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「海に眠るダイヤモンド」で描かれなかった軍艦島・最後の10年…ヒロインが「廃墟じゃない」と言った理由

プレジデントオンライン / 2024年12月26日 10時15分

軍艦島(2016年) ※写真はイメージです - 写真=iStock.com/sangaku

好評のうちに完結した日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」(TBS系)。舞台となった軍艦島こと長崎県の端島は、1974年に炭鉱の島としての役割を終えた。過去に軍艦島で取材を行った風来堂は「ドラマでは閉山までの10年間は詳しく描かれなかったが、小中学校で生徒が人文字を作るなど、島の人々は暮らした島との別れを惜しんだ」という――。

■昭和40年代、「新坑」で未来が見えた矢先に決まった閉山

12月22日に最終回が放送されたTBS日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」。2時間スペシャルの中で描かれた、神木隆之介が一人二役を演じた「鉄平」と「玲央」の関係について、衝撃の事実に驚かされた視聴者も多かっただろう。

最終話で描かれた端島は、1965(昭和40)年から。閉山のちょうど10年前だ。ストーリー上の「まさかの結末」は本編に譲るとして、この記事では、その舞台となった世界一の人口密度を誇った端島の「最後の10年」について、ひも解いてゆきたい。

1965(昭和40)年の端島の人口は3391人。最盛期の5000人超よりは減っていたものの、採掘の機械化や合理化による面もあり、まだまだ未来は明るかったといえる。ちなみにこの時期、人口が減ったことによって、2戸をつなげて1戸とするなど、住環境は大きく改善されたという。

この年、端島の南西約3km沖にあった区域での坑道の掘進が始まっている。未来への新たな光が見えてきた。その喜びのほどは、ドラマ最終話でも描かれている。坑道は700m超まで掘り進められていた。

■「前途ようようたる鉱命が一夜にしてアガリヤマに」

ところが、そのわずか5年後。希望の光はついえてしまう。新区域の炭層が思いのほか深部にあることがわかり、当時の技術では採炭は不可能との結論に至ってしまうのだ。

そのことを会社から告げられた労働組合は、松下久道九州大学教授、兼重修熊本大学教授など、専門家を中心にした調査団を編成し、独自調査に乗り出す。

しかし、結果は同じだった。

この端島沖開発工事の断念が、事実上、端島炭鉱の閉山を決定づけた。炭鉱なくして端島の生活は成り立たない。労働組合は閉山阻止の方向ではなく、退職金や再就職あっせんなど、退職に伴う条件交渉に向けた交渉へと舵を切る。折しも「石炭から石油へ」のエネルギー革命が着々と進行する時代だった。

閉山時の組合長だった千住繁氏は、のちにこう語っている。

「そのころは三ツ瀬区域の出炭は順調だったし、そのうえ端島沖が開発されたら、これはもう無尽蔵、みんな意気盛んでしたよ。それが開発不可能だというんだから、前途ようようたる鉱命が一夜にしてアガリヤマになったわけさ」

「私だって青春時代をここで過ごした。組合長として最後の仕事に追われて、感傷にひたっているひまもないがね。身のふり方にしろ、みんなを送り出して、それからですたい」
(『聞き書き──軍艦島』長崎県朝日会)

■1974年1月の閉山式からわずか3カ月で完全な無人島に

閉山間際の端島小中学校の校庭を空撮した印象的な写真が残っている。「サヨナラハシマ」の人文字。「1973.10」の文字も読める。端島小中学校の全生徒が集合したとか。

閉山前年秋に撮影された、端島小中学校校庭のお別れの人文字
写真=軍艦島デジタルミュージアム
閉山前年秋に撮影された、端島小中学校校庭のお別れの人文字 - 写真=軍艦島デジタルミュージアム

小中学校の校庭では、盆踊り大会や従業員運動会など、数々の屋外の一大イベントが行われた場所。直線で50mがやっとだったというが、それでも土地の限られた端島の中では随一の広さ。母校としてのみならず、大人になって以降のさまざまな記憶が眠る、島民にとって誰もが思い出深い場所だった。

正式に端島炭鉱が閉山となるのは、1974(昭和49)年1月15日。小中学校の閉校式、保育園の閉園式は、3月31日に行われた。この年まで残っていた島民たちも、1月から4月にかけて次々と島を離れて行った。

■2度も台風により崩壊した島の玄関口、桟橋は今も現役

「海に眠るダイヤモンド」もたびたび、主人公たちが島内外を行き来するが、端島への唯一の交通手段は船だった。閉山の頃は、端島と長崎港の間を片道1時間半の定期船が運行していた。1974(昭和49)年4月20日、午後4時50分。端島発の便を最後に、定期便は80余年の長い歴史にも幕を閉じた。

進学や就職のために島を出る者も、帰省で島へ戻ってくる者。端島へ仕事で赴任してくるもの。船が着岸する桟橋は、幾多の出会いと別れの場所だった。

しかし、台風の通り道でもある海域では、接岸がままならないこともたびたび。かつては艀(はしけ)に乗り換え、ワイヤータラップを上って上陸していた。

大型船が接岸できる「ドルフィン桟橋」が完成したのは、1954(昭和29)年のこと。ドルフィン桟橋は、海底岩盤に杭を打ち込んだ人工島で、日本国内では初めて作られたのが、端島のそれだった。最新技術を駆使した桟橋だったが、1956(昭和31)年に台風で崩壊。二代目も1959(昭和34)年の台風により再び崩壊してしまう。

より強固な構造に変更した1962(昭和37)年完成の三代目ドルフィン桟橋は、1974(昭和49)年の閉山まで利用され、さらに現在の軍艦島上陸ツアーにも利用されている。

ドラマ第8話で、鉄平と朝子(杉咲花)が長崎へ出かけるために船に乗り込んでいたのも、時代的におそらくこの三代目ドルフィン桟橋だったと思われる。

1971年の三代目ドルフィン桟橋。写真の船は長崎への定期船
写真=軍艦島デジタルミュージアム
1971年の三代目ドルフィン桟橋。写真の船は長崎への定期船 - 写真=軍艦島デジタルミュージアム

■5000人が暮らしたが…、無人島と化したその後の端島

人が去った端島は、その後どうなったか。

しばらくは三菱鉱業の後進会社・三菱マテリアルの所有となり、島の中央部にある無人の灯台のみが“現役”の無人島となり、ただ潮風と高波にさらされ、朽ち果てるまま数十年が過ぎていった。

南北約480m、東西約160m、中央部を縦に山脈のような地形が縦断している。おおむね、その東側が炭鉱施設、西側が居住区域となっていた。西側が外海にあたるため高波にさらされることも多く、高層建築群は「防波堤」的な役割も担っていた。ゆえに、潮風と波の影響を受け痛みも激しく、ところどころ崩壊も著しい。

たとえば、かつて「日給社宅」と呼ばれた社員住宅、16~19号棟。9階建鉄筋コンクリート造、端島を象徴する高層建築は、ところどころ緑に侵食され、各階の木柵は朽ちながらも、かろうじてその姿をとどめている。室内にはテレビなどの家具や、住人が置いていった雑誌などが残る部屋も。

高層住宅の合間を縫うように、山脈部分へと続く「地獄段」。山上にある端島神社へと通じる。比較的往時の姿をとどめているようだが……。

島の北東部、1957(昭和32)年の建設当時は日本一の階層を誇った6階建(のち7階を増築)の小中学校は、建物はそのまま健在だが、地盤沈下と海水の侵食によって基礎部分が剥き出しに。

もともと、岩礁の隙間を埋め立てて生まれた端島が、かつての姿へと戻りつつあるのかもしれない。

東側の炭鉱施設があった部分も、多くの設備は跡形もなく、コンクリートの支柱のみが一列に並んでいたるなど、現役時代の姿からは様変わりしている。

■「海に眠るダイヤモンド」は活気あふれる時代を忠実に再現

端島の所有権は、2001(平成13)年、三菱マテリアルから高島町へ。さらに同町の長崎市編入に伴い2005(平成17)年には長崎市へと移転している。そして、2009(平成21)年から上陸ツアーがスタート。閉山から約30年を経て、誰でも島へ足を踏み入れることが可能になった。

軍艦島上陸ツアー。赤レンガは炭鉱総合事務所
写真=軍艦島デジタルミュージアム
軍艦島上陸ツアー。赤レンガは炭鉱総合事務所 - 写真=軍艦島デジタルミュージアム

ただし、崩落の危険があるため、上陸可能なエリアは島南部の見学通路部分のみ。日給社宅や地獄段、小中学校などのエリアへは足を踏み入れることはできない。日本初の鉄筋コンクリート造の高層住宅・30号棟などは見学できるが、外観のみ。

風来堂『カラーでよみがえる軍艦島』(イースト新書Q)
風来堂『カラーでよみがえる軍艦島』(イースト新書Q)

廃墟となったその姿から「軍艦島」との呼称がいつしか定着し、2015(平成27)年の世界遺産登録もあり、さらなる衆目を集めるようになった端島。「海に眠るダイヤモンド」で忠実に再現された各シーンは、残された廃墟群とともに、その活気あふれる時代を知る手がかりとしても貴重な作品だったといえる。

最終話、食堂の娘として端島に生まれ育ち、失恋の傷を負って島を離れた朝子(宮本信子)が2018年に島を再訪したシーンでは、島の現在と過去がオーバーラップした映像が見ものだった。島の最後の10年を看取った朝子が、第1話で「(端島は)廃墟なんかじゃない」と言った意味が、ドラマを通して見るとよくわかるのではないだろうか。

参考文献:『軍艦島の遺産 風化する近代日本の象徴』後藤惠之輔・坂本道德(長崎新聞社)
『軍艦島 奇跡の産業遺産』黒沢永紀(実業之日本社)
『私の軍艦島記』加治秀夫(長崎文献社)
『軍艦島 離島40年』坂本道德(実業之日本社)
『長崎游学4 軍艦島は生きている! 「廃墟」が語る人々の喜怒哀楽』軍艦島研究同好会監修(長崎文献社)

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風来堂(ふうらいどう)
編集プロダクション
編集プロダクション。国内外問わず、旅、歴史、アウトドア、サブカルチャーなど、幅広いジャンル&テーマで取材・執筆・編集制作を行っている。バスや鉄道、航空機など、交通関連のライター・編集者とのつながりも深い。編集した本に『秘境路線バスをゆく 1~8』『“軍事遺産”をゆく』『地下をゆく』(イカロス出版)、『攻防から読み解く「土」と「石垣」の城郭』(実業之日本社)、『路線バスの謎』『ダークツーリズム入門』『国道の謎』『図解 「地形」と「戦術」で見る日本の城』『カラーでよみがえる軍艦島』(イースト・プレス)、『ニッポン秘境路線バスの旅』(交通新聞社)、『2022年の連合赤軍 50年後に語られた「それぞれの真実」』(深笛義也著、清談社Publico)、『日本クマ事件簿』(三才ブックス)などがある。

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(編集プロダクション 風来堂 構成・文=加藤きりこ)

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