「収穫できるのは早春の限られた期間だけ」メープル・シロップが"カナダの名産品"になった歴史的背景
プレジデントオンライン / 2025年2月1日 9時15分
2025年1月8日、イギリス、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホール。シルク・ドゥ・ソレイユ「コルテオ」のリハーサル中の出演者 - 写真提供=©Cover Images/Cover Images via ZUMA Press/共同通信イメージズ
※本稿は、山野内勘二『カナダ 資源・ハイテク・移民が拓く未来の「準超大国」』(中公新書)の一部を再編集したものです。
■大道芸の概念を凌駕するパフォーミング・アーツの誕生
シルク・ドゥ・ソレイユ
何事につけ、偉業が始まる創世記は興味深い。
しばし、1979年に遡ろう。当時、ケベック州の若い大道芸人たちが集まり、ヒッチハイクで州内を巡り大道芸を披露していた。継続は力なりとは、良く言ったものだ。徐々に、その集団に有為な人材が参集し始める。
そして、82年になると、起業家ジル・サンクロワが、これはと信頼するダンサー、火吹き芸人、ジャグラー、竹馬乗り、そしてミュージシャンらを集め、「ベー・サン・ポールの竹馬乗り」と名乗り始める。才能と野心にあふれる若き大道芸人のグループの誕生だ。
そこに、鬼才ギー・ラリベルテが参加する。18歳にして故郷ケベック・シティーを出て大西洋を越えて、単独でヨーロッパ諸国を周って、アコーディオンを弾き、竹馬乗りや火喰いの大道芸をやっていた人物だ。
ギーとジルの出会いが、このグループを異次元へと昇華させる。従来の大道芸の概念を完全に凌駕するまったく新しいスタイルのパフォーミング・アーツが誕生したのだ。ヒッチハイクで州内を周り、極上の演技を披露。きわめて高い評価を得るものの商業的には厳しく、破綻寸前に追い込まれる。
■1984年「シルク・ドゥ・ソレイユ」として活動開始
しかし、83年、カナダ芸術振興財団から支援を獲得。探検家ジャック・カルティエがケベック州周辺を「ヌーヴェル・フランス」と名付けた1534年の歴史的航海から450周年を祝する記念イベントへ招聘されたのだ。
そこで、ギーとジルの下に精鋭73名のスタッフとパフォーマーが結集。新しい演目を練り上げる。そして、84年、「シルク・ドゥ・ソレイユ(太陽のサーカス)」として活動を開始。
「『太陽』は、若さとエネルギーを象徴している。サーカスが必要としているのは、その二つだ」と、共同創設者ギー・ラリベルテは言う。
筆者の独断だが、太陽は、若き天才詩人アルチュール・ランボーを連想させる。植民地軍の傭兵の行軍であれ、聖地巡礼の旅であれ、砂漠をめぐるキャラバンであれ、太陽はランボーの周囲を廻り、光と影を交互にもたらす。そこには、常識を超えたサーカスの曲芸と情熱が宿る。
■米国公演の圧倒的成功
シルク・ドゥ・ソレイユ公演は、ケベック州内外の観客を魅了した。既成のサーカスならば必ず登場する動物は、ここには一切いない。磨き抜かれた人間の美と知と技を見せつけるのだ。当初は、カナダ芸術振興財団のバックアップによる1年間だけの時限パフォーマンスだった。ところが、ケベック州政府が価値を認め、翌年の支援も申し出る。まったく新しい現代のサーカスは、劇場的な要素を際立たせつつ、強力なパフォーマーを採用し、公演内容をアップグレード。国内を巡り、評価は否が応でも高まっていく。
87年、飛躍の時が来る。初の米国公演を敢行。その革新的なパフォーマンスは、目の肥えた観客を魅了し、メディアをも驚かせた。四方を客席で囲まれたステージには緻密なデザインが施されている。人間技とは思えないアクロバティックな妙技は、スリルに満ちる。カラフルな照明と時に官能的な音楽が観客を高揚させ刺激する。米国公演の圧倒的な成功は、シルク・ドゥ・ソレイユを現代のエンターテインメントの頂点へと押し上げた。
以降、世界各国を公演ツアーで周っており、これまでの観客総数は1億人を超えるという。
■新型コロナの感染爆発時には最大の危機に
特筆すべきは、公演の質を決めるパフォーマー・アーティストについては、常に最高の人材をリクルートしていることだ。公募もしているが、専任のスカウトが世界各地に派遣されている。新体操やトランポリン、アーティスティックスイミングなどの競技のオリンピック金メダリストや世界チャンピオンらが参加している。
すべての演目が、オリジナルであり、それぞれに個性的だ。そのための音楽もオリジナルで、高水準の音楽家が集結。ショーに合わせた生歌と生演奏で圧倒的な臨場感が生まれる。そんな中で特異なのは、米国ラスベガスのホテル「ミラージュ」で2004年以来、常設公演されている『ラブ』だ。これはビートルズの音楽をモチーフにしたミュージカル仕立て。そのサウンドトラック盤は、ビートルズが録音した全213曲のうち130曲の楽曲の全部または一部を使って完全にリミックスされ、『ビコーズ』から『愛こそはすべて』までの26曲に切れ目なしで再構成されている。伝説のプロデューサー、サー・ジョージ・マーティンの遺作でもある。
衣装、大道具・小道具に至るまで、最高の質を確保するために外注せず、すべて自前で用意。衣装工房では、毎年6.5キロメートル以上の布を世界中から集めて、意匠を凝らした舞台衣装やセットを制作するという。桁違いだ。
最大の危機は、2020年に世界を襲った新型コロナ感染爆発だった。興行収入が絶たれ、倒産し、ケベック最高裁判所に企業債権者調整法の適用を申請した。
24年3月現在、危機を乗り越え、3都市での8つの常設公演と11の移動公演を行っている。
■世界で流通するメープル・シロップの80%がカナダ産
メープル・シロップ
1965年1月、カナダ君主としてのエリザベス2世によって国旗制定の宣言が行われ、従来の英国のユニオン・ジャックを基にした意匠から完全なオリジナルに変更された。両側に赤のラインを持ち白地の中心には堂々と真っ赤な楓の葉が描かれている。
楓は、カナダという国家を象徴する樹木だ。どの街にも楓をイメージした意匠があふれている。国技アイスホッケーの有力チームの一つが「トロント・メープルリーフス」でもある。楓は、カナダ社会の隅々にある。そして、楓がもたらす自然の恵みがメープル・シロップだ。樹液を濃縮した甘味料で、ホットケーキやワッフルにかけたり、菓子の材料として用いられる。空港の免税店などには必ずあるカナダを代表する土産物でもある。しかも、世界中で流通しているメープル・シロップの実に80%がカナダで生産されたもので、その90%はケベック州産。と言うことは、世界のメープル・シロップの72%がケベック州産ということになる。
■収穫できるのは早春のごく限られた期間だけ
だが、一口に楓と言っても100種類以上あるが、カナダ原産は10種類。そのうち、美味しいシロップをつくれる樹液を採取できるのは、サトウカエデ、黒カエデ、赤カエデが中心で、銀カエデ、ハナカエデを含めて5種類と言われている。
摂氏マイナス30度を下回る過酷な冬に備えるために、夏の間にエネルギー源として貯めた糖分が木に吸収された水分に溶け込んで、天然の成分が詰まった樹液となる。そして、春先になると、夜間に氷点下に下がった気温が日中に上がることで、木が雪解け水を吸い上げ、樹液を押し出すという循環が起こる。木の表面に穴を開けておくと樹液が流れ出す、というメカニズムで採取する。重要なのは、氷点下と氷点以上の温度差だ。それがないと、樹液は流出しない。実際に樹液を収穫できるのは早春のごく限られた期間だけだ。
■起源は先史時代に遡るという
しかし、樹液を収穫したからと言って、そのまま商品になる訳ではない。樹液を舐めてみれば、ほのかに甘さを感じるものの、ほぼ水だ。樹液を煮詰めて濃縮してメープル・シロップができ上がる。1リットルをつくるためには40リットルの樹液が必要だ。
特筆すべきは、起源を辿ると、先住民がカナダの厳しい気候を生き抜く中で、古くから楓の恵みと製法を知るに至ったことだ。ヨーロッパと出会うはるか前、先史時代に遡るという。実は、カナダに植民したヨーロッパ人が、厳しい冬の最中に食料もなく困窮した時に、先住民がメープル・シロップを与えてくれて生き延びたという逸話も残っている。天然の恵みは、栄養価が高く生存に必要なビタミンを豊富に含んでいるのだ。
やがて、開拓者たちは、先住民から教わった収穫方法を発展させ、産業としてのメープル・シロップをつくり始める。18世紀は、バケツに集めた樹液を煮詰めるための小屋(シュガー・シャック)に運んでいた。バケツが樽に代わり、小屋に運ぶ手段が馬車、トラクターへと進化した。生産者は、家族経営を基本としつつ、大規模化するものも現れた。
■ケベック州の早春の風物詩「パンケーキ・ハウス」
現在、ケベック州では実に1万1300人の生産者と7400社の企業で構成されるメープル・シロップ生産者協会があり、品質に応じて等級を付し、販売量・価格設定・流通方法などを厳しく統制して、品質を管理し、ブランド価値を守っている。規模の大きな生産者は、ファーム内に植えた1万本を超える楓から特殊なビニール・チューブで樹液を製造工場に集めて、効率よく生産している。
収穫の時期に合わせて、期間限定の「パンケーキ・ハウス」と呼ばれるレストランも開かれる。取れたてのメープル・シロップを味わうために、パンケーキやワッフル、フレンチトーストを中心に、メープル・ベーコンやソーセージ、メープルで煮込んだ豆、オムレツなどが提供される。ケベック州の早春の風物詩だ。人気のパンケーキ・ハウスは常に予約が一杯だ。そして、隣接する建屋に、かつてシロップづくりに使用された道具、機材、器、さらには写真や書類などを展示している生産者もある。カナダは若い国ではあるが、開拓時代がリアルにしのばれる。
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駐カナダ日本国特命全権大使
1958(昭和33)年生まれ、長崎県出身。1984年、東京外国語大学卒業、外務省入省。在アメリカ合衆国日本国大使館一等書記官、九州・沖縄サミット準備事務局次長、在大韓民国日本国大使館参事官、北米第一課長、総理大臣秘書官、アジア大洋州局参事官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、経済局長、在ニューヨーク日本国総領事・大使などを歴任して、2022年5月より現職。
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(駐カナダ日本国特命全権大使 山野内 勘二)
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