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吉原の遊女見習い「新造」は水揚げ前に体を売ることもあった…「おやぢ」客の相手をした少女たちの胸の内

プレジデントオンライン / 2025年1月27日 7時15分

十返舎一九著、喜多川歌麿画『青楼絵抄年中行事』上之巻(版元:上総屋忠助)1804年。(出所=国立国会図書館デジタルコレクション)

大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)で再現された江戸時代の吉原と遊女たち。「べらぼう」より遡る時期の吉原遊廓について研究している髙木まどかさんは「吉原に売られた少女たちは、13歳ぐらいで遊女見習いの『新造』となったが、水揚げ前の見習いでありながら、時に太夫の10分の1ぐらいの値段で客を取らされることもあった」という──。

※本稿は、髙木まどか『吉原遊廓 遊女と客の人間模様』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

■13歳ぐらいまでは「禿」、水揚げまで「新造」として働いた少女たち

女衒を介して吉原に入った娘たちは、客をとれるほどの年齢であればいきなり遊女として働くこともありました。まだその年齢に満たなければ、まずは見習いとして自分の面倒をみてくれる姉女郎に付き従い、徐々に吉原の作法を覚えていきます。

花魁道中を描いた絵には、たいてい遊女の後ろに対になって歩く少女たちがいますが、それがその見習い、「禿(かぶろ)」と「新造(しんぞう)」です。禿はたいてい7、8歳から12、13歳くらいで、やがて「新造出し」というお披露目を経て新造となります。さらに新造は16〜18歳くらいにはじめて客と新枕(にいまくら)を交わす「水揚げ」を経て、正式に遊女となりました(目安の年齢は時代によって違いがあります)。

「遊女になる」というのは、太夫・格子女郎・散茶女郎など、種々ある遊女の位のいずれかにつくことです。しかし、新造のなかには遊女になるルートからはずれて、下女や遊女のお目付役となるひともいました。

■太夫・格子女郎・散茶女郎。遊女の地位が変動することもあった

いずれかの位についたとしても、それで「安泰」とはいきません。遊女の位はかなり流動的なもので、位を下げられて名前をかえるのはもちろん、お店をかえ、別の遊女のように勤めることも間々ありました。

『吉原失墜』(延宝2年<1674>)には、いたましいことに、名を馳せた格子女郎でさえ、最下位の端(はし)女郎に降りることは珍しくなかったと書かれています。どうして位が落とされるのか。それはやはり、人気が落ちるというのが一番の理由のようです。妙な評判がたってしまい客が離れたとか、病でつとめがままならないとか、年齢を重ねたという理由もあったでしょう。

一方で、位が上がるということもありました。『吉原大雑書』(延宝3年<1675>)には、よしおかという遊女(角町庄右衛門抱え)が、去年までは散茶女郎だったのに、思いがけず格子女郎に「とんぼがえり」したとあります。とんぼがえりということは、もともと格子女郎だったのが、位を落とされ散茶女郎になり、また格子女郎に戻ったという意味でしょう。よほど人気がでたんでしょうか。

■高級遊女になっても、その地位に居続けることは難しかった

ただ、こうした位上がりは、必ずしもおめでたい事柄ではなかったようです。というのも、同書には続いて「散茶から格子に上がれば、最下位の端女郎に降りることもたやすい」とあります。どういう理屈なのかよくわかりませんが、一度位がかわると身分は変わりやすくなったのかもしれません。いずれにせよ、たとえ高級遊女といわれる位についたとしても、その地位に居続けることは難しかったことがわかります。それでは、遊女になるかならないか、いずれの位につくか等の判断は、誰によってなされたのでしょうか。

ひとつ、興味深い例として、亡くなった遊女の「ついせん」(追善供養)で、その妹女郎を最高位の太夫に据えたという遊女の話が『吉原人たばね』(延宝8年<1680>)にあります。それによれば、三浦屋の唐崎(からさき)という太夫が亡くなったあと、その同僚であった小紫(こむらさき)という太夫が、唐崎の形見である「かせん」を太夫に引き立て、薄雲(うすぐも)という名前でデビューさせたとのこと。

三浦屋は吉原のなかでも数多の名妓を輩出した有名な店ですが、なかでも「薄雲」は三代にわたって襲名された名高い太夫名です。商売敵の妹女郎を太夫に引き立てるのみならず、薄雲を名乗らせたことに、『吉原人たばね』の作者今宮烏(いまみやがらす)はいたく感激しています。

これは姉女郎が亡くなり、その妹女郎を他の遊女が推薦したというケースですが、評判記にはしばしば新米の遊女について「○○(姉女郎の名前)の引き立てなり」といった文言がみられます。姉女郎に目をかけてもらえるかどうかは、妹女郎の出世に大きくかかわっていたんでしょう。

芝全交著、北尾重政画『鶸茶曽我 3巻』(版元:千二堂)1780年。
芝全交著、北尾重政画『鶸茶曽我 3巻』(版元:千二堂)1780年。(出所=国立国会図書館デジタルコレクション)

■安価な散茶女郎が人気の頃は、逸材でもランクダウンすることも

もちろん、姉女郎の独断によって位が決定する訳でなく、遊女を抱えるお店の楼主(亭主)や女将の意向も重要でした。『吉原丸鑑』という評判記には、しがさきという散茶女郎について、「本当は太夫や格子女郎でもおかしくないのに、そうでないのは、亭主が店の繁盛を優先させたからだろう」と書かれています。

『吉原丸鑑』が書かれた享保5年(1720)の頃は、高級遊女を買えるような客が減ってきて、比較的安価な散茶が人気の時代です。たとえ高級遊女になり得る逸材であろうと、あえて下の位につかせて客を沢山とらせるという、楼主の経営上の判断があったことがうかがえます。くわえて、高級遊女を呼んで遊ぶ店である揚屋側の意向が、遊女の位を左右する場合もありました。

■遊女の先輩後輩の間に、姉妹のような思いやりが生じたことも

妹女郎も、ひとたび位につけば、姉女郎の商売敵です。そうなると、あまりいい位につかせたがらなかったんじゃないかと想像してしまいますが、なかには「格子女郎なのに新造から太夫を出した」という、自分より妹女郎を出世させた姉女郎もいたようです。

近代の遊女屋では家族を模した経営方針――すなわち、楼主夫婦を親として、遊女を娘たちとみなすようなやり方がとられていたことが知られていますが、江戸時代の吉原でもそうした形がとられていたのかどうかは、はっきりしません。ただ、こうした例をみるかぎり、少なくとも擬似的な姉妹関係は成り立っていて、姉が妹を心配するように、妹女郎の出世を気遣っていた様子が目に浮かびます。

とはいえ、破天荒(はてんこう)な姉女郎と、それに困るおとなしい妹女郎などという、性格のあわない組み合わせも多くあったでしょう。実際、姉女郎に付き従って作法を習う新造の期間は、妹女郎にとってかなりシンドイところがあったようです。

十返舎一九著、喜多川歌麿画『青楼絵抄年中行事』下之巻(版元:上総屋忠助)1804年。
十返舎一九著、喜多川歌麿画『青楼絵抄年中行事』下之巻(版元:上総屋忠助)1804年。(出所=国立国会図書館デジタルコレクション)

■姉女郎にこき使われる16~18歳の「新造」の辛さ

『吉原つれづれ草』(宝永6年<1709>頃)には、新造の時の苦労について、「腹を立てたくなるようなことが沢山あって、物悲しく、心がひねくれてしまうことも多い」とあります。どうにも心が塞いでしまうような出来事が、日々あったのでしょう。さらに、「お目付役の遣手をお師匠様のように怖がって、姉女郎の思いのままに動き、腰元(下女)のようにこき使われるのは、禿の時とかわらない」ともあり、禿から新造にあがっても、その辛さは続いたようです。

禿が姉女郎の道中にくっついて歩く姿はよく描かれていますが、ほかには、料理や食器を運んだり、手紙を客に届けたりといった雑用もこなしました。くわえて、字の手習いや、三味線などの稽古も、遊女になるためには欠かせません。姉女郎に付き従い夜遅くまでお座敷にでることもあったでしょう。挿絵にみえる禿のなかにはほとんど赤ん坊のような子もいますから、年下の子守もしていたかもしれません。遊びたい盛りの幼い子どもには、さぞ忙しい毎日だったのではないでしょうか。

■新造は太夫の10分の1の値段で客をとらされることもあった

髙木まどか『吉原遊廓 遊女と客の人間模様』(新潮新書)
髙木まどか『吉原遊廓 遊女と客の人間模様』(新潮新書)

新造になってもそうした雑用はなくならないばかりか、客をとる、という新たな仕事も加わりました。先に、新造が遊女になるのは16〜18歳くらいと説明しましたが、実は、それ以前から、姉女郎の許しを得て、客をとることは間々ありました。花代は細見などに書かれないことが多いですが、おおよそ2朱くらいだったといいます。江戸中期頃、太夫を呼ぶだけで、今の相場に換算して10万円ほどかかるとすれば、新造は1万円未満で済むのです。

そんなふうに安価だからでしょうか、新造にはあまりいい客がつかなかったといいます。『吉原つれづれ草』いわく、新造の客は、姉女郎の名代(みょうだい)のほかはもっぱら「おやぢ」「座頭(剃髪(ていはつ)した盲人)」「太鼓持(たいこもち)」であり、新造はこれらの人に身をまかせることを恥じ、他人を羨んだとか。新造のなかには姉女郎のお客に惚れ込んでしまうようなひともいたようですが、それは普段の相手によほど「ムリ!」と思う客が多かったからなのかもしれません。

十返舎一九著、喜多川喜久麿画『跡着衣装』、1804年。
十返舎一九著、喜多川喜久麿画『跡着衣装』、1804年。(出所=国立国会図書館デジタルコレクション)

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髙木 まどか(たかぎ・まどか)
成城大学非常勤講師ほか
東京都生まれ。成城大学非常勤講師、徳川林政史研究所非常勤研究員ほか。成城大学大学院文学研究科修了、博士(文学)。著書に『近世の遊廓と客』がある。

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(成城大学非常勤講師ほか 髙木 まどか)

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