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藤原道長にいいように利用され、最後は天皇の座を奪われた…2人の中宮を持った一条天皇が迎えた悲しい最期【2024下半期BEST5】

プレジデントオンライン / 2024年12月28日 7時15分

さまざまな分野で才能と創造性を発揮する女性の活動を表彰する「BVLGARI AVRORA AWARDS 2022」のカーペットイベントに登場した俳優の塩野瑛久さん(2022年12月7日、東京都江東区の有明アリーナ) - 写真=時事通信フォト

2024年下半期(7月~12月)、プレジデントオンラインで反響の大きかった人気記事ベスト5をお届けします。大河ドラマ部門の第5位は――。

▼第1位 藤原道長憎しのあまり、暴走し自滅した…ギリギリまで道長を追い詰めた定子の兄・伊周が迎えたあっけない最期
▼第2位 NHK大河はこの史実をどう描くのか…まだ幼い「定子の息子」に対して藤原道長が行ったひどすぎる仕打ち
▼第3位 NHK大河ドラマを信じてはいけない…紫式部の娘・賢子が異例の大出世を遂げた本当の理由
▼第4位 NHK大河でどこまで描写できるか…失禁と下痢が止まらず、娘・彰子も近づけなかった藤原道長の凄絶な最期
▼第5位 藤原道長にいいように利用され、最後は天皇の座を奪われた…2人の中宮を持った一条天皇が迎えた悲しい最期

一条天皇とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「皇后定子が亡くなった後は、藤原道長のプレッシャーに負け、彰子との間に子を持った。その行為が彼の運命を狂わせた」という――。

■NHK大河で描かれた道長の「待ち望まれた日」

藤原伊周(三浦翔平)が、中宮彰子(見上愛)を必死に呪詛した効果も空しかった。寛弘5年(1008)9月11日、彰子は無事に皇子を出産した。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第36回「待ち望まれた日」(9月22日放送)。

一条天皇(塩野瑛久)にはすでに、亡き皇后定子(高畑充希)が長保元年(999)11月7日に産んだ第一皇子、敦康親王(渡邉櫂)がいた。定子の兄で、敦康の伯父にあたる伊周は、いうまでもなく、甥が皇位を継承することを望んでおり、その立場を脅かす第二皇子の誕生は、伊周にとって大きな不安材料になった。

だが、藤原道長(柄本佑)にとっては、長女の彰子が敦成と名づけられた皇子を出産した日は、文字どおりの「待ち望まれた日」だった。敦成が皇位を継承すれば、道長は外祖父として摂政となり、その権力を盤石なものとすることができる。その可能性が一気に高まったのである。

ドラマでは、道長はまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)に、彰子の出産の様子を記録するように依頼したが、実際、『紫式部日記』は、そうして書きはじめられたものと考えられている。そしてそこには、道長が皇子を抱き上げると、皇子は粗相をして道長の着物を濡らしたが、道長は「濡れてうれしい」とよろこんだと記されている。

藤原実資(秋山竜次)の日記『小右記』にも、道長は仏神の助けによって出産を平安に遂げられ、よろこぶ様子は言い表せないほどだったと書かれている。

■一条がよろこんだという史料はない

一方、敦成の父である一条天皇はどうだったのか。もちろん、それなりにはよろこんだのだろう。

出産は当時の慣例に倣って、彰子の実家、すなわち道長の邸宅である土御門殿で行われ、その後、敦成は11月17日に、はじめて内裏に参入することになっていた。しかし、一条天皇はそれでは遅すぎるからと、10月17日、みずから土御門殿に行幸している。道長の日記『御堂関白記』によれば、そのとき一条は敦成を抱き、親王の宣旨(天皇の命令を下達すること)をくだした。

ところが、一条天皇が敦成親王の誕生をよろこんだという記述は、史料上には見つけられないのである。

すでに第一皇子がいるところに第二皇子が産まれただけなら、珍しいことではない。しかし、敦成の誕生は、第一皇子は後見人の力が弱いのに対し、第二皇子は時の最高権力者の外孫だという、大きなねじれにつながった。それを憂うる気持ちが、一条にはあったのかもしれない。

事実、敦成親王の誕生は、その後の一条の幸福につながったかというと、そうは言い切れない。一条は道長に導かれるようにして、そんな状況を生み出してしまったことに、忸怩たる思いがあったのかもしれない。

【図表1】藤原家家系図

■道長から受けたすさまじいプレッシャー

長保元年(999)11月に入内したとき、彰子は数え12歳だった。天皇の子を産むにはいかにも若すぎたが、それだけではなく、そのころ一条の心は皇后定子に占拠されていた。

一条と定子は政略結婚による夫婦だったが、当時としてはレアな「純愛」を貫き、長保2年(1000)末に定子が没してからも、定子の後宮を美化して描いた清少納言の『枕草子』の力も相まって、一条の心は定子のもとに留まった。彰子が成長してもその状況は変わらなかった。

彰子が19歳になっても、一条は彼女の後宮に渡って来ず、懐妊の兆候は一切ない。そこで寛弘4年(1007)8月、道長は奈良県吉野町の霊山、金峯山に詣でたのである。それは単なる寺社参詣ではなかった。

まず、参詣する前に75日とか100日にわたり、閉所にこもって酒も魚も女も断つ「精進潔斎」が必要だった。それを終えてから予行演習を重ねていよいよ参詣するのだが、山中には鎖を伝って登らなければならない岩もあるなど、参詣自体が命がけだった。しかも、そこに名立たる高僧をふくむ大勢の僧侶や人足を連れて登り、大量の品々を献上し、読経や祈祷を繰り返した。

道長が真っ先に向かったのが、子供を授かりたい人が祈願する「小守三所」だったことからも、この国家行事と呼べるほどの大がかりな参詣の最大の目的が、彰子の懐妊祈願であったことはあきらかだった。最高権力者にここまでされれば、一条天皇も大きなプレッシャーを感じ、彰子との子づくりに励まないわけにはいかなかったことは、容易に想像できる。

■第二皇子が生まれたことで運命が変わった

ただ、彰子は敦成親王を出産した翌寛弘6年(1009)11月25日にも、敦良親王を出産している。彰子はみずから求めて、紫式部から一条天皇好みの『白氏文集』の「新楽府」を学ぶなど、一条に近づく努力を重ねた。それが一条に受け入れられたという面もあるだろう。

だが、彰子が敦成親王を出産し、さらに第三皇子の敦良親王まで出産したとあっては、敦康親王は、道長にとって完全に無用な、それどころか、邪魔な存在になってしまった。それは道長だけでなく、宮廷全体の意識だといってもよかった。

後見が安定しない敦康親王より、最高権力者の外孫である敦成親王のほうが、皇位を継承した場合に政権の安定、すなわち世の安寧につながる。下級役人から公卿までそういう意識をいだいている以上、敦成が支持されるのは当然だった。

だが、それは一条天皇にとって、きわめてやっかいな状況を生み出すことになった。敦康を東宮にしたいと願ってもかなわない、という問題を超えて、自分自身の立場を脅かすことにつながっていった。

道長はこのとき40代も半ばで、その年齢は現在であれば、政治家としてはむしろ若いくらいだが、平均寿命が短かった平安王朝期においては、すでに老齢といってよかった。しかも、『光る君へ』では描かれないが、道長は病気がちだった。だからなおさら、自分の外孫である敦成親王が誕生した以上、一刻も早く東宮にし、即位させたいと考えたはずだが、それはすなわち、一条天皇が退位を急かされるということだった。

■天皇を窮地に追い込む道長

実際、道長は一条天皇が譲位する時期を探りはじめた。そして、敦成が産まれた2年半後の寛弘8年(1011)5月22日に、一条天皇が病に倒れてから、事態は急速に進むことになった。

その日、藤原行成の日記『権記』によれば、一条天皇は彰子の後宮に渡ったのちに倒れた。具体的な症状は伝えられていないが、それを受けた道長の行動のせいで、一条は窮地に追い込まれてしまう。

道長は5月25日、儒学者の大江匡衡(おおえのまさひら)を呼び、一条天皇の病状と譲位について占わせた。そんなことをしたのは、道長は一条天皇に譲位させてもいいと思っていたからだが、その結果、譲位どころか、一条が死去するという卦が出たのである。さすがの道長もこれには驚いて、一条が寝ている清涼殿夜御殿の隣室に控えていた護持僧の慶円に、占文を見せた。

『権記』によれば、そのとき一条天皇は御几帳の継ぎ目から道長と慶円の様子をのぞき見していて、話をすっかり聞いてしまったというのである。

一条天皇の病状は、じつはこの25日にはほとんど回復していたのだが、自分の病状や道長のたくらみを聞き知った結果、体調が一気に悪化してしまった――。そう『権記』には記されている。この時代には、陰陽道による占いは、現代における科学に相当した。だから道長も匡衡も占いの結果に驚き、それを間接的に知ってしまった一条も驚愕したのだ。

一条天皇にすれば、予期せず余名宣告を受けたようなもので、そのうえ道長が自分の譲位を望んでいることまで知ってしまったとあっては、急に体のバランスが崩れ、病状が悪化しても不思議ではない。

藤原道長
藤原道長(写真=東京国立博物館編『日本国宝展』読売新聞社/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■かなわなかった最後の願い

結局、道長は翌26日、一条天皇に知らせないまま譲位を発議してしまう。27日、一条は側近の行成を呼び出し、自分は譲位してもいいからせめて敦康親王を東宮にしたいと訴えたが、行成は、皇位を継承するためには外戚の力が必要で、それには敦成親王がふさわしいと伝えている。

敦康の幼少時から8年間、手元に置いて育ててきた彰子も、『栄花物語』によれば、父の道長に敦康を東宮にできないかと何度か打診したが、受け入れられなかったという。

万策尽きた一条天皇は6月14日、道長に出家の意志を告げ、19日に出家した。しかし、その間も体調は悪化するばかりで、21日に身を起こして辞世の歌を詠んだ。

露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき(露のように儚い私の身が、風の宿りにすぎないようなこの世に、あなたを残しておいて、塵がごとき世から出ていくのは悲しいことだ)

その後、意識を失って22日に没した。享年は数えで32歳。

じつは、辞世の歌の最後が「事ぞ悲しき」となっているのは行成の日記『権記』で、道長の日記『御堂関白記』には「ことをこそ思へ」と書かれている。命が尽きようという一条が虫の息で詠んだため、聞き取りにくかったのかもしれない。また、詠まれている「君」を行成は定子、道長は彰子だと解釈している。

どちらが正しいか知りようもないが、もしかしたら一条天皇は、彰子を残す悲しさを覚えながらも、自分を散々翻弄した「塵」がごとき世から出て、定子のもとに行けることに、よろこびを感じていたのかもしれない。

(初公開日:2024年9月29日)

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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