日に岐阜にまで足を運び、木村を生で見たいと考える人間が少なくとも約100万人はいる。芸能界に生きる木村拓哉=キムタクは未だに支持されている。

“キムタク”のブランドはなおも健在で、そこに頼る企業は多い。2022年10月時点での木村のCM契約社数は9社。この数字は当時の全ジャニーズタレントの中でトップだった。1996年2月時点では5社だったことを考えると、この四半世紀、様々なブランドの顔を務め続けた上で、なお増えていたのである。

その一方で、近年の木村は、作品を作るのは「すべてのスタッフとの共同作業(※2)」と話す。主演映画の舞台挨拶などでも「俳優部のひとりとして……」と、あくまで自分は作品の一部であるという言葉の選び方をしたり、2023年には月9ドラマの会見で「月9ってもう言わなくても……」とフジテレビの“月9煽り”に苦言を呈(てい)したりと、作品づくりにより邁進しようとする姿勢が垣間見える。

■最も数字を持つ男は、数字を追わない

木村拓哉は96年の『ロングバケーション』以降、フジテレビのドラマの看板枠である「月9」の主演を11回と、最も多く務めてきた。平成の連続ドラマの視聴率トップ5は全て木村の主演作である。『HERO』ひとつとっても、11話全てが視聴率30%超えという日本の連ドラ史上唯一の快挙を遂げており、劇場版の興行収入は81.5億円……など、木村を表す記録的な数字は多く存在する。日本の芸能界で最も数字を持つ男と言ってもいいだろう。

だが、近年の発言にふれると、自分たちが力を結集して創り上げた作品に対して、ずっと「月9」のような商品的な煽りをされることや、自身が芸能界の真ん中のような表現をされること、視聴率のみでその成果をジャッジされることなどに抵抗があったのではないかとも思う。

木村が数字について語るときは「自分を数字にしてしまったら、それでおしまいだから(※3)」といったように、不思議と“終わり”を示す言葉とセットになる。

50歳を迎え、こうも語っている。

「数字はテレビ局や映画会社の人が気にすること。俺、そこじゃないもん。そこを追っていたら……(中略)もう辞めてんじゃないですか」(※4)最も数字を持つ男は、数字を追わない男でもあるのだ。

■オーディションを3回もバックれていた

そもそも、木村拓哉は3回も“バックれ”たあとに、4回目にしてジャニーズのオーディションを受けている。当時を“ワル哉くん”だったと振り返る(※5)青年だった。

そんな“ワル哉くん”は、1989年、当時17歳の頃にジャニー喜多川に蜷川幸雄(にながわゆきお)のもとに連れて行かれ、初舞台を踏んだことで開眼する。厳しい指導で10円ハゲができて白髪が生えたほどだったが(※6)、50代になってターニングポイントを聞かれても、ヒットしたドラマではなく、この舞台をあげる。

「蜷川幸雄さんの指導で、拍手をいただけることがどれだけすごいことか。舞台に上がることがどれだけ大変か。初めて理解できた(※7)」という。「そこでスイッチが入った」「経験していなかったら、たぶん(今の活動を)やっていないと思います(※8)」と語るほどの、重要な仕事である。

芸能界で大活躍することになる木村拓哉も、仕事に本腰を入れるきっかけは本物の“芸事”に触れた瞬間にある。その後、芸能界で大ブレイクしてしまう木村が、蜷川幸雄の舞台を踏めたのは、その最初の一度きりである。そんな木村拓哉にとって、近年の動きは本来いたかった場所に回帰しようとしているようにも見えるのである。

■エージェント契約1番手だった納得の理由

木村拓哉は長きにわたって商品としての自分の勢いを継続させながらも、作品を届けようとしてきた。自分が自分の生産者。23歳のときの発言が、今より説得力を持って響く。そして、エージェント制への移行によって「並べて売るのは事務所」ですらなくなるかもしれない状況がやってきた。

ここまで述べてきた通り、そのプロデュース能力とはかなり相性がいいものではあるが、むしろ完全に独立してやるタイプだと思う人もいるかもしれない。だが、その選択肢を木村は取らなかった。

糸井重里(いといしげさと)は、木村拓哉が二十歳の頃に、「自分の強さはなんだと思う?」と聞いたことがあったという。そのときに木村は「ジャニーズ」と返し、こう付け加えた。

「ジャニーズじゃなかったら僕はなんでもない」(※9)自分が生産者であるという強い意識を持ちながらも、自分を客観視することができる。これだけの実績を出しながらも、全てを自分の実力だと認識していない――。その自分を売る事務所の強さも認識し、感謝の意を持つ。意志の強さと謙虚さの絶妙なバランスの上に、木村拓哉は成り立ってきたのだ。

ジャニーズ事務所のエージェント制への移行が発表された後、真っ先に事務所が契約に向けて動いている旨が発表されたのが木村拓哉だったのも頷(うなず)けるのである。

■「芸事」を徹底的に追究したKinKi Kids

本章では“芸能界で成功する”ことと“芸事を追究する”ことを分けて論を進めている。だが、難しいのは、芸能界を生き、ある程度の人に知られないと、その芸事を追究する姿も認知されないということである。

また、日本では、テレビで活躍していたタレントが舞台に軸足を移すと「消えた」などと言われがちであり、テレビ露出の多さでその芸能人の成功を判断しているような傾向がある。その傾向には疑問を抱いているものの、少なくとも、小学生だった僕の目にジャニーズが入ってきたのは、彼らが芸能界に生きてくれていたお陰でもある。

『夢物語は終わらない 影と光の“ジャニーズ”論』(文藝春秋)の第1部2章で描写した90年代後半は、SMAPをはじめとしたジャニーズ事務所のタレントたちが芸能界で活躍し、芸能界の一大“ジャニーズ帝国”のように捉えられ始めた時期である。そんな90年代の中頃、デビュー前の1995年には既に「SMAPに次ぐ、超人気コンビ」などと雑誌に書かれていた(※10)2人組がいた。SMAPのバックを多く務め、のちにジャニーズ事務所史上初の2人組としてデビューすることになるKinKi Kidsである。

コンサートの背景
写真=iStock.com/Standart
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Standart

■「君たちは2人ともプロデューサーだからね」

KinKi KidsはCDデビューの前から芸能界でのブレイクを果たし、現在では芸事に邁進している2人でもある。2人はデビュー間もない頃、ジャニー喜多川にこう言われたという。

「君たちは2人ともプロデューサーだからね」(※11)堂本剛は「最初の頃は何のことかわかってなかった」(※12)と言うが、今や彼らは自らのプロデューサーとしての側面を持ち、さらには本書で一貫して述べてきた“アイドルでありアーティスト”を体現している2人でもある。

また、堂本剛はKinKi Kidsのことを「ジャニーさんのある種の理想を託された」(※13)とも語っている。その誕生から現在に至る流れを振り返ってみよう。

1992年に「KANZAIBOYA(カンサイボーヤ)」として誕生した彼らは、94年に揃って出演したドラマ『人間・失格~たとえばぼくが死んだら~』で広く知られるようになり、その翌年も剛は『金田一少年の事件簿』、光一は『家なき子2』など、それぞれ人気ドラマに数多く出演する。

94年の大晦日には日本武道館でコンサートを行っており、1万3000人の客席に10万通の応募が集まったという(※14)

今やCDデビュー前のジャニーズJr.のグループが人気を博し、コンサートに集客があるのは通例のこととなっているが、この時代のKinKi Kidsはその先駆者でもある。歌手デビュー前に『ミュージックステーション』に出演したのもKinKi Kidsが史上初だった。

■ジャニー喜多川氏が特別目にかけていた

96年には『LOVELOVE あいしてる』といったレギュラー番組も存在し、人気は爆発していたが、すぐにCDデビューをしたわけではなかった。1997年3月、なぜデビューさせないのか聞かれたジャニー喜多川は「今、KinKiがレコードをだしていたら、新曲をだすのに追われて、才能を多方面でのばす余裕なんかないですよ。

今はいろんな番組に出て才能をのばすとき」と、才能を伸ばすための時期としてあえて“温存”していることを語っている。売れるなら早く売ってしまえ、という発想ではないのである。

さらに、「KinKiはコンサート、次から次へやってて、レコード一枚出してない。これほど楽しいことないじゃないですか。ふつうはレコードを出さないと、コンサートにお客さんは来ませんから」(※15)と、CDデビューをさせていないのに、ショーの現場に人が集まっているという状況を喜んでいる様子がうかがえる。

2人への思い入れは強く、入所直後からなんと社長自ら2人の現場マネージャーを直接担当していたほどだったという(※16)

デビューを経てもその思い入れは変わらず、堂本光一自身も「デビューするとジャニーさん離れちゃうところあるじゃないですか。だけどKinKiの現場には必ず来てくれた。ずっと」(※17)と振り返る。

■そして『硝子の少年』が爆誕した

そしてそのときはやってくる。97年7月に、2人はついにCDデビューを果たす。主演ドラマの主題歌など、既にオリジナルの曲も多かった彼らはアルバムとシングルの同時発売でのデビューとなった。『硝子の少年』は、累計179万枚と、ジャニーズのグループのデビュー曲として最多の売上を記録している。

その後も99年『フラワー』、2000年『夏の王様』などヒット曲を出し続け、テレビ出演も続いていたが、2000年代に入ると少しずつ活動の形が変化していく。

まだ連続ドラマの主演なども多く、芸能界の中心を走っていたといってもいい1999年1月、堂本光一は『SHOW劇'99MASK』でミュージカル初主演を飾る。この作品は『PLAYZONE』で少年隊が演じてきた演目をアップデートしたものである。ジャニー喜多川に「ミュージカルやらない?」と誘われたのがきっかけだ。

翌年、2000年にはジャニー喜多川作・演出のミュージカル『MILLENNIUMSHOCK』で21歳での帝国劇場史上最年少座長を務める。これは同劇場への初めてのジャニーズタレントの出演であり、当時を「『帝劇の歴史を汚した』というような批判をたくさん受けました」(※18)と光一が振り返るくらいエポックメイキングなことだった。

スポットライト付きのステージ
写真=iStock.com/RuslanShevchenko
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/RuslanShevchenko

■帝劇の顔となった光一、シンガーソングライターの剛

『SHOCK』に5年間出演したのち、2005年からは自らが構成・演出を務める形での『EndlessSHOCK』に刷新した。自身で作曲も行い、作品は権威ある『菊田一夫演劇大賞』を受賞し、2024年には上演が2000回を超え、光一は日本の演劇の最多単独主演記録を更新し続けている。端的に言えば、質も量もすごいものを四半世紀の間やり続けてきたのである。

2023年には帝国劇場の年間9作の上演作品のうち、ジャニーズ作品が4作と約半分を占めている。「汚した」という声が上がった頃からすれば隔世の感があるが、これはこの20年で光一及びジャニーズの実績が認められた証だろう。さらに、9作のうち2作に光一が主演し、別作品2作には演出として関わっているなど、もはや光一は帝劇の顔といっても過言ではない。

舞台を通して、光一は四半世紀をかけて芸事の道に邁進してきたと言っていいだろう。

一方、堂本剛は、ジャニー喜多川の「彼に音楽をやらせてあげてほしい」(※19)というレーベルの社長への伝言をきっかけに、プロデューサーは立てずに、2002年にこれもジャニーズ史上初めて、自ら作詞・作曲を務める形でシンガーソングライターとしてソロデビューする。『街』は主演ドラマの主題歌でもあり、当時の剛もまだ“芸能界”の中心にいた頃と言っていいだろう。

■15歳の時に“道”は見えていた

2006年には、自ら企画書を書き、ソロ・プロジェクトENDLICHERI☆ENDLICHERIを開始。特設会場を作り、約半年の間になんと100本ものライブを行った。このプロジェクトでは、作詞作曲のみならず、宣伝手法まで考えるようになり、近年では「自分で全部やってる。(中略)プレイヤーとしても、エンジニアとしても、アレンジャーとしても」(※20)と言うほどで、ライブ演出はもちろん、例えばロゴをデザインする上でのフォントづくりに至るまで自らの手で行っている。

ファンクの帝王ジョージ・クリントンともセッションを果たし楽曲を制作するなど、その音楽性は国内外のミュージシャンたちからも認められている。

2000年代を境目に、堂本光一はミュージカルに、堂本剛は音楽の道に邁進していく。ただ、2人ともその道に進むきっかけが、ジャニー喜多川によって与えられていることに、本当に自己プロデュース性があるのか、と疑う人もいるかもしれない。だが、もちろん彼らの道は“進まされている”ものではない。

世間の注目を浴び始めた15歳の頃、将来のことを聞かれ2人がこう答えていたことがある。

「歌、ダンス、演技、ぜんぶ好きだから、将来はミュージカルをやるのが目標」(堂本光一)
「いま、暇をみて詩を書いてるんだけど、いつか自分の作詞した曲を歌えたらいいなと思っています」(堂本剛)(※21)

■なぜわざわざ“命令の形をとったか

驚くほどに、彼らは少年の頃に描いた自分たちの理想の道を歩いているのである。ジャニー喜多川が各々に対して“指示”の形をとったのは、“ジャニーズ史上初”のことをすることになる2人に対して、失敗の可能性も鑑みた上で責任を取るためだったのかもしれない。自分の頭で考えさせ、各々のやりたいことができるような環境を整えた上で、責任は自分が取れるように“命令”の形にする――。

霜田明寛『夢物語は終わらない 影と光の“ジャニーズ”論』(文藝春秋)
霜田明寛『夢物語は終わらない 影と光の“ジャニーズ”論』(文藝春秋)

堂本光一は、ジャニー喜多川の死後、その思いにこう考えを巡らせる。

「ジャニーさんって、いろんな人の責任をどれだけ背負っていたか、ってことなんですよね。(中略)全員がジャニーさんのせいにできたんですよ。〈ジャニーさんがこう言ってるから〉とか〈ジャニーさんの指示だから〉って。ジャニーさん自身も、その責任を全部背負ってくれた。でももう、それができなくなったんですよね」(※22)

ジャニー喜多川はKinKi Kidsのことをこう評していたという。

「100年にひとりの逸材がここには2人いる」(※23)

その逸材を芸能界の中だけで埋没させるわけにはいかなかったのだろう。デビューまで時間をかけ、多くの番組に出演して知名度を高めながらコンサートにも集客し、大ブレイクすると、徐々にテレビ露出を減らし、芸能界で生きることから芸事に集中できるよう道を整えていった。その結果、結成から30年経ってもKinKi Kidsは走り続けているのである。

※1:TOKYO FM『木村拓哉 Flow』2024年8月11日放送
※2:「AERA」2023年1月23日号
※3:「週刊SPA!」2004年1月13日号
※4:「スポーツ報知」2023年1月1日
※5:TOKYO FM『木村拓哉 Flow』2021年11月21日放送
※6、7:「スポーツ報知」2023年1月1日
※8:TBS『日曜日の初耳学』2023年1月22日放送
※9:「MEKURU」VOL.7
※10:「女性セブン」1995年4月6日号
※11:TBS『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』2022年7月1日放送
※12:テレビ朝日『関ジャム 完全燃SHOW』2017年8月27日放送
※13:「音楽と人」2018年2月号
※14:「女性セブン」1995年4月6日号
※15:「AERA」1997年3月24日号
※16:「日経エンタテインメント!」1997年11月号
※17:TBS『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』2022年7月1日放送
※18:「女性自身」2015年3月10日号
※19:「音楽と人」2023年3月号・「サウンド&レコーディング・マガジン」2019年10月号
※20:TBS『人生最高レストラン』2023年9月9日放送
※21:「an・an」1995年2月24日号
※22:「音楽と人」2021年1月号
※23:TBS『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』2022年7月1日放送

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霜田 明寛(しもだ・あきひろ)
作家/チェリー編集長
1985年生まれ・東京都出身。早稲田大学商学部在学中に執筆活動をはじめ、『面接で泣いていた落ちこぼれ就活生が半年でテレビの女子アナに内定した理由』(日経BP社)など3冊の就活本を出版。企業講演・大学での就活生向け講演にも多く登壇する。4作目の著書『ジャニーズは努力が9割』(新潮新書)は6刷・3万部突破のロングセラーとなり、『スッキリ』(日本テレビ系)・『ひるおび』(TBS系)等で紹介された。静岡放送SBSラジオ『IPPO』準レギュラーをはじめ、J-WAVE・RKBラジオなどラジオ出演多数。Voicy『シモダフルデイズ』は累計再生回数200万回・再生時間15万時間を突破している。

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(作家/チェリー編集長 霜田 明寛)

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