500台の「ド派手な大型トラック」が集結する…利根川河川敷で「デコトラの奇祭」を続けるトラック運転手の正体
プレジデントオンライン / 2024年12月30日 18時15分
■河川敷を埋め尽くす「謎のデコトラ集団」
12月31日、埼玉・深谷にある利根川の河川敷は騒がしくなる。
いつもは車がほとんど通らない川沿いの道路からトラックやダンプカーが続々と河川敷のグラウンドへ降りていく。1台、10台、30台……、2023年の年の瀬にはこの場所に500台が集まった。
トラックの多くは派手な装飾をほどこしてある。コンテナには、天女や龍、鳳凰などの絵が描かれ、戦車の砲台のようなパーツや、鉄仮面のように重厚なバンパーをつけたトラックもあった。
河川敷に集まったのは、いわゆるデコトラ(デコレーション・トラック)だ。
1996年から続くカウントダウンイベントで、夜になるとデコトラが一斉に光を放ち、会場では歌謡曲ショーが開かれる。花火と共に新年を迎えるのが恒例だ。この年の来場者は約5000人。過去にはデコトラを見ようとフランスから訪れた人もいた。
「カウントダウン、いわゆる年越しだな。映画『トラック野郎』の主演だった菅原文太さんが亡くなった2014年には追悼式もやってさ。ここに入りきれないくらいの人が来たんだよな。駐車場に入るまで6時間待ちだったよ」
こう話すのは、デコトラの愛好者たちで作る「全国哥麿(うたまろ)会」の3代目会長・田島順市さん(76)。デコトラ歴49年のベテランで、昭和から令和までのデコトラ文化を牽引してきた立役者だ。
■「トラック野郎」に憧れた運転手たち
デコトラの愛好団体は全国各地に点在している。そのほとんどが数人から数十人規模だ。一方、哥麿会は北海道から沖縄まで全国に35の支部を持ち、社団法人にも登録している。会員数は約500人で、日本一の規模となるデコトラ愛好団体だ。
哥麿会に所属する会員は生粋のデコトラ好きが多い。
50代の男性会員は「中学生の頃に映画『トラック野郎』を見てから絶対にデコトラに乗りたいと思ったんだよね。トラックを運転するようになって、自分で飾り始めたんだ。もう30年以上やっている」と語る。
20年前に会員になったという40代の会員は「昔は少ししか飾ってなかったんだ。会に入ってからはみんなの影響を受けて、フロントやバンパーの装飾品をつけてどんどん大きくなっていったよ。全く飽きないよね」と笑顔で振り返った。
30代から70代までのデコトラ好きが集まる哥麿会。しかし、もともとはデコトラがテーマの団体ではなく、映画撮影の協力団体だった。
■映画撮影の協力団体としてスタート
哥麿会は1975年に映画「トラック野郎」シリーズの撮影協力団体として立ち上がった。
トラック野郎とは、1975年から1979年に東映が制作・配給した全10作の映画だ。単発の企画映画として『トラック野郎 御意見無用』が公開されると初日から映画館が満員となり、シリーズ化が決定。夏と冬の年に2回公開される定番映画となった。
キネマ旬報社が2022年に発行した『キネマ旬報ベスト・テン95回全史 1924-2021』によると、第1作目の「トラック野郎・御意見無用」配給収入は4.1億円で、この年の邦画興行収入で8位となった。1976年からはその年に公開された2作とも上位トップ10に名を連ねるようになった。ヒットを飛ばしていた『男はつらいよ』シリーズに匹敵する娯楽映画となった。
当時の哥麿会のメンバーはトラックドライバーや運送会社の社長など。映画「トラック野郎」シリーズに出演する車両や運転手の手配に協力する役割を担っていた。ちなみに、初代哥麿会会長の宮崎靖男さんは哥麿役として映画に登場している。映画に出演したいと考える若者達が哥麿会に押し寄せたそうだ。
■チャリティー団体に生まれ変わる
しかし、1979年にシリーズが打ち切りになると、目的を失った哥麿会は解散状態になった。そのまま残り続け、1981年に3代目の会長に就任したのが田島さんだった。
「心の底からデコトラが好きなやつ以外は去ってしまったよな」と振り返る。
田島さんが会長になると、哥麿会はチャリティーイベントを主催する団体へ生まれ変わった。デコトラ撮影会を年に3回全国で開催。イベントではカレンダーやタオルなどのオリジナルグッズを販売し、交通遺児の支援団体などに収益を寄付してきた。カウントダウンもチャリティーイベントの一環だ。
「チャリティーは、イベントを開くための名目だよな。目的がないと団体も活動も続かねえ。そう思って、募金や寄付を始めたんだ。最初はチャリティーって言葉の意味もよくわかってなかったよ(笑)」
さらに、哥麿会の活動は拡大する。後述する1995年の阪神淡路大震災をきっかけに、災害ボランティアの活動を本格化。2024年1月1日の能登半島地震では発災翌日から体制を整え、1月7日から被災地でボランティア活動を実施した。
■カウントダウンイベントを終えた後の大地震
2024年1月1日16時10分。能登半島で地震が発生した時、冒頭で紹介した利根川河川敷でのカウントダウンイベントを終えた田島さんは、埼玉県本庄市にあるラーメン店で哥麿会の会員たち20人と打ち上げをしていた。
「そろそろお開きにすっか」と田島さんが言葉を発したタイミングで、会員たちのスマートフォンから緊急地震速報の警告音が一斉に響いた。
震源地は石川県能登地方。最初は被害の大きさがわからなかったが、「これは行かなきゃなだよな」と会員たちに声をかけた。打ち上げは解散。九州や大阪などの遠方から来た会員たちを連れて自宅に戻った。
家のテレビをつけると、どのチャンネルも地震のニュースばかりだった。被害の大きさを知った田島さんは、すぐに現地の知人に電話をかける。
「2007年に能登半島地震が起こってから輪島でボランティアやチャリティーイベントを開いてきた。現地でお世話になっている人がいるから連絡を取ったんだ。ただ、電話は通じなかった。次に、年越しのイベントに参加してくれたやつに電話をかけたんだ。そいつは輪島市から60kmくらい南にある志賀町ってところに住んでいるやつだな。電話をかけたら『けが人はいなかったけど帰ったら家がなくなっていた』と言っていた。『いつでもそっちにいけるように体制を整えるから。道路状況や現地の事情を教えてくれ』と依頼したんだ」
■能登半島地震の被災地に、トラックで駆けつける
哥麿会は1月2日から被災地に向かうために準備を進める。
まずは、哥麿会と災害協定を結んでいる群馬県大泉町に連絡を取り、飲料水や使い捨てカイロなどの支援物資の輸送を請け負った。
大泉町からの連絡を受け、炊き出しの場所は約100人の住人が避難している志賀小学校(石川県志賀町)に決定。昼食と夕食の炊き出しを依頼され、つきあいの深い食材の卸売店で焼きそばの材料800食分を手配した。
1月6日午後10時、埼玉・児玉を出発し、1月7日午前7時に志賀小学校に到着した。新潟に住む会員とも現地で合流し、焼きそば・甘酒・豚汁を避難している人たちに提供した。炊き出しは2月、3月も行った。
9月21日の大雨被害が発生した後も大きなデコトラで現地を訪れている。田島さんはこの1年で能登半島の被災地に7回訪れたという。
「こういうのは継続しないと意味がねえからな。それに復興の段階によって必要なものは変わる。元に戻るまで現地に行き続けるよ」
■「デコトラ愛好団体」が、なぜ被災地支援をするのか
哥麿会はデコトラの愛好団体だ。
それがなぜ、ボランティア活動にこれほど熱心なのか。
哥麿会の会員4人に理由を聞くと「弱いものに寄り添いたいという会長の想いが強いからだよね」と答えた。弱きを助けるデコトラ集団、哥麿会――。田島さんはどのようにこの団体を作り上げてきたのだろか。その答えは50年に及ぶ田島さんのトラック人生にある。
田島さんは1948年、埼玉県児玉町(現在の本庄市)に生まれた。トラックドライバーになったのは24歳の時だった。父の瓦店を継ぎ、2トンダンプで瓦を運ぶドライバーとして働いた。
「高倉健さんの『新網走番外地 嵐呼ぶダンプ仁義』(1972年公開)を見てダンプに乗りたいと思ったんだよな」
会社は両親と妻に任せ、深夜3時から夕方5時まで、埼玉の北端から東京や神奈川まで往復200キロを走る生活を送っていた。
店を継いで3年が経った1975年夏、27歳の時に大きな転機が訪れる。
映画館で見た「トラック野郎・御意見無用」に胸を打たれた。菅原文太さんが演じる「星 桃次郎」が警察の白バイやパトカーの制止を振り切って、ヒロインを恋人のもとに送り届けるラストシーンは今も鮮明に覚えている。
■200万円でデコトラに改造
シリーズ5作目の『トラック野郎 度胸一番星』(1977年)が公開される頃には、トラックドライバーの仲間内で撮影のロケ地が共有されるようになった。田島さんは秋ヶ瀬公園(さいたま市)、東松山市のロケ地に通うようになる。
「仕事で乗っていたダンプはノーマルだったから恥ずかしくてさ。乗用車に乗り変えて撮影を見に行ったよ。そしたら全く相手にされないんだよな。俺は同じトラック乗りの仲間だと思ってたから、さびしさを感じたよ」
ロケ地には大型トラックやダンプカーがずらりと並んでいた。戦艦のような車両を見ているうちに「自分もやりたい!」と気持ちが昂(たかぶ)り、ダンプカーを飾ろうと決意する。
地元の業者に依頼し、フロントを虎柄のレザーで包んだ。ランプを増やし、背面には宝船の絵を描いてもらった。総額200万円。大卒新人の月収が10万円ほどだった時代だ。新車で高級セダンを買える金額だったが、仲間も大金を投じていたため驚きはない。むしろ「このトラックに見合った収入を得られるように頑張ろう!」と気合が入った。
「これなら恥ずかしくないだろう」
田島さんは配送の帰りにダンプでロケ地へ通った。
■「トラック野郎」でエキストラ出演を果たすが…
1978年、田島さんは「1人で入会するのは会に対して格好がつかない」と考え、仲間10人と一緒に哥麿会に入会した。トラック野郎の8作目『トラック野郎 一番星北へ帰る』が公開された後のことだった。
「頑張ればいつか映画に出られると思ったよね。みんなに顔覚えて貰うために宴会で裸踊りとかしていたよ(笑)」
宴会芸の努力はすぐに実を結ぶ。9作目『トラック野郎 熱風5000キロ』、最終作『トラック野郎 故郷特急便』(いずれも1979年公開)に出演を果たした。とはいっても、ワンシーンのみのエキストラ。映画を見てもどこに出ているかわからないほどの脇役だった。
「映画の撮影に参加できてよかったけど、次こそは目立つ役で出たいと思ったよ」
「悔しさをいつか晴らしたい」と思っていたが、シリーズは突然打ち切りに。哥麿会に入会してから約1年しか経っておらず、無念な想いだけが残った。
「トラック野郎のシリーズ後半は人情ものが続いたんだ。『困っている人を見捨てない』という心が描かれていて、それがよかった。『男はつらいよ』みたいにシリーズがずっと続くんだろうし、そのうち自分の車と映画に出られると思っていたんだ。でも、すぐに終わっちゃった。哥麿会のみんなもいなくなってさ。とり残されたような気持ちだったよな」
■目的を失った哥麿会
哥麿会は風前の灯だった。
1979年に映画が終了すると多くの人にとって留まる意味はなくなり、数百人いた会員は50人にまで減少。宴会以外に目立った活動もなくなった。
開店休業の状態が3年ほど続いた1981年のある日、2代目の会長も辞めることに。「実務をしっかりこなしていた」という理由で田島さんが後任に推薦された。
3代目の会長に就任した田島さんは「悔しさを晴らしたい」と思っていた。集会を開き、「デコトラの活動をしよう」と他の会員に持ちかけると、「何かやろう!」と盛り上がった。
「自分たちの生き様を表現したトラックを見てもらうには?」
「一般の人を巻き込むイベントにするには?」
話し合った結果、あるアイディアを思いついた。
「誰もが参加できる無料の撮影会を開こう!」
■大雨のなかで開いた初めての撮影イベント
1983年8月15日、初めてイベントを開催した。当日は台風による雨模様だった。
会場は、現在の横浜町田インターチェンジを降りてすぐにあった「東名飯店」。観光バスを止められるようなジャリ敷きの駐車場に、デコトラ30台を集めた。
テレビや雑誌にはほとんど取り上げられていない。さらに、足のすねの高さほどの水たまりが数箇所にできるほどの悪天候だったため、来場者は0人でもおかしくない状況だった。
しかし、予想は覆される。
イベントがスタートすると、近隣の人たちが傘をさしてポツポツと現れた。1時間に10人程度ではあるものの来訪者は途切れない。この日は100人ほどが来場したという。
「次はいつやるんですか?」
ある参加者からその言葉を聞いた時、手応えを実感した。
「まだまだデコトラ好きはたくさんいる。この大雨で人が来るんだったらもっとできるはずだ。継続してやっていこう!」
こうして2回目の撮影会を開くことが決まった。
■「撮影会を続けるためには目標が必要だった」
この時、田島さんはイベントを続けるための方法を考えた。
「撮影会を続けるためには目標が必要だと思ったんだ。トラックと事故の話は切っても切り離せない。自分の周りでも話をよく聞く。交通事故でダンナをなくした嫁さんを支援する「交通遺児母の会(2024年に活動休止した交通遺児等を支援する会)」への寄付と募金。つまり、チャリティー活動を撮影会の目的にしようと決めたんだ」
2回目の撮影会は1984年8月5日、静岡・日本平のゴルフ場で行った。当時の静岡の支部長が関西に拠点を置く別のデコトラ愛好団体にも声をかけ、500台のデコトラが集まった。
現在も続くデコトラ専門誌『カミオン』が創刊したのはこの時期だった。イベントの告知記事が事前に掲載された影響は大きく、会場には約5000人が押し寄せたという。Tシャツ、カレンダー、タオルなどのオリジナルグッズは1時間で完売。売上から交通費などの経費を除いた収益25万円を交通遺児母の会に寄付した。
ここからデコトラブームが徐々に起こり、勢いに乗った哥麿会の名は全国へ広がる。
「前の会の時は会員同士の間に壁があった。また、会員も映画に関わっているから、『自分たちは特別だ』と思っているやつらも多かった。俺はそういうのが嫌だったから、『来るもの拒まず』な組織にしたいと思ったんだよ」
20歳で暴走族を卒業した若者たちからの入会希望を受け入れて、会員の数は数百人ペースで増えていく。
一方で、田島さんの本業は大きなピンチに見舞われていた。
■突然閉じた家業の瓦店
田島さんの瓦の工場はいつ潰れてもおかしくない状況だった。
1970年代には毎日東京へ瓦を運んでいたものの、1980年代に入ると週1回ほどに減った。作った瓦は在庫として残り、会社横にある自宅の庭には瓦が山のように積み重なった。
「カミさんとお袋に任せていたからお金周りの詳しいことはわかんねえ。でも、運ぶ瓦はなくなっていく。今後ダメになると思ったから、ダンプの仕事を増やしたんだよ。最初は土砂の配送を請け負って、徐々に砂利も運ぶようになったんだ」
当時の首都圏では高層ビルの建設ラッシュが始まっていた。田島さんのダンプ業は好調で、5~6人のチーム体制でフル稼働した。ところが…。
「暮らしが成り立っているから、なんとかなっているのだろう」と思いながら、仕事に打ち込む日々を過ごしていたが、瓦店の赤字は予想以上に膨らんでいた。ある日、「対処しないと致命傷に至る」と考えた妻と母は行動に打って出た。
「お袋とカミさんが職人たちとの契約を打ち切ったんだ。いつもは朝になるとガチャガチャと瓦を運ぶ音がするんだけど、その日は休みのように静かだった。カミさんに『作業場に何かあったの?』と聞いたら、『昨日の晩に帰ってもらいました』と言われてさ。職人がいないと瓦は作れねえ。頭を下げて戻ってきてもらうわけにもいかない。状況も状況だ。トラック1本で頑張ろうと気持ちを改めたよ」
■6000万円の負債
この時、瓦店には6000万円の負債が残っていた。70年代の終わりに一新した作業場の費用の返済がまだ済んでいなかった。
「さすがに絶望的だったよ。でも、持ち直す方法を考えないといけない。どの土地や設備を売れば生き残れるのか。そのことばかり考えていたよ」
近所では夜逃げする瓦店もあった。危機感を募らせながらダンプカーのハンドルを握るも解決策は思いつかない。乗り切るためには仕事の規模を拡大することも必要と考え、友人から声をかけられたことを契機にスクラップの運搬を始めた。
自治体からの許可証が必要な専門的な仕事は、これまでに配送していた仕事の5倍ほど単価が高く、会社の延命につながった。「このおかげで何とか持ち堪えられていたよ」と田島さんは振り返る。
耐え忍ぶ日々を続けること約2年。負債の整理は思うように進んでいなかったが、1986年ごろに一気に問題が解決する。バブル経済という神風が吹いたのだ。
「持っていた500坪の土地の価格が10倍近くに跳ね上がってさ。それを売って借金を一気に返済できたんだよ。2~3年後には土地の価格は急に下がった。売るタイミングが早くても遅くてもダメだった。もしタイミングがズレてたら、家もトラックも全部なくなっていた。よくわからない幸運に助けられたよ」
こうして瓦店は運送会社に変貌した。自動車工場から排出されるスクラップ運搬の依頼も増加。関東以外の仕事も徐々に担い、1990年代に入ると九州から北海道まで全国のスクラップ運搬に携わるようになった。
「全国の自治体の産業廃棄物を運搬する許可証を取ったんだよな。日本全国をまわりながら哥麿会の支部を作っていた時期でもあったから、一緒にやったんだ。各地で知り合いも増えるから仕事も広がっていったよな」
■自分たちのために始めたボランティア
哥麿会の活動も、自身の会社も軌道に乗ってきた1995年、46歳になった田島さんに大きな転機が訪れる。1月17日早朝に発生した阪神・淡路大震災だった。
朝に起きてテレビをつけると、画面には崩落した阪神高速道路と黒煙に包まれた神戸の街が映し出されていた。これまでに募金やチャリティーの活動は行ってきたが、本格的な災害ボランティアに取り組んだことはない。被害の大きさに言葉を失った田島さんは「できる範囲で何かやろう」と立ち上がる。
関東在住の会員10人に電話をかけると、すぐさま賛同してくれた。同時に神戸で働いた経験のある姫路在住の会員にも連絡し、道路状況の確認と現地の案内を依頼した。
テレビでは、被災地で水が不足していると報じられていた。4トンの給水タンクローリー車を手配。さらに、焼きそばの炊き出しの材料とバナナを中型トラック4台に積み込み、地震が発生した当日の夜に自宅を出発した。
1月18日午前6時ごろに姫路に着いた。そこから現地会員のトラックに先導されて、神戸市兵庫区の大開小学校へ向かった。悲惨な光景が目に次々と飛び込んできた。倒壊した兵庫警察署を見て「1番丈夫なはずの警察署が潰れるなんて……」とショックを受けた。
田島さんは数日のボランティアを計画していたが、「本格的に取り組まないとどうしようもない状況だ」と感じた。仕事に支障がない人たちだけ現地に残り、10日間、被災地でボランティア活動を続けた。
■誰かに感謝される経験が必要だった
大開小学校は避難所になっていた。校庭にテントを組み立て、テーブルと鉄板を並べて、焼きそばを作った。集まった子どもたちに渡していく。温かい食べ物を受け取ると、うれしそうな表情を浮かべ、それを見た大人たちも笑顔になっていた。田島さん自身も少し救われた気持ちになった。炊き出しを終えた後は体育館の2階に泊まった。
翌日からは本格的に飲用水の提供をはじめた。会員が姫路に戻り、1晩かけて4トンの水道水をタンクに貯めて、翌朝に神戸市長田区にある神社に集合した。
自衛隊員と一緒に集まってきた人たちのポリタンクに水を注いでいく。山の中腹にある神社の階段を登って来れない人たちもいるため、ポリタンクを持って、公民館や民家を回った。夕方には水がなくなるため、姫路に戻り、1晩かけて4トンの水を貯める。そして、翌朝から飲料水を配る。これを現地にいる間、繰り返した。
「ありがとうございます」
「助かりました」
感謝の言葉を受け取り、会員たちの表情が和らいでいった。
「うちの会員数は最盛期には3000人くらいいた。半分は暴走族上がりだったから、人間を信用できなくなったやつもいた。そういうやつこそ誰かのために何かをやって、感謝を受ける経験が必要だと気づいたんだ。それに、俺は子ども達を元気づけたい。仲間と自分のためにボランティアをやっていこうと決めたよ」
■33歳の会員が教えてくれた田島会長の素顔
困っている人に寄り添う――。田島さんがいちばん大切にしていることだ。これは被災者に対してだけではない。哥麿会の会員に対しても同じだ。
「無理難題を言われることもあるし、怒られることもある。でも、
こうに話すのは20歳で会員になった秋山和也さん(33)。本業は大型トラックドライバー。会ではカウントダウンイベントの準備、災害ボランティアの炊き出しの材料の手配、公式YouTubeチャンネルの運営などを担当している。
秋山さんは、小学1年生の頃、家族でキャンプに行く途中のコンビニで雑誌『トラックボーイ』の表紙に写っていたデコトラに一目惚れした。その場で父親に雑誌を買ってもらって以来、約25年間デコトラを趣味としている。「好きなことはどんどんやった方がいい」という父に連れられて、小学2年生の頃から利根川の河川敷で開催されているカウントダウンのイベントにも毎年参加してきた。
秋山さんには田島さんとの忘れられない思い出がある。
2014年4月下旬、東京であった哥麿会のイベントに参加していた時に、スマートフォンが鳴った。児玉警察署の警察官からの電話だった。「秋山さんですね。父親の身元を確認してほしいので、今すぐ警察署に来れますか?」と言われた。
■「俺は1人じゃないって気づいたんだ」
3時間かけて警察署に向かうと、そこには自ら命を絶った父親がいた。
「間違いなく本人です」と警察官に答えた。
「涙が止まらなかったよね。でも、1週間後に静岡で哥麿会の全国大会があったんだ。そのことをおかんに話したら『あの人だったら行けって言うだろうし、全国に仲間もいるんだから行かなきゃダメだよ』って言われたんだよね。親父とおかんは離婚していたから、葬式の喪主は俺が務めることになった。月曜日から水曜日で葬式を終えて静岡に向かったよ」
秋山さんは気持ちの切り替えができないまま、哥麿会の全国大会にスタッフとして参加した。「東日本大震災 復興チャリティー大会 in 袋井」と名づけられたイベントは、日が暮れた後に行われるデコトラのライトアップショーも終わり、無事に成功。テントや屋台をトラックに積み込み、撤収作業が完了した暗闇の中で、田島さんから声をかけられた。
「今日も終わったな。大丈夫か?」
「イベントの最中に会長に気を遣わせたくない」と思っていた秋山さんは、自分の事情を伏せていた。この1週間で起こったことについて言葉を振り絞るように告げた。
「実は親父が亡くなって……」
その言葉を聞いた田島さんは声を荒げた。
「何で言わないんだよ!」
「言うのが今になってしまって……すみません……」
「何か困ったことがあったら……、言えよ!」
それ以上、田島さんは何も言わなかった。
「ずっと応援してくれていた親父が亡くなってさ、これから困った時に頼れる人はいないと思っていた。でも、違った。会長もいるし、哥麿会もある。俺は1人じゃないって気づいたんだ。本当に救われたよね……」
■半身不随の一歩手前
田島さんは2019年に会社を息子に譲り、大型トラックの運転を辞めた。日常生活で転ぶことが増えて、左半身のしびれを感じるようになった田島さんは、病院に行くと、「半身不随の一歩手前だよ」と医者に言われた。
病名は、後縦靱帯骨化症。首にある後縦靱帯が骨化して脊髄を圧迫し、歩行障害や手足のしびれなどを引き起こす疾患で、国指定の難病だ。9月に手術日が決まり、首から頭が動かないようにコルセットで固定して生活を送る。「手術が成功したとしても車イスだろうな」と覚悟した。
「その時は足がしびれてステージにも登れなかったな。『俺はトラック野郎だからよ、さすがに車イスでみんなの前に行けねえ。これが最後になると思うから俺の顔をしっかり見ておけ』と言ったんだよ」
その後、幸運なことに10時間にわたる手術は成功し、5カ月の入院が決まり、リハビリに臨むことになった。担当医に「先生、まだまだトラックに乗りたいから、乗れるようにしてくんな」と頼むと、トラックに乗るために必要な高さのステップ台を用意し、リハビリを進めてくれた。
退院する頃には、しびれなどの後遺症が残り、立つ時には誰かの支えが必要な状態だったが、1年ほど経つと自分の足で歩けるようになった。
■「デコトラよりもデコトラを好きな人間が好きなんだよ」
現在は、ライフワークとなったボランティア活動にも励んでいる。ただ、左半身が自由にならないことでクラッチ操作への不安を覚えたため、近場を除いた大型トラックの運転は辞めたという。
満身創痍な田島さんだが、表舞台から引退して、活動を縮小することは考えていないのだろうか。質問を投げかけると、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「考えてはいる」
そして、1人1人の会員の顔を思い浮かべているのか、少しの間を置き「でも」と言葉を続けた。
「年越しもそうなんだけど、イベントが近づくと色んなやつから連絡がくるんだ。そういうのがあるから仕方ないよな。それに会員同士の相性みてえなもんもある。もう少し続けないといけないよな」
最後に「まだデコトラは好きなんですか」と質問をすると声を大きくして笑った。
「そりゃあ好きじゃないとこんなに続けないよ! でも、俺はデコトラよりもデコトラを好きな人間が好きなんだよ。世の中から外れてしまったやつらもいるけど、みんな純粋なんだ。デコトラがないと、いいやつらの見わけがつかねえんだよな(笑)」
孤独な人の光になることを矜持にした哥麿会は2025年に50周年を迎える。今年の12月31日の夜、利根川の河川敷では500台のデコトラが眩い輝きを放つ。
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フリーライター
1989年生まれ。グルメ・テック・Webエンタメに関わるヒト・モノ・コトの魅力を深掘りするライターとして活動を行う。メーカー勤務10年を経て独立。群馬県在住。
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(フリーライター 中 たんぺい)
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