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NHK大河でどこまで描写できるか…失禁と下痢が止まらず、娘・彰子も近づけなかった藤原道長の"凄絶な最期"【2024下半期BEST5】

プレジデントオンライン / 2024年12月28日 7時15分

出所=『道長ものがたり』

2024年下半期(7月~12月)、プレジデントオンラインで反響の大きかった人気記事ベスト5をお届けします。大河ドラマ部門の第4位は――。

▼第1位 藤原道長憎しのあまり、暴走し自滅した…ギリギリまで道長を追い詰めた定子の兄・伊周が迎えたあっけない最期
▼第2位 NHK大河はこの史実をどう描くのか…まだ幼い「定子の息子」に対して藤原道長が行ったひどすぎる仕打ち
▼第3位 NHK大河ドラマを信じてはいけない…紫式部の娘・賢子が異例の大出世を遂げた本当の理由
▼第4位 NHK大河でどこまで描写できるか…失禁と下痢が止まらず、娘・彰子も近づけなかった藤原道長の凄絶な最期
▼第5位 藤原道長にいいように利用され、最後は天皇の座を奪われた…2人の中宮を持った一条天皇が迎えた悲しい最期

藤原道長には、正室・倫子と側室・明子の間に計6人の娘がいたが、晩年に相次いで3人の娘を失うことになる。悲しみに暮れる中、自らが迎えた死も凄絶なものだった。平安文学研究者・山本淳子さんの著書『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか――』(朝日新聞出版)より、一部を紹介する――。

■1人の娘が死に、1人の娘が出産間際

道長の明子腹の長女・寛子が息を引き取ったのは、万寿2(1025)年7月9日の暁方、寅の刻(午前4時前後)のことだった(『小右記』同日)。

道長は、寛子の死を看取らなかった。訴えを聞き、落飾させた後は、見捨てるようにそそくさと土御門殿に帰ったのだ。さすがにまんじりともできず、暁方に寛子臨終の報せを聞いた時は胸が張り裂けそうだった。だが、こちらはまたこちらで倫子腹の末娘・嬉子(きし)が出産を前に里帰り中だった。

嬉子は寛仁2(1018)年に威子から尚侍を引き継ぎ、治安元(1021)年、15歳の時に、2歳年下の春宮・敦良親王の妃となっていた【図表1】。

今回は初めての懐妊で、土御門殿には春宮も行啓して見舞うなどしていた(『左経記』万寿2〈1025〉年6月25日)。

■妊婦を襲った「赤裳瘡」と陣痛の苦しみ

だが、頃悪(あ)しく「赤裳瘡(あかもがさ)」と呼ばれた麻疹が流行し、嬉子も感染してしまった(『小右記』万寿2年7月27日・29日)。時々物の怪の発作が出ていると聞いた小一条院は、寛子の病の折、藤原顕光の怨霊が言った「尚侍様の産室に必ずや参って、お産を拝見しましょうぞ」という言葉が脳裏に浮かび、ぞっとしたという(『栄花物語』巻二十五)。

【図表2】小一条院と二人の女御(出所=『道長ものがたり』)
出所=『道長ものがたり』

『小右記』によれば、嬉子に赤裳瘡の発疹が出たのが7月29日、お産の最初の兆候があったのが8月1日。病から回復して出産という大事を迎えるほどに体調が整っていたとは考えにくい。しかも嬉子は、難産だった。

赤裳瘡と陣痛の二つの苦しみは、当時の人々の目には物の怪どもの悪事と映った。案の定、顕光と延子の怨霊が立て続けに現れて大声を上げた。嬉子の苦痛の声を、周囲は彼らのおぞましい声と聞いたのである。

8月3日、嬉子は男児を産んだ。親仁親王、のちの後冷泉天皇(1025〜68)である。邸内は歓喜に沸き、道長も胸をなでおろした。翌日には産湯の儀式「御湯殿の儀」が行われ、嬉子はその様子が見たいと、あどけない子供のように御帳(みちょう)台から出て立って眺めた。だがそれが元気な嬉子の最期の姿になった。

■「父に褒めてほしい」の一心で出産したが…

若宮の御湯殿果てて、御前にそそくり臥せ奉りたるを、殿、諸心(もろごころ)に見奉らせ給ふに、督(かむ)の殿こそ、「かくて侍るをば、いかが思す」と聞こえさせ給へば、殿、「いとめでたしとこそ見奉れ」と聞こえさせ給へば、「されど、それよな、え堪ふまじき心地のし侍るが、いとわりなきぞ」と聞こえさせ給へば、「あなゆゆし。かくなのたまはせそ」と申させ給ふ。

(御湯殿の儀が終わり、若宮は嬉子様の御前に急いで運ばれ寝かされる。道長殿は嬉子様と同じ思いで宮様を見守られた。その時、嬉子様が「この次第を、お父様はいかがお思いになりますか」とお聞きになるので、殿は「本当に素晴らしいと拝見しますよ」とお答えになった。すると嬉子様は「でもね、それがね、私、ひどく気分が悪うございますの。我慢できません」と申される。「なんと、縁起でもない。そんなことをおっしゃるでない」。殿はそう声を上げられた)

(『栄花物語』巻二十六)

男子を産んで父に褒めてほしい。その思い一つで何とか出産をしおおせた。嬉子は健気な娘だった。

■道長を恨んでいた顕光と娘・延子の呪い?

だが赤裳瘡と出産が続く間、嬉子は全く食事をとらず、体は衰弱しきっていた。翌日の5日には、嬉子は頻(しき)りに生あくびをするようになり、読経を再開するとまたしても物の怪が現れた。

顕光と延子の怨霊が、忌まわしい言葉を吐き続ける。僧たちは声を惜しまず経を読み、折からの雨も打ち付け、邸内は騒然となった。道長は泣きながら嬉子の体を抱いて励まし、嬉子は最初こそか細い声で答えていたが、やがてそれも弱まり、夕刻には蚊の鳴くほどの声になった。

紫式部日記絵巻(模本) 東京国立博物館(画=井芹一二模/ PD-Japan/Wikimedia Commons)
紫式部日記絵巻(模本) 東京国立博物館(画=井芹一二模/ PD-Japan/Wikimedia Commons)
そこら満ちたる僧俗、上下、知るも知らぬもなく、願(ぐわん)を立て額(ぬか)をつきののしる。えもいはぬものまで涙を流して、「観音(くわんおむ)」と申さぬなく、ただ額に手をあてて起居礼拝し奉らぬなし。今は加持の声も聞こえず、御読経の声も聞こえず、「観音」とのみ申しののしる。

(邸内いっぱいの人々は、僧俗も貴賤も親疎もなく、ただ嬉子様の命を願い、ひれ伏して声を上げる。下々までが涙を流して「観音」と申さない者はなく、ただ額に手をあてて立ち、座り、礼拝する。今は加持の声も聞こえず、御読経の声も聞こえず、「観音」とのみ叫び続ける)(同前)

■19歳の母の早すぎる死を皆が悼んだ

観音――観世音菩薩は、子宝や縁結びなど現世の望みを叶えてくれるとされる菩薩だが、その信仰は、衆生(しゅじょう)が救いを求めると菩薩がすぐさま救済してくれるとある『法華経』の教えに基づいていた。死を覚悟した者を極楽に迎え取る阿弥陀如来ではない、〈今・ここ〉の苦しみを救済してくれる慈悲の仏である。

いま、嬉子の命が絶えようとしているこの場で、人々が自然発生的にすがったのは、この観音菩薩だった。19歳の、母になったばかりの一人の女性である嬉子を救う仏は、道長が贅を尽くした法成寺の阿弥陀でも大日如来でもなかった。

嬉子はそのまま息を引き取った。『左経記』(同日)には「天下の道俗・男女、首を挙げて歎息(たんそく)すると云々(天下の僧俗男女が皆、嘆き悲しんだ)」とある。嬉子の悲劇は時代の記憶となったのだった。

■信仰が道長を救ってくれることはなかった

道長は嬉子のことが諦めきれず、死の当日の夜には陰陽師に命じて「魂呼(たまよばい)」の術まで行わせた。亡骸のある土御門殿の東の対屋に嬉子の衣を持って上り、呪文を唱えながら北に向かって三度招くのだという(『左経記』同月23日)。だが娘が目を覚ますことはなかった。

葬送の儀が決まり、嬉子の遺体はいったん、四町ほど南の法興院に安置してから荼毘に付すこととなった。入棺の時には、冷たくなってしまった嬉子の肌をさすり、道長と倫子は「我を捨ててどこへ、どこへ」と泣き崩れた。

棺を運ぶ際には道長は足元がおぼつかず、頼通や教通に助けられてやっと歩くほどだった。寺に着けば棺を置いた車にとりすがり、一晩中一睡もしないで、泣きながら何事かをつぶやき続けた(『栄花物語』巻二十六)。

実資は、道長が仏法を怨んでいるとの噂を聞いた。大財をつぎ込んだ信仰が何の足しにもならなかったという「裏切られ感」からだろうか。また実資は、道長一家が、顕光と延子に加え小一条院の母で三月に亡くなった娍子(せいし)も怨霊となったと見て、怖れおののいているとも聞いた。

人々は「もっともだ」と感じたという。道長が北山あたりへの隠棲を思い立ったとか、嬉子の蘇生を夢に見たとかの噂も頻りだった(『小右記』同月8日・9日)。末娘を喪った道長の激しい悲嘆は真実だった。

■初めて自らの無力を思い知り、諦めの境地に

『栄花物語』は、この時こそ道長は「まことの道心」を起こしたという。ならば先の寛仁3(1019)年の出家は真の出家ではなかったのだ。あの時、道長は重病に苦しみながらも「もう命は惜しくない」と満足げに人生を振り返った。

だが真の出家とは、光源氏がそうであったように、自分の無力を思い知り諦めの境地に達することによって、苦悩も愛執も含めたすべての煩悩を断ち、仏にすがることである。ただ光源氏にさえ、悟りの道へ踏み出すためには紫上の死後、1年間もの悲嘆の時間が必要だった。昨日今日、嬉子を亡くしたばかりの道長に可能なはずがない。

嬉子の葬送は、8月15日に行われた。折しも中秋の名月が空にかかり、人々は「かぐや姫が昇天した月もかくや」と見て、嬉子を偲んだという。帰宅して呆けたように肩を落としている道長を、延暦寺の座主・院源は諭した。世とはこんなものと悟れというのである。

■「娘がただ恋しい、娘に会いたいのだ」

「この世に、御幸ひも御心掟(こころおきて)も、殿の御やうに、思しめし掟(おき)つることに事たがはせ給はず、あひかなはせ給ふ人はおはしましなんや。この三十年のほどはさらに思しむすぼほるることなくて過ぐさせ給ひつるに、いかでかかることまじらせ給はざらん。この娑婆世界は、苦楽ともなる所とは知らせ給ひつらんものを」

(「この世に、殿のように御幸運も御意向も思いのままの人などいらっしゃるものですか。権力を手中にされた30年前からこのかた、何一つ悩み事もなくやってこられて、時にはこうした悲しみの一つ二つ、どうして訪れないことがありましょうぞ。娑婆世界が苦楽共存の所とは、とうにご存じでしょうに」)

(『栄花物語』巻二十六)

道長をふがいないと叱咤激励する院源に、道長は「そんな理屈など全部分かっている、だが娘がただ恋しい、娘に会いたいのだ」と駄々をこね、水晶のような大粒の涙をぽろぽろとこぼした。これには院源ももらい泣きしたという。

〈幸ひ〉の人は、不運に慣れていなかった。〈幸ひ〉であったがゆえに、悲しみの打撃は大きかった。幸運の果ての不幸の沼に、道長は足を取られた。

■妹・嬉子が姉・妍子を祟る最悪の構図

道長は、その後もなお娘の死に遭わなくてはならなかった。倫子腹次女で皇太后の妍子が、長患いの末、万寿4(1027)年9月14日、34歳で崩御したのである(『日本紀略』同日)。

『小右記』には3月に始まる妍子の病の情報がそのつど記されているが、怨霊についての記述は少なく、また詳しくない。だが『栄花物語』(巻二十九)は、やはり顕光と延子、加えて今度は嬉子までが妍子に憑いたという。

嬉子の死後、その夫だった春宮・敦良親王と、妍子の娘の禎子(ていし)内親王が結婚したからである【図表1・再掲】。

【図表】嬉子と妍子(続柄は倫子からの出生順)
出所=『道長ものがたり』

道長家にとって天皇家との婚姻は当然の政策である。父の三条院を亡くし道長家が頼りである禎子内親王を春宮に入れることは、最善の策だった。だが、それが嬉子の怒りを買ったというのである。道長が長年、良しと信じてやってきた方法が、亡き娘をして生きた娘に祟らせることになった。嬉子が妍子を取り殺すとすれば、その原因は道長にある。

最期の時、妍子は道長を呼び、虫の息で髪を切る仕草をした。道長が尼になるのかと聞くとただうなずき、受戒の式では声を絞って「阿弥陀仏」と唱えた。即日、妍子がこと切れると、道長は「嘘だろう? これ、これ」と亡骸の御衣(おんぞ)を何度も引きのけては起こそうとし「仏は酷(むご)い。私を今まで生かして、こんな目に遭わせるとは」と呪ったという(『栄花物語』巻二十九)。結局、家族への愛執では悟りに程遠い道長だった。

■三人の娘の死後、道長自身の病が悪化

三人の娘の死について記しながら、『栄花物語』は何を言おうとしているのだろうか。愛し、慈しんだものを次々と喪っていく悲しみ。自信をもってやってきたことが裏目に出て、自ら報いを受ける苦しみ。わが人生は間違っていたのかもしれぬという疑い――。光源氏が紫上を喪った時と同じ思いを、『栄花物語』は道長の奥に察し、記しているのではないか。

こうして『栄花物語』では、道長は厭離穢土(えんりえど)、欣求(ごんぐ)浄土の思いに達する。妍子の四十九日前後から、道長自身の病が目に見えて悪化し、頼通が治療のための加持祈祷を促すと、道長は断る。「ただ念仏を聞きたい」。

そして妍子崩御の3カ月後、法成寺の九体の阿弥陀仏だけを見つめ、耳に念仏を聞き、心には極楽を思い、手には阿弥陀如来の手と結んだ糸を握りながら逝くことになる(『栄花物語』巻三十)。

■長女・彰子すら汚れた父に近づけなかった

実際には、その死は凄絶だった。11月10日には失禁が始まり、13日には危急の容体に恩赦が行われ、後一条天皇は彼のために1000人の僧を得度させた。翌日には彰子が法成寺に百人の僧を集めて寿命経を読ませた。21日には体に力が入らず下痢が止まらず、背中の腫れ物が悪化して、意識を失ったとの情報もあった。

山本淳子『道長ものがたり「我が世の望月」とは何だったのか――』(朝日新聞出版)
山本淳子『道長ものがたり「我が世の望月」とは何だったのか――』(朝日新聞出版)

嬉子の死後出家して「上東門院」となった彰子と中宮・威子が見舞ったが、下痢の汚れで父に近づくこともままならなかった。24日、体の痙攣が始まり、背中の腫れ物の毒気が腹中に入ったと見立てられた。25日、人々は道長を法成寺の阿弥陀堂に移した。いつ迎えが来てもよいようにとの措置である。

26日には後一条天皇が、29日には春宮・敦良親王が法成寺の道長を見舞ったが、どちらも短時間で御所に戻った。見舞いの間に道長が死に、そのケガレに触れることが危ぶまれたからではないか。

12月2日には腫れ物に針が立てられたが、膿汁(のうじゅう)と血が少々出ただけで、道長は苦悶の声を上げた。そして12月4日、道長は薨去(こうきょ)した(すべて『小右記』各日)。享年62。

最期の言葉は何だったのか、伝える史料は無い。

(初公開日:2024年12月6日)

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山本 淳子(やまもと・じゅんこ)
京都先端科学大学人文学部 教授
1960年、金沢市生まれ。平安文学研究者。京都大学文学部卒業。石川県立金沢辰巳丘高校教諭などを経て、99年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士号取得(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代』(朝日選書)で第29回サントリー学芸賞受賞。15年、『平安人の心で「源氏物語」を読む』(朝日選書)で第3回古代歴史文化賞優秀作品賞受賞。選定委員に「登場人物たちの背景にある社会について、歴史学的にみて的確で、(中略)読者に源氏物語を読みたくなるきっかけを与える」と評された。各メディアで平安文学を解説。著書に『紫式部ひとり語り』(角川ソフィア文庫)、『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか』(朝日選書)などがある。

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(京都先端科学大学人文学部 教授 山本 淳子)

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