わが子が分別のつかない「鬼」になる…スポーツ指導者の暴力・暴言で"壊れた子供たち"の悲惨な結末
プレジデントオンライン / 2024年12月25日 16時15分
■「理不尽な指導」に悩む子を持つ親からの相談
スポーツに励む子供を持つ親から、指導者の指導方法と、それに困惑する子供にどう声掛けをすればいいか相談を持ちかけられることがしばしばある。
先頃、ラグビーをしている友人家族から、タックルへの恐怖心が拭えない息子にどう接すればよいかと訊ねられた。指導者は、タックルには勇気が必要だから「とにかくいけ!」としか言わない。試合では脳震盪で退場する子供が後を絶たず、救急車を呼ぶことがままにあるのだとか。不安を募らせるばかりの息子はどんどん表情が曇り、その様子が心配でならないという。
また別の親からは、サッカーをしている小学生の息子が指導者の暴言に悩んでいると相談された。息子はミスに対してボロカスに詰められるなど、心ない言葉に傷ついており、そんな指導から逃れたい一方、ずっと一緒にプレーしてきたチームメイトとは離れたくなく、またサッカーが大好きだという気持ちもあるからと葛藤を抱えているようだ。
親はそんな息子に寄り添わなければと思う反面、自身が野球経験者で、ときに暴力をも伴う指導を受けてきたから、少しくらいの暴言ならば致し方ないとも感じていて、悩んでおられた。
いずれの悩みも指導者の「ぶっきらぼうさ」に由来している。
こうした相談を受けるたびに、子供を取り巻くスポーツの課題は根深いと感じる。根性論的な指導であれ、暴言であれ、「ぶっきらぼうな指導」がまかり通る現状は可及的速やかに改善しなければと思わされる。
なぜ「ぶっきらぼうな指導」がなくならないのか。その背景には、たとえ理不尽さを伴ったとしても「スポーツには厳しさが必要である」という信憑がある。
■スポーツ現場でいまなお続く「指導」という名の暴力
ご存じの方もいるだろうが、日本体育協会(現・日本スポーツ協会)などの5団体が、2013年に「スポーツ界における暴力行為根絶宣言」をした。以降、暴力行為防止への啓発がさかんに行われている。にもかかわらず、今年の7月には思わず目を覆いたくなるほどの凄惨な事件が起きた。
滋賀県近江八幡市を拠点に活動する野球チームの40代の指導者が、12歳の中学生の顔を何度も殴り、顔や胸を足で踏みつけた。別の中学生にも包丁を突きつけて「お前ほんまに刺すぞ」と脅迫したなどとして、逮捕・起訴されたのである。殴られた中学生の顔は変形するほどに腫れ上がり、頬にはミミズ腫れができていたという(NHK大津放送局 滋賀WEBノート「野球指導者が子供に暴行 スポーツでの暴力なぜなくならない?」 2024年9月5日)。
■なぜスポーツの世界で暴力は許容されるのか
大人が中学生に暴力を振るい、包丁を突きつけて脅す。これがスポーツ現場でなければ、周りにいる人たちは直ちに止めに入るだろうし、すぐに警察へ通報するはずである。なのにそうしない。なぜそれをしない、否、できないのか。
それは、止めに入る、あるいは通報するのを躊躇させる特殊な空気が、スポーツ現場には流れているからだ。スポーツにおける上達には「それなりの厳しさ」が必要であるという暗黙的な共通理解が、二の足を踏ませるのである。
事実、この事件では暴力行為を見ていた周りの大人は誰も助けなかった。社会常識に照らせば断じて許されない暴力行為が、スポーツ現場ではスルーされる。これほど壮絶な暴力ですらそうなのだから、暴言となれば相当数の事例が見過ごされているに違いない。根性論的な指導もまたそうだろう。
暴力行為根絶宣言から10年以上が経ったいまでも、ここまで凄惨な暴力事件が起きる。これは、「スポーツには厳しさが必要である」という信憑がしつこくまとわりついている証左である。
厳しさを乗り越えてこそうまくなるのだから、褒められるよりも叱られる指導のほうがいい。厳しくさえあれば論理的でなくともかまわない。むしろ論理的でないほうが、理不尽という厳しさが醸成されるから好ましい。そもそも社会は理不尽さで溢れ返っているのだから、その予行演習ができてよい――。おそらくほとんどのスポーツ経験者は、無自覚にそう信じている。
だが、スポーツ経験が豊富でない親はそうではない。理不尽を伴うほどの厳しささえも礼賛するスポーツ界に特有なこの空気に困惑している。耳や目を疑う暴言、暴力に遭遇しても、そもそもスポーツとはそういうものなのかもしれないとつい遠慮してしまう。参照する過去がないだけに、思わず戸惑うのは必然である。
今回は、こうした悩みを抱える親に向けて書いてみたい。スポーツ経験者は自らの経験を再解釈するために、未経験者にはスポーツ指導の本質を理解するために参考にしていただければと思う。
■「厳しい指導が必要」は一理ある
繰り返すが、スポーツ現場で暴力行為がなくならない根底には、「スポーツでの上達には厳しさが必要だ」という信憑がある。上達に不可欠な厳しさを醸成する手段として、暴力行為は機能する。そう私たちは無意識的に信じている。社会通念では許されないはずの暴力行為が、スポーツ現場でいともたやすく見過ごされるのは、それが上達や成長に資すると信じられているからである。
この信憑には、実は一理ある。
なにをしても怒られない、いわばラクラクこなせる練習よりも、至らない点を事細かに指摘される厳しい練習のほうが上達を促す。手放しですべてを肯定する生ぬるい環境は子供を甘やかすことにつながり、競技力の向上にも心身の成長にも資することはない。生ぬるさよりも厳しさこそが人を成長させるのは、確かにその通りである。
だから子供にたくましく育ってほしいと願う親は、無意識的に厳しさを求める。褒め殺されるよりも、困難を乗り越えられる力を身に付けてほしい。少々のことではへこたれないタフさを、スポーツを通して身に付けてもらいたい――。
やがて自分の手元から離れゆく子供の自立を促すのは親の役割で、だから生ぬるさよりも厳しさを求めるのは、至って自然な考え方である。
■理不尽な指導では人生を生き抜く「タフさ」は身に付かない
だが、ここには細心の注意を払わなければならない。暴力行為も厭わない厳しさによって身に付く「タフさ」とは、いったいどのようなものなのかということである。
結論から言えば、暴力行為が伴うほどの理不尽な指導では、人生をたくましく生き抜くために必要な本当のタフさは身に付かない。
暴言や暴力行為が伴う指導は子供に恐れを抱かせる。この恐れという感情を巧みに利用し、半ば強制的に意欲を醸成する指導法である。うまくできなければ怒られるから仕方なく練習をするという仕方で、子供たちを焚きつける方法だ。
この方法は、いつも何かに急かされている状態に子供を縛り付ける。いわば過緊張の状態に置くということである。ここでは「冷静さ」が奪われるとともに、事の善しあしを指導者の価値観に委ねざるを得ない。知識や経験を駆使して自ら思考を繰り返して導き出すよりも、指導者の考えに沿っているか否かが重要視され、たとえ逆立ちしたって納得できない考えだとしても、無理やりにのみ込まなければならない。
こうした状況に置かれれば、人はフリーズする。どうしたって納得できないことをのみ込むためには、思考を停止させる必要が生じる。自ら考えることをやめて他者の価値観をそのまま受け入れる。これは自分を騙すことであり、内なる声を無視して自らを宥めすかすこの心的経験は、自分ではない何者かになることを受け入れることにほかならない。
■自分の感情を殺す「鬼」に育ってしまう
内なる声、つまり心身の感受性を鈍麻させた先に待ち受けるのは人間性を失った「鬼」であると、思想家の内田樹氏は指摘している。
理不尽な状況に耐え忍ぶことができるという点で、「鬼」はタフである。だが、この「鬼」は冷静に思考することができない。納得できなさをのみ込むため意図的に頭に血を上らせ、兎にも角にも現状を肯定しようと試みる。善悪や正邪の判断を、第三者の価値観に委ねるこの態度は、人生をたくましく生きてゆくために必要なタフさとはいえない。
5年前の2019年、夏の甲子園大会(2017年)で全国制覇をした花咲徳栄高校元主将の男が、強盗致傷と住居侵入、窃盗の容疑で逮捕、起訴され、懲役5年の実刑判決が下った。栄光を手にしたわずか2年後に「強盗犯」になったわけである。
記事内でスポーツジャーナリストの谷口源太郎氏は、次のように正鵠を射たコメントを残している。「名門校のキャプテンというのは、勝つことにこだわることがすべてで、世間のリーダー像とは別物。人間的な成熟とは関係ないんです。彼(記事内では実名)は自分の立場や影響力を自覚していなかったのでしょう(……)」。
「世間のリーダー像とは別物」で「人間的な成熟とは関係」がなく、自らの「立場や影響力」に無自覚であったという指摘は、まさに彼が「鬼」だったことを物語っている。
■スポーツ指導が抱える「構造的な問題」
数年前になるが、おもに青少年の非行を扱う弁護士から、窃盗や薬物に手を染めるなどの犯罪行為に走る子供にはスポーツ推薦で進学した者が多いと聞いた。レギュラーになれないなどのつまずきがきっかけで部活動を辞め、学校も休みがちになって、やがて非行に走るケースが後を絶たないという。この凋落ぶりがどうしても解せないのだと、眦(まなじり)を決して話されていた。
先の元主将も、非行に走る青少年も、ともに自分を騙すことで抱え込んだ矛盾が心を荒ませ、それが暴発して他者に向けられたといえる。これは、心身の成長を遂げつつある時期に、冷静に思考することを許されず第三者に判断を委ねて現状を肯定し続けてきたプロセスの帰結である。彼、彼女たち自身にまったく問題がなかったとはいえないにしても、「鬼」を生み出すスポーツ指導のあり方にこそ原因がある。つまり、構造的な問題である。
人として身に付けるべき本来のタフさとは、この「鬼」とは似て非なるものである。
■暴力を是とするスポーツ環境の落とし穴
困難な状況に陥っても現状を冷静に分析し、ありったけの知識と経験を振り絞り、思考を重ねることによって解決策を探る。たっぷり時間をかけて納得に至るまでの理路を自前で構築する。これができる人を形容して「胆力がある」という。スポーツだけでなく人生の荒波を生き抜くために不可欠なのは、この「胆力」である。
暴力行為が伴うほどの理不尽な指導の下では、この「胆力」が育たない。どれだけ自分で考えても頭ごなしに否定されるなかでは、「鬼」のようなタフさは身に付いても「胆力」は身に付かない。
ここがポイントである。「鬼」も「胆力のある人」も、ともに少々の困難にはへこたれないタフさを備えているが、その内実は180度異なるのである。
過度な上下関係も含み、暴力的な指導が醸成する厳しさを是とするスポーツ環境には、ここに大きな落とし穴がある。
■人生という長いスパンでスポーツの効果を見てほしい
スポーツに励む子供を持つ親に私が言いたいのは、子供を「鬼」にしてしまっていいのかということである。
全国大会の常連である強豪校などでは、厳しい指導の下で実績を上げていると反論する向きもあろう。結果が伴っている以上、この言い分をすんなりとは受け入れられないと思う人もいるかもしれない。
だが、先の元主将を挙げるまでもなく強豪校出身の選手の何人が次のステージで活躍しているかは、甚だ疑わしい。小学校から中学校、中学から高校、高校から大学、大学から社会人へと進むなかで継続的に競技を続け、競技能力の向上と人間的な成長を続けられる選手は、どれほどいるだろう。
そもそもトッププレーヤーになる人はどんな環境であっても育つ。もともとの素質の高さに加え、指導者の「特別扱い」の下で理不尽な指導を受けるという憂き目に遭わずに済むからだ。あるいは、そうした指導者がいるチームからは早々に立ち去っていると思われる。裏を返せばトッププレーヤーは、「ぶっきらぼうな指導」の悪影響を最小限にとどめられたからこそ、その潜在能力が開花したといっていい。
つまり暴力行為を伴う指導は、おもにミスをしたり意欲が低いと見受けられる子供に向けて為される。競技力が飛び抜け、素直な性格で実直に練習に取り組む子供に向けられることはまずない。だからスポーツに励む大半の子供が苦しんでいると考えて差し支えない。
これを踏まえて、悩める親に私が提案したいのは、全国大会に出場するなど短期的な結果のみでその指導が適切かどうかを判断するのではなく、人生という長いスパンでその効果をみることである。子供が次のステージに進んだとき、あるいは引退後のセカンドキャリアを見据えて、その指導の教育的効果を考えてもらいたい。
■本当に夢中でスポーツを楽しんでいるか
さらにもう一つ提案したいのが、厳しいかそうでないかではなく、夢中になれているかどうかをみることだ。
そのスポーツに子供がどれだけ没頭しているかに注目してほしい。休日であっても近くの公園に行って自主的に練習に取り組む、一緒にプレーしようと声をかけてくる、あるいは家の中でもずっとボールを離さないとか、隙あらばどうにかしてプレーしようとするといった態度を観察するのである。
もちろんこうした状態が途切れることもあって、思い通りにプレーができないとか、以前できていたのにうまくできなくなったとか、あるいは仲間と口喧嘩をして練習に足が向かないとか、意欲が減退する時期は訪れる。こうしたスランプは、心身の成長がめざましい子供には必然的に、また定期的に訪れる。うまくプレーできないという悩みは、うまくプレーしてやろうという意図があるから生まれるわけで、つまりは夢中になれていることの証左である。
この「うまくプレーしてやろう」という意図には、怒られるからうまくプレーしなければならないときの焦燥感や悲壮感がない。真剣に取り組むときに訪れるつまずきを乗り越えようとするときに感じる「結果的な厳しさ」が、「胆力」を育むのである。
■「鬼になるまい」と抵抗している子供の特徴
夢中になっているかどうかは、子供の表情に表れる。目も虚ろで、顔がこわばるなど深刻さが読み取れるならば、それは子供自身が「鬼」になることを全身で拒否しているとみていい。
そのときは、チームメイトの親同士で話をして連帯を図るか、然るべき窓口に相談して指導者およびチームに物申すべきで、もし物申しても話が噛み合わないのであれば辞めるという選択も視野に入れるべきである。
これまで切磋琢磨してきたチームメイトとともに好きな競技を続けたいという子供の気持ちも、それを重んじたいという親の気持ちもよくわかる。だから「辞める」という選択が、そう容易ではないことは十分に承知している。それでもなお辞めた方がいいと提言するのは、かつて好きで始めた競技を見るのも嫌なほどに嫌悪してしまう事態は、何を差し置いても避けなければならないと思うからである。
好きだったスポーツが嫌いになるというこの嫌悪感を、子供が将来にわたって抱き続けることでもたらされる辛さは筆舌に尽くし難いと考えるからだ。そうならないためにも、「深刻」ではなく「真剣」に取り組めているかどうかを見定めることが大切になる。
■大人のパラダイムシフトが不可欠
ぶっきらぼうで、ときに暴力行為を伴う指導がなくならないスポーツ界は、いま、過渡期である。厳しい指導がなされて然るべきだという信憑を完全に払拭するまでには、まだまだ時間がかかるだろう。こうした移行期にスポーツをする子供たちの心身を守るために、すぐそばで彼、彼女らを見守る親にはこの2つの視点を持って接してほしい。
ぶっきらぼうな指導を駆逐し、子供が夢中になれる環境を作るためには、スポーツに関わる大人のパラダイムシフトが必要である。人を「鬼」にするのがスポーツではない。たくましく人生を生き抜く力、すなわち「胆力」を育むためにスポーツはある。この考え方が広く浸透すれば、日本のスポーツ界は健全化に向かうだろう。
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神戸親和大教授
1975年、大阪府生まれ。専門はスポーツ教育学、身体論。元ラグビー日本代表。現在は、京都新聞、みんなのミシマガジンにてコラムを連載し、WOWOWで欧州6カ国対抗(シックス・ネーションズ)の解説者を務める。著書・監修に『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)、『ぼくらの身体修行論』(朝日文庫)、『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)、『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)がある。
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(神戸親和大教授 平尾 剛)
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