「妊婦の旅行はダメ」という医者は大問題…医師・岩田健太郎「科学的根拠が弱い健康中心主義の残念さ」
プレジデントオンライン / 2025年1月3日 18時15分
■妊婦の旅行に警鐘を鳴らす根拠とは
「マタ旅」という業界のジャーゴンがある。ご存じだろうか。
「マタ」とはマタニティーのこと。妊婦が旅することを、一部の産婦人科医などが「マタ旅」と呼んで問題視しているのである。
日本では、多くの産婦人科医がマタ旅に否定的な見解を持っている。「マタ旅」で検索すると、そういう見解をブログやSNSでたくさん見つけることができる。
妊婦は、妊娠しているがゆえの健康懸念を持っている。それが旅行の安全性に影響を与える。例えば、出産が近づいた妊婦の場合、脚の静脈に血栓ができやすくなる。そのリスクは妊娠していない人物のそれよりも高いのだ。
実際、産婦人科医の中には、妊婦が旅行中に健康を害し、その妊婦が受診したことでキモを冷やした経験を持つ者も少なくないようだ。千葉県にある「巨大テーマパーク」に行った妊婦に生じた健康問題をまとめた論文があり、妊婦の旅行に警鐘を鳴らす根拠となっている(*1)。
この論文では、2007年から2010年までに当該医療機関を受診した129人の妊婦をまとめている。その4割以上は切迫早産であり、15.5%で入院が必要となったが、8割以上の患者は軽症で入院を要しなかった。新生児集中治療室(NICU)での新生児ケアを要したケースが6例あり、1例で新生児死亡があったという。
*1 今野秀洋et al. 「妊娠中の旅行に関する危険性 : 東京近郊にある巨大テーマパークからの産科緊急受診に関する検討より」『日本周産期・新生児医学会雑誌』
Maternal transportation from a huge amusement park : Risk of travel during pregnancy for pregnant women and a regional maternal care system Journal of Japan Society of Perinatal and Neonatal Medicine 2012; 48:595–600.
■「医療中心主義」の問題性
昨今では医者・患者関係は対等なものと考えられ、昔に比べて医療界のパターナリズムの影響は激減している。とはいえ、現在でも日本では諸外国に比べてこのパターナリズムが強いと感じる。
正義感が強く、「人が好き」で、「正しい医療」にこだわる医者ほど、その陥穽(かんせい)に陥りがちで、「医学的に正しいから」と妊婦に旅行するな、などと言いがちだ。
そもそも、先述のようなデータを吟味する限り、その言説の科学的妥当性にも問題はあるのだが。それを差し置いても、患者の権利、患者の価値を一方的に医者側が規定するのは問題である。
健康や生命は貴重な価値だが、価値の全てではない。お金も、友情も、快楽も、そして旅行もいずれも大事な属性である。なにがなにより大事かは、個々人によって異なるだろう。医者が一方的に自分の価値観を押し付ける、「健康中心主義」あるいは「医療中心主義」、英語で言えばメディカリゼーションは、一見、正しそうに見えるだけに問題が多い。
■移動に伴う健康問題を扱う渡航医学
ときに、読者諸兄は「トラベル・メディスン」、あるいは「渡航医学」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
私は感染症専門医であるが、同時にトラベル・メディスンの専門家でもある。この領域の「バイブル」といえるジェイ・キーストンの『キーストンのトラベル・メディシン』(2014)など、複数の専門書を訳出したこともある。トラベル・メディスンは、植民地をたくさん持っていた欧州諸国や、移民の多いカナダなどで発展してきた。
「トラベル」=旅行とは限らない。それは「赴任」だったり「留学」だったり、「移住」だったり、あるいは「亡命や避難」だったりする。奴隷貿易時代の奴隷の強制移住も一種の「トラベル」だ。
そういうとき、海外の感染症を当地に持ち込まれたり、あるいは渡航先で感染症に罹患(りかん)するリスクがある。これを防ぐために、適切な隔離政策や、ワクチン接種などが行われてきた。海外には、日本に存在しない感染症が多々存在している。その中には、予防接種で予防可能だったり、予防薬を飲むことで感染、発症を防ぐことが可能なものもある。前者であれば狂犬病や黄熱病、後者であればマラリアなどが代表例だ。
このように、人の移動に伴う健康問題を取り扱うために、トラベル・メディスンは発達してきた。その多くは感染症だったため、感染症の専門家がトラベル・メディスンも担当することは多い。
■トラベル・メディスンの専門家の役割
ただし、感染症だけが「トラベル」に伴う問題なのではない。
例えば、ジェット・ラグ(いわゆる時差ボケ)、乗り物酔いなども守備範囲だ。日本より治安が良い国はまれなので、渡航時の犯罪や暴力(性暴力含む)、テロリズム、戦争なども対応、準備が必要なこともある。現地での活動次第では高山病の予防や治療、潜水病の予防や治療、紫外線の強い場所なら紫外線防御なども守備範囲だ。
安全に飛行機に乗れない人もいる。酸素投与が必要な呼吸器疾患がある場合は酸素ボンベを積み込むが、何時間の飛行でいくつのボンベが必要かは、呼吸器内科専門医でも知らない人が多いだろう。
われわれは呼吸器疾患の非専門家だから、どのくらいの酸素が当該患者に必要かを見積もるのは、呼吸器内科専門医だ。そこから、機上での酸素の減少度合いを確認し、酸素ボンベの使用方法を確認するのがトラベル・メディスンの専門家なのだ。
■「ほとんどの妊婦は安全に旅行できる」
そこで、妊婦である。例えば、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)の渡航・妊婦の項を見ると、「妊婦は特別な配慮が必要だが、ちゃんと準備すればほとんどの妊婦は安全に旅行できる」とある(*2)。つまり、先程の「マタ旅」議論とはずいぶんと口調が異なるのだ。
なぜ、彼我(ひが)でこのような考え方の違いが生じるのか。
妊娠中に飛行機に乗った人と、乗らなかった人を比較した研究が実際にあるが、妊婦と新生児の予後には両者に重大な違いは生じなかった(*3)。
そこで、先に引用した千葉県の論文である。まず、大事なのは比較である。テーマパークに行った妊婦で受診した妊婦は、「テーマパークに行ったがゆえの」受診かどうかは、比較してみないと分からない。上記のように比較研究では意味のある差は見られず、千葉の論文の根拠は弱い。
また、「分母」も大事である。テーマパークに行ったが受診しなかった妊婦は何人いただろうか。受診率は何%であったのか。そこを検討しないと、「妊婦がテーマパークに行くことの意味」は分からないだろう。
*2 Pregnant Travelers CDC Yellow Book 2024
*3 Shalev Ram H, Ram S, Miller N, Rosental YS, Chodick G. Air travel during pregnancy and the risk of adverse pregnancy outcomes as gestational age and weight at birth: A retrospective study among 284,069 women in Israel between the years 2000 to 2016. PLoS One 2020; 15:e0228639.
■論拠に必要な「分母」と「比較」の考え方
われわれ臨床医は、重症患者という「分子」を見てしまうがゆえに、その患者の行動を危険視し、ときに全否定してしまう。バイク事故をよく見ている救急医のなかには「バイクに乗るなんて非常識だ」とバイクを全否定する人がいる。われわれも、そういう多発外傷患者が感染症を合併することをよく見ているので、その心情はよく理解できる。
しかし、バイク運転をする人の大多数は事故を起こしていないし、多発外傷にも至っていない。「現場を見ているがゆえの」バイアスである。「現場の肌感覚」はときに、理性的、合理的な判断を誤らせかねない。
多くの産婦人科医は、HPVワクチン(子宮頸がんワクチン)の接種後に「さまざまな症状」を訴えた方々の問題を、このように理性的に検討したはずだ。症状がある人だけではなく、接種者全体という「分母」の考え方が大事、そして「比較」が大事。当然「マタ旅」問題についても、同じ原則を適用するべきだ。
■「医局」に代表される縦割り習慣の罪
さて、妊婦の渡航に関する安全性の検証研究や、「安全性を高めるための」研究、教科書的な記載やCDCのガイダンスなど、文献は多々存在し、妊婦の安全な旅行に寄与している。
なぜ、日本の産婦人科医はそういうデータや文献を参照しないのか。
それは、産婦人科医のほとんどがトラベル・メディスンという専門領域が存在することを知らなかったためではないか。
産婦人科医の無知を非難しているのではない。むしろ、われわれ日本のトラベル・メディスン専門家の、この問題に対するコミットメントが足りなかったのだと大いに反省している。
そういえば、日本の高名なトラベル・メディスンの教科書には「妊婦」の項目が乏しい。海外の教科書に比べるとほとんど記載がない。こうしたトラベル・メディスン教科書の著者はちゃんとした専門家だから、「気づかなかった」とは考えにくい。「マタ旅」が日本の産婦人科医から非難されている現状を鑑み、遠慮したのではないか。そんな気がしないでもない。
こうした他領域同士のクロストークがないこと、これも日本医療アルアルの問題点だ。
「医局」に代表される縦割りの習慣がここにある。妊婦のことは産婦人科の専権事項、外野は口を出すな、という雰囲気はなかったか。トラベル・メディスン専門家の過度な遠慮、忖度(そんたく)がそこにはなかったか。年頭に大いに考えてみたいものである。
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神戸大学大学院医学研究科教授
1971年島根県生まれ。島根医科大学(現・島根大学)卒業。ニューヨーク、北京で医療勤務後、2004年帰国。08年より神戸大学。著書に『新型コロナウイルスの真実』(ベスト新書)、『コロナと生きる』『リスクを生きる』(共著/共に朝日新書)、『ワクチンを学び直す』(光文社新書)など多数。
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(神戸大学大学院医学研究科教授 岩田 健太郎)
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