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徳川家康ほど強運の武将はなかなかいない…秀吉の攻勢で絶体絶命に追い込まれた家康を救った意外な出来事

プレジデントオンライン / 2025年1月15日 16時15分

徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(画像=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

徳川家康は長い生涯の中で幾度も危機を迎えている。歴史学者で健康科学大学特任教授の平山優さんは「小牧・長久手合戦後の家康は、国内外で難題を抱え苦境に立たされていた。その状況を救ったのは思わぬ天災だった」という――。(第2回)

※本稿は、平山優『小牧・長久手合戦』(角川新書)の一部を再編集したものです。

■家康を苦しめ続けた「戦国屈指の食わせ物」

天正12年11月、小牧・長久手合戦の終了後、家康は困難に直面していた。同盟者織田信雄が、秀吉に屈服したことで、信長以来の織田・徳川同盟(いわゆる清須同盟)は、完全に有名無実化した。そのため、家康は、今後迫り来るであろう秀吉の脅威に対抗するためには、北条氏政・氏直父子との同盟を頼りにする他なかった。

だが、北条氏との同盟を強化するためには、天正壬午の乱終結以来の懸案を解決しなければならなかった。それは、上野国沼田・吾妻領問題である。

家康は、北条氏と和睦、同盟を成立させた時に、上野国一国は北条領国とすることで合意していた。ところが、上野国沼田・吾妻領は、信濃国衆真田昌幸が自力で確保した領域であり、昌幸は容易にこれを手放そうとはしなかった。

家康は、天正11年以来、昌幸の説得を続け、徳川軍が対上杉戦の拠点として築かせた上田城を下賜した引き換えに、上野国沼田・吾妻領割譲を求めたが、昌幸は上田城を自分のものにしただけで、家康の要求にはまったく応じようとしなかった。

業を煮やした家康は、天正12年6月、信濃国衆室賀正武に命じて、昌幸暗殺を仕掛けたが返り討ちにあい、家康と昌幸の関係は悪化した。

■まさかの敗戦

天正13年2月5日、家康は、三河惣国の人足で三河吉良城の修築を実施し(『家忠日記』)、秀吉との対決に備え始めた。家康が秀吉との決戦に備え、修築したと推定される城は、三河・遠江・駿河の各地に及んでいるといわれる。

緊迫したなか、家康は天正13年4月から6月7日にかけて、甲斐に出陣し、甲府に滞在した。これは真田説得のための出陣であったといわれ、軍事力を背景に昌幸に圧力をかけたのであろう。家康は、昌幸説得のため使者を派遣したが、交渉は決裂し、遂に昌幸は徳川氏から離叛したのである。

真田昌幸は、上杉景勝と交渉し、7月、対徳川戦のための支援を取り付けることに成功した。家康は、自身は浜松城に戻っていたが、遂に甲斐・信濃の軍勢を真田攻めに出陣させた。閏8月、徳川軍は、上田城に籠城する真田昌幸・信幸父子を攻めたが敗退した(第一次上田合戦)。

上田城
上田城(写真=Ans~jawiki/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons)

真田軍は、上杉援軍と合流し、小諸城に退却した徳川軍に再戦する隙を与えなかった。信濃国佐久郡は、徳川の敗北に動揺していた。家康は、思わぬ危機に見舞われたのである。

■秀吉と戦えば徳川家滅亡の危機

だが、家康の危機はさらに深化した。秀吉から、上洛し臣従するよう迫ってきたからである。拒否すれば、秀吉との対決は避けられないが、徳川家中は、あくまで臣従を拒否する姿勢を固めていた。

こうしたなか、徳川家中において唯一、秀吉に臣従すべきことを説いたのが、重臣石川数正であった。数正は秀吉との取次役であり、彼は京や大坂を頻りに往復していたこともあって、大坂城を見聞するなど、秀吉の実力をよく理解していた。数正は、戦えば徳川は滅亡の危機に陥ることを、熟知していたのである。

天正13年10月28日、徳川家中では、秀吉の要求に従うか、拒否するかをめぐって、評議が開かれた。徳川の重臣らは、あくまで拒否することで一致し、反対は数正ただ独りという状況であった(『家忠日記』『三河物語』他)。

この評議が行われる直前、信濃国松本城主小笠原貞慶が、秀吉の調略に応じ、徳川方から離叛したことが発覚した。このため、信濃で徳川氏が維持できていたのは、わずかに佐久・諏方・伊那の三郡のみで、残る八郡は秀吉方となってしまったのである。徳川の領国は、大きく縮小するのを余儀なくされた。

新たに離叛した小笠原貞慶の取次役もまた、石川数正であった。貞慶の離叛は、取次役としての数正の面目を失墜させるとともに、その責任問題にも発展することとなったのである。

■重臣・石川のまさかの出奔

家康は、天正13年11月11日、本国三河における一向宗寺院の赦免を決定し、秀吉との対決に備え、一向宗の協力を得ようとした。その直後の、11月13日夜、徳川重臣石川数正は、妻女ら一族と小笠原貞慶の人質幸松丸(後の小笠原秀政)を連れて、岡崎を出奔し、尾張に退去したのである(『家忠日記』)。徳川家中は大混乱に陥った。

家康は、信濃小諸城で再度の上田攻めを窺っていた大久保忠世、平岩親吉、芝田康忠に、浜松に帰還するよう命じた。信濃には小諸城に大久保忠教が、伊那郡には菅沼定利、甲斐には鳥居元忠だけが残留した。

これに対し、上田城主真田昌幸は、佐久郡への侵攻を企図し、その後は甲斐を奪取する目論見を立てていた。そればかりか、昌幸は、景勝を通じて秀吉とも結び、その支援を取り付けることに成功し、松本城主小笠原貞慶も昌幸支援に動き出しつつあったのである。

また、秀吉の調略により、信濃伊那郡では、市田城主松岡貞利が謀叛を企てて鎮圧されるなど、動揺は広がりつつあった。

徳川氏は、11月18日より、三河岡崎城の大改修に着手し、城代として本多重次を配置した。11月23日には、三河衆の妻女らを、遠江国二俣城に移し、譜代らの離叛を防ごうとはかっている。

11月28日、石川数正出奔を受け、織田信雄は、織田一門織田長益、重臣滝川雄利、土方雄久を使者として家康のもとに派遣し、家康に秀吉との講和を勧告した。だが、家康はこれを拒否している(『家忠日記』他)。これで、秀吉との対決はますます避けられない情勢となった。

■歴史を変えた天正地震

ところが、ここで歴史を変える大災害が発生する。11月29日亥刻(午後10時頃)、内陸部を震源とするマグニチュード7.2〜8と推定される巨大地震が、中部、北陸、東海地方西部、近畿地方を襲った(天正地震)。さらに巨大な余震が30日丑刻(午前2時頃)にも発生し、それは12月23日まで続いたという(『家忠日記』他)。

この地震は各地に大きな被害をもたらした。飛驒では帰雲山が大崩落を引き起こし、土石流により国衆内ヶ島氏理は居城帰雲城もろとも巻き込まれ、一族、家臣とともに滅亡したことは著名である。この他に、越中木舟城が崩落し、城主前田秀継とその夫人、家臣の多くが圧死したほか、近江長浜城も御殿などが倒壊し、山内一豊の息女与禰姫が圧死している。

秀吉が、来るべき徳川との戦いのために、兵糧や玉薬などを備蓄していた美濃大垣城も全壊焼失してしまった。織田信雄の本拠である伊勢長島城も焼失している。秀吉の居城大坂城にも被害が出ており、秀吉方の諸大名の多くが被災し打撃を受けた。

いっぽう徳川領国の被害は極めて軽微であった。この天正地震により、秀吉は家康を攻撃することが困難となったのである。天正13年は、各地を大飢饉が襲った年でもあったため、秀吉は、家康を軍事力で打倒する強硬路線から一転して、上洛を促す融和路線へと舵を切ることになった。

■そして家康は秀吉に臣従した

天正14年1月、秀吉と信雄は、家康のもとへ富田知信、滝川雄利を派遣したが、徳川方は頑なであったようだ。そこで、織田信雄は、1月27日、自ら三河岡崎城にやってきた。家康も浜松城から岡崎に出向き、対面した。

信雄は秀吉への臣従を勧め、上洛を促したようだ。信雄は29日に伊勢に帰っている。ここに家康は、信雄の仲裁を諒解し、秀吉との和睦を受諾した(『貝塚御座所日記』他)。秀吉は、2月8日に「家康を赦免した」と諸将に報じている。さらに秀吉は、徳川領国の切り取りを目論む真田昌幸に、2月30日付で「矢留」(停戦)を命じている。

平山優『小牧・長久手合戦』(角川新書)
平山優『小牧・長久手合戦』(角川新書)

家康は、3月、同盟者北条氏政・氏直父子と駿豆国境の沼津・三島で会談を行い、万一、秀吉と戦争になった場合には協力することで合意している。

秀吉は、家康の上洛と臣従を促すべく、4月、秀吉の妹旭姫を家康の正室とすることとした。その後、双方の行き違いなどで一時緊張が走ったが、家康と旭姫の婚儀は、5月14日から3日間、浜松城で実施された(『家忠日記』他)。当時、家康は45歳、旭姫44歳であった。

家康は、5月24日、遠江二俣城に移していた三河衆の人質をすべて返し、東部城の破却を命じた(『家忠日記』他)。こうして家康は、臨戦態勢を解除したのである。

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平山 優(ひらやま・ゆう)
歴史学者、健康科学大学特任教授
1964年、東京都生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。山梨県立博物館副主幹、山梨県立中央高等学校教諭などを経て、現在は健康科学大学特任教授。大河ドラマ「真田丸」「どうする家康」の時代考証を担当。著書に、『真田信繁』『武田氏滅亡』『戦国大名と国衆』『徳川家康と武田信玄』(角川選書)、『戦国の忍び』『小牧・長久手合戦』(角川新書)、『天正壬午の乱 増補改訂版』(戎光祥出版)、『新説 家康と三方原合戦』(NHK出版新書)、『徳川家康と武田勝頼』(幻冬舎新書)などがある。

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(歴史学者、健康科学大学特任教授 平山 優)

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