武田信玄でも真田幸村でも島津義弘でもない…歴史評論家が「戦国最強」と考える九州生まれの武将の名前
プレジデントオンライン / 2025年1月8日 15時15分
■「戦国最強武将」の意外なキャリア
戦国最強の武将はだれだったのか。人生のある時期にかぎらず、生涯にわたり最強と呼ぶべき力を発揮し続け、さらには子々孫々まで繫栄させることができたのは、立花宗茂(むねしげ)を措いてほかにいない。
しかも、あの関ケ原合戦で西軍に与し、いちどは改易されながら、である。だが、知名度では必ずしも全国区の武将とはいえないので、生い立ちからざっと紹介していきたい。
生年には2説あるが、有力なのは永禄10年(1567)説で、大友義鎮(よししげ)(宗麟)の重臣だった吉弘鎮理(のちの高橋紹運(じょううん))の嫡男として、豊後国(大分県)の筧城(豊後高田市)に生まれたとされる。幼名は千熊丸で、反乱を起こして討伐された高橋家の名跡を父が継いだため、高橋家の跡取りとして育てられるが、結局、他家に出ることになる。
幼少期から剣術にも弓術にもすぐれ、初陣とされる石坂合戦において、父とは別に軍勢を率いて奮戦し、敵で勇将として鳴らした堀江備前を射たという名高い逸話がある。そういう宗茂(そう名乗るのは後年だが、混乱を避けるために最初から宗茂で統一する)を見て、養子に迎えたいと申し入れてきた人物がいた。紹運とともに大友家の猛将として知られた戸次(立花)道雪であった。
紹運は躊躇しながらも、高齢で男子に恵まれていない道雪のたっての願いを聞き入れ、天正9年(1581)8月、宗茂は道雪の養嗣子になった。
■東の本多忠勝、西の立花宗茂
宗茂の名がとどろいたのは、天正14年(1586)の島津氏との合戦においてだった。押し寄せる島津勢は筑前国(福岡県)の岩屋城(太宰府市)を攻め、実父の紹運以下、城兵をことごとく戦死させた。さらに紹運の次男(宗茂の弟)の直次が守る宝満城(太宰府市)も落城させた。
島津勢はいよいよ、宗茂が拠る立花山城(福岡市東区)の包囲を開始するが、宗茂は交渉の末に島津勢にいったん撤兵させると、島津方の高鳥居城(福岡県笹栗町)を攻めて激戦の末に落城させ、さらに岩屋城と宝満城も奪回した。とりわけ高鳥居城攻めに関し、のちに豊臣秀吉から「九州之一物(九州でもっともすぐれている者)」と激賞されている。
また、これを機に秀吉は宗茂を、直臣に迎え入れることにしたようで、九州征伐では島津攻めの先鋒を命じられ、竹迫城(熊本県合志市)、宇土城(同宇土市)、出水城(鹿児島県出水市)、大口城(鹿児島県伊佐市)といった諸城を次々と落とした。こうした功によって筑後(福岡県南部)に13万2000石の領土をあたえられる。以後は居城の柳川城(福岡県柳川市)と上方のあいだを、頻繁に往来する生活を送るようになった。
天正18年(1590)小田原征伐に際しては、秀吉が諸将の前で宗茂のことを「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と紹介したという逸話も残されている。
■朝鮮出兵での無双の働き
朝鮮出兵での働きも際立ったと伝わる。文禄の役では、たとえば文禄2年(1593)1月、漢城(現在の韓国ソウル特別市)をめざして南下する李如松(り・じょうしょう)率いる明軍を迎撃して打ち破った碧蹄館(へきていかん)の戦いで、先鋒を務めて奮戦し、みずから馬を駆って敵を討ち取り勝利に貢献した。
帰国後、秀吉から伏見城下に屋敷地をあたえられ、聚楽第にあった狩野永徳や長谷川等伯らの障壁画で飾られた御殿まで拝領したという。秀吉から最高レベルの評価を受けたということである。
慶長の役でふたたび渡海すると、蔚山(うるさん)城の戦いなどで戦功を上げ、とりわけ、その折の般丹(はんたん)の戦いでは、わずか800の兵を率いて明軍2万2000の兵を夜襲し、700の首級を挙げたとされる。こうした戦功は、包囲されて危機にあった加藤清正も激賞したという。
だが、慶長3年(1598)8月に秀吉が没し、帰還命令を受けて日本に戻ってから、この無敵の武将も道を誤る。前述のように、関ケ原合戦で西軍に与したのである。
■なぜ西軍に属したのか
宗茂が日本に帰還後、西軍に身を投じるまでの経緯は具体的にはわからない。いずれにせよ、慶長5年(1600)7月、大坂にいた五奉行の長束正家、増田長盛、前田玄以らが徳川家康への弾劾状である「内府ちかいの条々」を出し、豊臣秀頼に忠誠を尽くすように説く連署状を発すると、宗茂はそれを受け入れた。
しかも島津義弘の書状によると、宗茂は1300人の軍勢を率いればいいところを、4000人を率いて大坂城に入った。その理由を義弘は「秀頼様に対したてまつる御忠誠のため、御軍役の人衆過上の由」と書いている。実際、自分を評価し取り立ててくれた豊臣家への忠誠心から、西軍に与したということなのだろう。
だが、関ケ原の本戦には加わっていない。9月3日、西軍に加わりながら東軍に寝返った京極高次を、居城の大津城(滋賀県大津市)に攻める軍に参加し、高次が降伏した9月15日に関ケ原での本戦が行われたからである。
西軍の敗戦後、『立斎旧聞記』などによると、宗茂は毛利輝元や増田長盛らに大坂籠城を説いたが、容れられずに九州に帰還。九州で東軍と戦ったが和睦交渉の末、10月25日に柳川城を開城した。
それでも柳川の領地が安堵されることを期待していたようだが、宗茂の旧領をふくむ筑後は田中吉政にあたえられることになり、立花家は改易に。宗茂は牢人生活を余儀なくされた。
■ここからが「最強武将」の真骨頂
ここまでだけでも宗茂は、十分に「最強の武将」なのだが、むしろこの先こそが、宗茂の真骨頂ではないだろうか。
その間、加賀前田家などから招聘されたというが受けていない。なるべく京都に滞在し、江戸と京都や伏見のあいだを往復していた家康と交渉する機会をうかがっていたのだ。浪人生活が6年におよんだ慶長11年(1606)11月以降、ようやく奥州棚倉(福島県棚倉町)に領土をあたえられた。
5000石からはじまって1万石に加増され、最終的に3万石に達している。その間、将軍秀忠の警護や江戸城の守衛などの「番方」を命じられ、徳川家からの信頼はかなり回復していたことになる。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣には秀忠の参謀として供奉し、毛利勝永の軍勢を防ぐなどの活躍が記録されている。翌年、家康が没する前後の重要な時期に、江戸城大手の守衛にあたっていたことからも、かなり重用されていたことがわかる。その後、将軍家の御噺衆にも選ばれている。
元和6年(1620)、ついにその日が来た。8月4日、柳川城主の田中吉政が継嗣のないまま死去し、田中家は改易になる。それを受けて11月27日、宗茂が柳川に再封されることが決定したのである。ちなみに、関ケ原合戦で西軍に加わって改易されながら、旧領の大名として復活できた人物など、ほかにだれもいない。
翌年2月28日、宗茂はおよそ20年ぶりに柳川城に入城した。石高は10万9200石。かつてより若干少ないが、さほど遜色ない。
■家康の息子と並ぶほどの地位に
だが、それから寛永11年(1634)までのあいだ、宗茂はほとんど江戸で過ごし、柳川には3回しか下向できていない。大御所になった秀忠と将軍になった家光の覚えがめでたすぎて、あらゆる場所に相伴を求められ、暇をもらえなかったのである。種々の茶席はもちろん、二条城に後水尾天皇を迎えたときも相伴している。諸大名は羨望のまなざしを向けていたと伝わる。
山形の鳥居忠恒が重病を患い、国替えが近いという風聞が流れた際、代わって山形に転封になる候補として挙がったのは、宗茂のほか家康の外孫で養子でもある松平忠明だった。要するに、宗茂は家康の息子と並ぶほどの地位と信頼を勝ち得ていた、ということである。
その後も、秀忠が病に伏せば日々駆けつけ、秀忠の没後は家光の覚えがいっそうめでたく、たとえば、細川忠興は加藤清正の後継の忠広の改易についても、その他のお家騒動も、情報は宗茂から得ていた。宗茂が幕政の機密情報にいかに通じていたか、ということである。
こうした状況は宗茂が隠居したのちも続いた。宗茂が76歳で没したのは寛永19年(1642)11月25日で、床に伏してからの宗茂のことを、家光は周囲がいぶかるほど気にかけていたという。
■明治まで家を存続させた
前述のように剣術にも弓術にも長け、兵法を心得、戦場で無双の強さを誇った宗茂だが、それだけではなかった。連歌、茶の湯、香道、さらには蹴鞠から狂言まで、文武を問わず広く芸達者だった。
芸があればこそ、あらゆる場でふさわしいふるまいが可能で、だからこそ天下人に相伴を求められる。忠義の心が認められ、そこに鍛えられた話術が加わって、なおさら信頼を勝ち取る。
このように万能であったからこそ、宗茂は関ケ原合戦で西軍に加わりながら、徳川幕府のもとでただ一人、旧領の大名として復活できたのだろう。子女には恵まれなかったが、弟の直次の四男を養子に迎え入れ、その忠茂に家督を継がせて、結局、立花家は転封されることも減封されることもなく明治まで存続できた。
このように全方位から評価したときに、戦国最強の武将は立花宗茂一択であるといえるのではないだろうか。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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