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「子どもを無理矢理プログラミング教室に通わせる必要はない」…大学教授が解説"小中高での必修化"本当の価値

プレジデントオンライン / 2025年1月6日 16時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu

小学校、中学校、高等学校でプログラミング教育が導入されている。どんな意味があるのか。麗澤大学工学部教授として統計学やデータ分析を学生に教えている宗健さんは「自分が何に向いているか、向いていないか、好きか、嫌いかは、やってみないとなかなか分からない。それを判断する良い機会になる」という――。

■プログラミングには向き不向き、好き嫌いがある

グローバル化とIT化で、いまやプログラミングは必須のスキルだという風潮になっている。小中高校でもプログラミング教育は必修化されており、高校の情報Iは2025年度の共通テストの新たな科目となっている。

しかし、プログラミングが必須のスキルだとしても、おそらく世の中の全ての人がプログラミングをできるようにはならないだろう。

世の中には、どうやっても逆上がりができない人や、どうやっても50m走で10秒を切れない人がいるのと同じように、どうやっても後述する狭義のプログラミングができるようにならない人がいる。

スポーツや音楽に向き不向き、好き嫌いがあるようにプログラミングにも向き不向き、好き嫌いがあるのだ。

狭義のプログラミングとはパソコンで英語のコードを書くことだが、広義のプログラミングとは、アルゴリズム=手順を考えることだ。だから、冷蔵庫の中身を見て夕食の料理の段取りを考えたり、旅行の日程を細かい乗り換えまで考えて作成することもプログラミングだ。

そうやって考えると、論理的に物事を考える人や、一文字でも間違えると動かないプログラムを前にして細かいチェックができるような人がプログラミングに向いていて、逆の場合には向いていないということになる。

また、普通は自分が得意なことを好きになるから、プログラミングに向いていない人が、実はプログラミングが好きだ、ということもあまりないだろう。

■小中高での必修化は向き不向きを判断するチャンス

音楽やスポーツでもそうだが、自分が何に向いているか、向いていないか、好きか、嫌いかはやってみないとなかなか分からない。

最近では、そうしたやってみる経験の格差のことを、「体験格差」といい、学校以外での習い事や、旅行などの体験が家庭環境によって大きく異なることが問題視されている。

しかし、プログラミングについては、小学校では2020年度から、中学校では2021年度から、高校では2022年度からプログラミング教育が必修化されているから、少なくともやったことがないから、向いているか向いていないか、好きか嫌いかすらわからない、ということはなくなっているはずだ。

家庭にパソコンがあるかないか、親がパソコンを使いこなしていて、子どもに教えることができるかどうか、といった環境差はあるにしても、プログラミング教育の必修化は、基本的には歓迎すべきことだろう。

しかも、小学校では算数・社会・理科・音楽などの授業に組み込まれる形であり、パソコンでコーディングするわけではない。中学校でもフローチャートを使ったアルゴリズムを学んだりするレベルで、実際にパソコンでコーディングするのは高校からの場合が多いようだ。

こうした段階的な教え方も、向いているか向いていないか、好きか嫌いかを判断するためには適切なやり方だろう。

■「誰もがプログラミングをできるようになるべき」とはいえない

こうしたプログラミング体験の機会が必修化された一方で、問題は、誰もがプログラミングができるようになるべきだ、という論調だろう。

これから社会人にはプログラミングは必須のスキルになる、と煽る記事や動画はすぐに見つかるが、本当にそうだろうか。

少し考えればわかるが、世の中にはさまざまな仕事があり、全ての仕事でプログラミングができるようになる必要はない。

たしかに、ホワイトカラーの一部はプログラミングができた方がいいとは思うが、では経営者も含めて全てのホワイトカラーにプログラミングが必要かというとそうでないのは自明だろう。

小中高でのプログラミング教育の必修化は、機会の平等であって、だれもが高校卒業時にプログラミングができるようになるという結果の平等は目指すべきではないし、実現できるとも思えない。

それは、全ての子ども達を高校卒業までに、逆上がりができて、50m走を10秒以内で走れて、日常英会話ができるようにする、というのと同じだからだ。

公園の鉄棒
写真=iStock.com/Asobinin
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Asobinin

■無理矢理子どもをプログラミング教室に通わせる必要はない

だとすれば、高等学校学習指導要領の建前は別として、情報Iの内容が理解できないまま高校を卒業することがあっても不自然ではないし、人には向き不向き、好き嫌いがあるのだから、その人なりの向いていて、好きなことが見つかれば問題はないはずだ。

そうやって考えれば、小さな時から、子どもの向き不向き、好き嫌いを考えずに、これからはプログラミングだ、という風説に惑わされて子どもを無理矢理プログラミング教室に通わせる必要がないことは明らかだ。

現に、一部のプログラマーが小学校からプログラムをやっていたというケースはあるにしても、プログラマーのほとんどは大学以降でプログラムを始めたことが圧倒的に多いはずで、それがいまでは高校で必修化されているのだから、高校でやってみればいいだけだ。

■「日本語をちゃんと使えること」が前提になる

最近では、ChatGPTなどの生成系AIが実際に動くプログラムを書いてくれるようになっている。もちろん、一切の修正が不要ということはなく、プログラムを最適なものに修正するためには、生成系AIが書いたプログラムの内容を理解するためだけのプログラミング言語の知識や、例外処理等に関する経験は必須だ。

それ以前に、生成系AIを使いこなすためには、論理的な正しい文章で指示することが必要になる。

プログラミングに最も必要な、論理的思考力というのは、実は論理的な手順を正しい言語で表現することが前提にある。

つまり、日本語が正しく使えるかどうかが前提になるのだ。

日本語なんて誰でも正しく使えるに決まっているじゃないか、と思うかもしれないが、2018年に国立情報学研究所の新井紀子教授が出版した『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』では、以下の文章の違いが分からない中学生が43%もいたことが書かれている。

●幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた。
●1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた。

そんなはずはないだろう、と思う人が多いかと思うが、これはフェイクニュースではなく、ちゃんとした学術研究としての調査の結果なのだ。

日本語の文章がきちんと理解できなければ、算数の文章題が解けないのは当たり前で、プログラムというのは、英語がベースだが論理的に正しい記述になっていなければ当然動作しないから、日本語が正しく使えない場合にプログラミングは基本的にはできない。

その意味では、本当に力を入れるべきなのは、全員にプログラミング教育を必修化することではなく、日本語を正しく使える底上げをすることだろう。

国語の勉強をする子ども
写真=iStock.com/Hakase_
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hakase_

■プログラミングだけが特別なわけではない

人には向き不向きがあり、スポーツが得意な子もいれば、音楽の才能がある子もいる。同じように数学が得意な子もいれば、英語が得意な子もいる。

プログラミングが得意な子というのは、そうしたたくさんある向き不向き、好き嫌いの一つに過ぎない。

大事なことは、自分自身についても、子ども達についても、向き不向きや好き嫌いを無視して、何かを強制的にやらせることや、無理してやってみることではなく、好きなこと、得意なことを見つけられる機会を提供すること、できるだけいろんなことに挑戦してみることだろう。

誰でも経験しているように、人は嫌なことはやりたくないが、得意なこと好きなことには熱中し、熱中すれば、それがますます得意になっていく。それは仕事も遊びも同じだ。

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宗 健(そう・たけし)
麗澤大学工学部教授
博士(社会工学・筑波大学)・ITストラテジスト。1965年北九州市生まれ。九州工業大学機械工学科卒業後、リクルート入社。通信事業のエンジニア・マネジャ、ISIZE住宅情報・FoRent.jp編集長等を経て、リクルートフォレントインシュアを設立し代表取締役社長に就任。リクルート住まい研究所長、大東建託賃貸未来研究所長・AI-DXラボ所長を経て、23年4月より麗澤大学教授、AI・ビジネス研究センター長。専門分野は都市計画・組織マネジメント・システム開発。

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(麗澤大学工学部教授 宗 健)

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