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5人全員が「異例の下積み時代」を経験している…日陰にいた「嵐」が国民的アイドルグループになれた本当の理由

プレジデントオンライン / 2024年12月25日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Gizmo

2020年末、アイドルグループ「嵐」はグループでの活動を休止した。31日で4年がたつが、活動再開を待ち望むファンは今なお多い。嵐はなぜ国民的スターになれたのか。「ジャニオタ男子」として旧ジャニーズタレントを追い続けている霜田明寛さんは「他のタレントとはまったく異なる下積みが、かえって衝撃的なブレイクを生んだ」という――。

※本稿は、霜田明寛『夢物語は終わらない 影と光の“ジャニーズ”論』(文藝春秋)の一部を再編集したものです。

■「私は決してメジャー志向ではない」

本章では、これまであまり語られてこなかった“藤島ジュリー景子がしてきた仕事”の功績を振り返ることにより、彼女が残そうとしていたものを考えていきたい。

藤島ジュリー景子は、嵐や関ジャニ∞といったデビュー直後の勢いに乗ってすぐにブレイクとはいかなかったグループを、テレビを中心にスターにさせていった実績がある。ジャニー喜多川がうまく売りきることのできなかったグループを、広く世の中に浸透させていったといってもいい。

その手腕は本書の分類で言えば“芸能界”に寄っており、もう少しくだけた言い方をすればメジャー志向の人物にも思える。「舞台のジャニー、テレビのジュリー」のような見方をされることも多かった。

だが藤島ジュリー景子本人は「私は決してメジャー志向ではない(※1)」という。「これに関しては両親に感謝(※2)」と語るほど、昔から本場で舞台を観てきたといい、舞台の帝王学の跡も垣間見える。

ジュリーはジャニー喜多川のように自ら作・演出をしていたわけではなく、マネージャー・プロデューサーとしての立ち位置を貫いてきた。そんなジュリーが2001年に立ち上げた「ジェイ・ストーム(J Storm)」という会社がある。

■ジャニーズなのに「インディーズです」?

「自分で小さな会社を立ち上げ、そこに慕ってくれるグループが何組か集まり、メリー・ジャニーとは全く関わることなく、長年仕事をしておりました」と会見の手紙で語られた会社とは、このジェイ・ストームのことだろう。

最初はその名の通り嵐のレーベルとして世に出たが、程なくしてJ StormMovieとして映画製作にも関わるようになる。「東京グローブ座という劇場を持ち、製作も配給も手掛ける。(中略)ジェイ・ストームが行なっていることは規模の小さい映画会社」と持ち上げられると、ジュリーは「全然違いますよ(笑)。インディーズです(※3)」とそのスタンスを語っていた。

近年は出資作が目立っていたが、初期のJ StormMovieはジュリーの言う通りのインディーズ、自主製作の作品が多くあった。それらはジャニーズ主演であるということ以外にも、作品の作り方、公開規模やグッズに至るまで、凡百の映画とは一線を画するものだった。

2002年に公開されたJ StormMovieの自主製作映画第1弾『ピカ☆ンチLIFEISHARDだけどHAPPY』は、まだブレイクする前の嵐5人の主演作だ。東京都品川区の八潮団地で育った井ノ原快彦の経験が原案で、映画撮影に密着して作られた写真集『嵐04150515―嵐のピカ☆ンチな日々』は岡本健一がカメラマンを務めるなど、所属アーティストたちの才能を集結させて作られている。

■「興収よりもタレントにとってプラスになること」

ジャニーズが主演する映画といえばテレビ局主導の規模の大きいものやドラマの映画化といったイメージも強かった中で、J StormMovieの作る映画は企画としては異彩を放っていた。

グッズも実際に劇中に出てくるものや、コンセプチュアルなものが多く、他のクリエイターとのコラボレーションも積極的に行っていて、いわゆる映画の物販やアイドルファングッズといったものとは異なる趣のものだった。ジュリーは「全ては自分が観客になった時に観たいものや欲しいことを優先した結果(※4)」と言う。

企画への思い入れは強いはずだが、撮影現場で監督に口出しをするといったことは控えていたようで「アーティストの新しい面を引き出して欲しくてご一緒させて頂くのに、毎日現場で汗をかいていない私が途中から口出しするのは混乱の元です。作品がつまらなかったら企画とスタッフを選んだ私達の責任ですから、そこを決めるまでが私の一番大切なお仕事だと思っています(※5)」と語っている。

「うちが作る映画の場合は、興収よりもタレントにとってプラスになること、彼らのプロフィールになるものを作りたいと思っています」とも言い、「ジャニーズ事務所は厳しいので、赤字にはできない(※6)」としながらも、その発想の起点は「儲ける」ではなかったようだ。

■映画、演劇で光った藤島ジュリーの手腕

そもそも、初期のJ StormMovieの自主製作映画は公開規模が大きくなく、『ピカ☆ンチ』や『ファンタスティポ』は東京グローブ座1館のみでの公開だった。

堂本剛と国分太一は『ファンタスティポ』に登場するキャラクター「トラジ・ハイジ」として同名の主題歌をリリース。売上40万枚、2005年の売上年間9位に入る大ヒットとなった。

1館でしか公開されない映画のキャラクターとして歌った楽曲が、これだけの大ヒットになるという、ジャニーズが関わるからこそ起こる異例の現象が起きていたのである。

そして、映画プロデューサーとしてだけではなく、演劇プロデューサーとしてもその手腕は光っていた。初期のJ StormMovieの単館上映の舞台となった東京グローブ座は、もともとシェイクスピア作品を中心に上演されていた劇場だったがこれを買収。映画の上映の後、ジュリープロデュースでジャニーズアーティストが主演する演劇を上演することが多くなっていく。

客席数は700程度とそう多くはなく、ジャニー喜多川の得意とするようなフライングやイリュージョン、大掛かりな仕掛けといったものはしづらいが、時に俳優の息遣いまで伝わってくるような、臨場感のあるストレートプレイ向きの劇場だ。

■“ジャニーズ興行保証”が発掘した才能

映画も演劇も、言うまでもなく、興行が重要になってくる。どちらも基本的にはチケット代が収入源であり、観客をどれだけ動員できるかによって、収益が大きく変動するからである。

その見通しがきちんと立っていない状態で作られる作品も多いため、ビジネス的な観点からは博打呼ばわりされることもあるほどだ。

だが、ジャニーズのアーティストが出演することにより、そこにある程度の保証がつくことになる。確実に足を運ぶファンのいるジャニーズアーティストの出演によって、一定数の観客動員の見込みがつくのである。稽古開始時点でチケットが完売しているというような、他の舞台からすれば羨ましいケースが多数存在しているのである。

これには、興行面だけではなく、作品の中身にも大きなメリットがある。一般的に、作品を大衆的にすればするほど、作家性は削られていく。多くの観客にウケようとするあまり、過激な表現は抑えられたり、強いメッセージ性が削られたりしていく傾向にある。

■未来の朝ドラ脚本家も生まれた

だが、ジャニーズアーティストが出演することによりその必要性はなくなっていく。興行面での保証があるからこそ、映画監督や劇作家は表現を尖らせ、遠慮することなくその才能を発揮できる。“ジャニーズ興行保証”の安心の土台の上に作品作りに専念できるのだ。

さらに、この“ジャニーズ興行保証”は、若手の尖った才能を発掘するのにも有効に機能した。特に2000年代後半から2010年代前半にかけてのグローブ座は、才能はあるがまだ世に出ていなかった若手の演出家を積極的に登用していた。

西田征史(にしだまさふみ)がそのひとりだ。『夢物語は終わらない 影と光の“ジャニーズ”論』(文藝春秋)の第2部の最初に紹介した『@ザ・グローブ・プロジェクト』で脚本・演出を担当、その後多くの作品に携わり、9年後には朝の連続テレビ小説『とと姉ちゃん』の脚本を担当するまでになる。

『バイプレイヤーズ』や『くれなずめ』など現在は多くの作品を監督する松居大悟(まついだいご)も「劇団ゴジゲン」を立ち上げて活動をしていたが、慶應義塾大学在学中に初の商業演劇をこの東京グローブ座で手掛けることとなった。彼らの才能が多くの人の目に触れ、そして経験としてもステップアップできる機会となっていたのである。

映画館の座席
写真=iStock.com/aerogondo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/aerogondo

■単なるファンムービーに終わらない

もちろん、作家性を存分に発揮することは、ファンの方を見ないということを意味しない。「一番身近なファンの方を喜ばせられず、本来関心のない人達の心を惹くのは無理。固定ファンの存在が映画製作へマイナスに働くことはあり得ないと思っています(※7)」と、ジュリーは語っている。事実、J StormMovieには単なるファンムービーに終わらず、ファンも、ファン以外の心も射抜く良質な作品が多く存在していた。

一方、演劇はどれだけ評価が高くても、もとから客席数が決まっていて、しかも売り切れになるケースが多いため、ファン以外に届きづらいという傾向があった。このジレンマのひとつの解決策として機能したのが『劇団演技者。』というテレビ番組である。

『劇団演技者。』は2002年から2006年にかけてフジテレビの深夜枠で放送されていた。小劇場で上演され評価が高かった戯曲を持ってきて、ジャニーズアーティストたちが主演。4話で1公演という設定で、ドラマ化するというよりも、戯曲をテレビで上演するような試みだ。

脚本を手掛けた劇作家は、三浦大輔(みうらだいすけ)に本谷有希子(もとやゆきこ)、前田司郎(まえだしろう)など当時“若手”だったものの、その後、映画や文学など他の業界でも活躍するようになる錚々たる面々。総合演出を手掛けた大根仁(おおねひとし)もその後『モテキ』で映画監督デビューし注目を集めるなど、ジャニーズ俳優と作り手とが共に挑戦し、成長していった枠でもある。小劇場を中心に活躍する舞台俳優たちの貴重なテレビ出演の場にもなっていた。

■「芸事と芸能界のハイブリッド」を確立した

これらのことを鑑みると、藤島ジュリー景子は、もちろんジャニーズ事務所所属のアーティストたちのことも育てていたが、業界全体を育てていたといっても過言ではないだろう。さらにそれは、観客を育てていたことにも繋がる。ジャニーズのアーティストを見るつもりで行ったら、その強いメッセージに衝撃を受けて帰ってきた、といった作品との出会いは多く存在する。

特に10代の女性が本来なら観に行かないような類の作品に、ジャニーズアーティストという接点があったからこそ触れられたことは、人生観の形成にも影響を与えたはずだ。

僕自身も、ジャニーズ主演作品として観に行った作品が面白いと、同じ監督や劇作家の別の作品をジャニーズが出ていなくても観に行く……といったようなことが多々あり、これらの作品がエンターテインメントへの入り口として機能していたようにも感じている。

インディーズの精神を持つ、尖った作品づくりをしているにもかかわらず、興行は保証されるという稀有な状況。時に、その舞台は、小規模の劇場から映画・テレビまで自在に大きさを変える。

つまり、インディーズとメジャーの間を自在に行き来することができるのが藤島ジュリー景子で、その姿は“芸事と芸能界のハイブリッド”といっていいだろう。

■国民的スター・嵐の誕生前夜

思えば“国民的スター”嵐も、2001年に、大手レコード会社との契約を終了し、ジェイ・ストームからインディーズ的な再出発を図っている。その第1弾となった『a DayinOurLife』は、ドラマ『木更津キャッツアイ』の主題歌でありながら、サビ以外がほぼ全編ラップ詞のHIPHOPで、ジャケットにメンバーの顔がプリントされていないコンセプチュアルなものであるという尖った姿勢のものだった。先の『ピカ☆ンチ』もこの時期だ。

今年、13年ぶりに松本潤が舞台に出演したことが話題となったが、2004年から2006年にかけては毎年舞台に出演していた。2004年には大野智と櫻井翔が『WEST SIDE STORY』というジャニーズ事務所の原点にあるようなミュージカルに出演。その後、それぞれZEEPや品川ステラボールという今では考えられない収容人数の少なさの会場でソロコンサートを開催したのは本書の前半で記述したとおりである。

相葉雅紀も2005年に東京グローブ座の舞台で主演。二宮和也も2004年・2005年と連続で舞台に出演し、そして2006年には『硫黄島からの手紙』が公開されている。

インディーズ的な出発を図った2000年代前半のこの時期、CDセールス的には低迷していたが、それぞれに芸事の研鑽を積んでいたのである。

■「この人、ジャニーズだったんだ!」

ファン以外がジャニーズの魅力に気付いたときに発せられる言葉に「この人、ジャニーズだったんだ!」というものがある。“ジャニーズアイドル”を色眼鏡で見ていた人たちが、何かの作品を通して彼らの仕事に触れ、その魅力に気付いたときに、意外だったという意味で出てくる言葉だ。この頃の嵐は、色々な場所で「この人、ジャニーズだったんだ!」を多発させていたと言っていいだろう。

“ジャニーズアイドル”とは縁遠かったカルチャー誌にも登場し、ポップカルチャーのひとつとしても注目が集まり始めたのがゼロ年代前半の嵐であり、それが“国民的スター”になる前夜だったのだ。

『黄色い涙』
犬童一心監督 『黄色い涙』

象徴的な作品がひとつある。『黄色い涙』は嵐のメンバー5人の主演映画だが、もともとは70年代に放送された市川森一脚本のドラマだったものを、当時『ジョゼと虎と魚たち』(2003年)や『メゾン・ド・ヒミコ』(2005年)といった単館系の映画で注目を集めていた犬童一心監督の希望で映画化したものだ。

音楽を手掛けたのは星野源がリーダーを務めていたバンド・SAKEROCKという、当時の通好みの座組みである。公開は2007年の4月だ。

2007年4月というのは、1月に放送された松本潤出演の『花より男子2』と7月に放送された二宮和也と櫻井翔主演の『山田太郎ものがたり』という2本のヒットドラマのちょうど間の時期である。

ちなみに、『花より男子』自体が、実は他の人気漫画原作のドラマの企画がなくなったことで急遽作られたという“偶然”の産物でもある。

■先に“芸事”があったからここまでブレイクした

これも本書で前述した通り、嵐のメンバーも自分たちのブレイクのきっかけを『花より男子』だと認識しているが、2007年はまさにブレイクの年で『黄色い涙』はその真っ只中での公開だった。だが、当時は全国4館のみでしか公開されていなかった。『黄色い涙』もJ StormMovieの作品だが、ジュリーの言うところの“インディーズ”ならではの公開規模だ。

霜田明寛『夢物語は終わらない 影と光の“ジャニーズ”論』(文藝春秋)
霜田明寛『夢物語は終わらない 影と光の“ジャニーズ”論』(文藝春秋)

撮影は2006年の6月で、企画自体はその前から動いていたことを考えると、これは、嵐のブレイクの、いい意味での歪みのような現象だったのではないだろうか。インディーズ精神で作られた映画が、嵐がブレイクした年に公開された。ブレイクした後の嵐では、この企画は成立しなかったことだろう。

“芸事”で研鑽を積んでいた彼らの実力と魅力に、徐々に気づいていく人を増やしていった2000年代の前半。そして、テレビドラマをきっかけに“芸能界”での活動も増え、その実力と魅力が広く世に知られることとなった。

準備をしていた者たちに、突如訪れた偶然。それが、嵐のブレイクに繋がっていったのだ。だが、それは彼らのためてきた実力を考えれば必然と言っていいものだったのかもしれない。

■彼らの中にはインディーズ精神が潜んでいた

公開から数年がたち、完全に嵐が国民的アイドルになったと言っていいタイミングで、『黄色い涙』が恵比寿ガーデンプレイスで再上映されたことがある。その日のガーデンプレイスは「本人が来るのか?」と勘違いするほどに、多くの嵐ファンで埋め尽くされていた。それは“インディーズ”として作られたものがメジャーに観られている風景だった。

藤島ジュリー景子はジャニーズというメジャーに見えるものを通して、嵐は自らが大きくなることによって、そのインディーズ精神を世に侵食させていたと言ってもいいだろう。子どもから大人まで多くの人を楽しませるメジャーの中に潜んでいたインディーズ精神。それは、可視化されていない範囲でも、多くの人の感性を変えていったはずである。

※1:「+act」2009 VOL.21
※2・3:「キネマ旬報」2007年4月下旬号
※4・5:「+act」2009 VOL.21
※6:「キネマ旬報」2007年4月下旬号
※7:「+act」2009 VOL.21

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霜田 明寛(しもだ・あきひろ)
作家/チェリー編集長
1985年生まれ・東京都出身。早稲田大学商学部在学中に執筆活動をはじめ、『面接で泣いていた落ちこぼれ就活生が半年でテレビの女子アナに内定した理由』(日経BP社)など3冊の就活本を出版。企業講演・大学での就活生向け講演にも多く登壇する。4作目の著書『ジャニーズは努力が9割』(新潮新書)は6刷・3万部突破のロングセラーとなり、『スッキリ』(日本テレビ系)・『ひるおび』(TBS系)等で紹介された。静岡放送SBSラジオ『IPPO』準レギュラーをはじめ、J-WAVE・RKBラジオなどラジオ出演多数。Voicy『シモダフルデイズ』は累計再生回数200万回・再生時間15万時間を突破している。

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(作家/チェリー編集長 霜田 明寛)

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