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だから大河「べらぼう」には「松平」が多すぎる…家康の一族だけではない大量に存在した松平姓の序列4段階

プレジデントオンライン / 2025年1月26日 9時15分

黒漆葵紋蒔絵螺鈿刀掛(江戸時代)の写真を一部加工、東京国立博物館蔵、国立博物館所蔵品統合検索システム

徳川10代将軍・家治の時代(在職1760~87年)を描く大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)。系図研究者の菊地浩之さんは「主人公は蔦屋重三郎だが、徳川政権の内部も描かれる。その中枢部には後の老中・松平定信など、松平姓の重要人物が何人もいた」という――。

■大河ドラマ「べらぼう」に登場する4人の松平

2025年大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)は主人公・蔦屋重三郎(横浜流星)の活躍を描きつつ、並行して老中・田沼意次(渡辺謙)の政治も描こうとしている。

第2話で田沼が3人の老中と話し合っていたが、3人とも松平姓だった。筆頭老中・松平武元(たけちか)(石坂浩二)と松平康福(やすよし)(相島一之)、松平輝高(松下哲)。田安賢丸こと松平定信(寺田心)の若き姿も出てきた。もう、松平が多すぎるのである。しかも、かれらは必ずしも血縁でつながった一族ではない。一体どうなっているのか。

松平家は4つに分類できる

徳川家康の旧姓が松平であることは比較的知られている。だから、家康の一族は基本的に松平姓だ。ただし、初代将軍の家康というか、江戸幕府は松平姓にキチンと序列をつけた。

中学・高校の授業で、江戸時代の大名は親藩(しんぱん)・譜代(ふだい)・外様(とざま)に分類されると習わなかっただろうか。家康の子孫と、家康の異父弟の子孫は親藩大名、家康以前に分かれた一族は譜代大名に分類された。これ以外に、家康や歴代将軍が松平姓を与える事例もあった。

■「松平」を名乗ることができた4つのパターン

① 家康、および異父弟の子孫/親藩大名

家康の子孫と、家康の異父弟の子孫である。紙幅の関係からすべては紹介できないが、幾つか以下に掲げておこう。

家康の両親は政略結婚で、かつ結婚後に母・於大(おだい)の方の実家と利害が反してしまったため、3歳の家康を残して離縁されてしまう。於大の方は久松俊勝と再縁し、3男3女に恵まれた(久松松平家)。次男には子がなく、養子が旗本になり、長男と三男は大名に取り立てられた。

長男の子孫は無嗣廃絶で、支流が旗本として存続。三男・松平定勝の子孫が大名として永らえた。冒頭でも紹介した松平定信は、定勝の子孫の養子になった(だから名前に「定」の字がつくのだ)。ちなみに、元NHKアナウンサーでキャスターの松平定知氏(80歳)も、この家系の分家旗本の子孫。だから、名前が似ているのだ。

【図表】松平姓を名乗った大名たち一覧
筆者作成
※「年」は松平姓を賜った年。菊地浩之『徳川家臣団の系図』から筆者作成 - 筆者作成

■2代将軍・秀忠が作った隠し子の子孫も、松平を名乗る

2代将軍・徳川秀忠は大奥(奥方)の外で子ども作ってしまい、認知されなかった。その子は、武田信玄の娘・見性院(けんしょういん)のツテで、旧武田家臣・保科(ほしな)家の養子となり、保科正之と名乗った。のちに徳川一門と認知され、松平に改姓するように打診されたが、正之は分をわきまえて断った。しかし、子の3代・松平正容(まさかた)は、5代将軍・徳川綱吉に気に入られ、松平姓を賜った(会津松平家)。子孫の松平容保は幕末の京都守護職として有名である。

3代将軍・徳川家光の3男・徳川綱重は、父が41歳の時の子で、「厄年の子は育たぬ」との迷信から姉の千姫に養われた。そこで千姫付きの女中、7歳年上のお保良の方との子をもうけた。のちの6代将軍・徳川家宣である。

ところが、出産後に正室を迎えることになり、外聞をはばかって家宣を家老・新見正信(しんみまさのぶ)の養子とした。さすがの綱重も母子のことが心配だったらしく、新見邸に足繁く通っているうちに、お保良の方が再び懐妊してしまい、慌てて家臣の越智喜清(おちよしきよ)に下げ渡した。お保良の方は喜清の妻として綱重の子を産んだ。のちの越智清武である。

【図表】歴代の徳川将軍から派生していった松平家
筆者作成

■石坂浩二演じる松平武元が三つ葉葵紋なのはなぜか?

兄・家宣が将軍になると、清武は松平姓を賜り、大名となった(越智松平家)。この清武の養孫が、石坂浩二の演じる松平武元である。なお、「べらぼう」で武元の家紋は三つ葉葵になっているが、本当は丸に揚羽蝶である。子孫が11代将軍・徳川家斉の子を養子に迎えて、それ以降、三つ葉葵を許されていることを誤認したのかもしれない。

ちなみに、将軍家をはじめ江戸時代に「徳川」を名乗っていいのは当主と嫡男だけだった。たとえば、8代将軍・徳川吉宗は14歳で越前葛野藩の大名になっているのだが、当時は松平頼方(よりかた)という名前で、紀伊徳川家を継ぐ時、5代将軍・徳川綱吉に一字を賜り、徳川吉宗と改姓+改名したのだ。

だから、松平定信は御三卿の田安徳川家に生まれたものの、嫡男になることなく松平家の養子になってしまったので、徳川姓を名乗ったことは一度もない(はず)。

■家康が当主になる前の段階で、三河には松平がたくさんいた

② 家康以前に分かれた松平家/譜代大名

家康は松平家の9代目当主といわれている。それが事実かどうかともかく、かなり古くから三河(愛知県東部)に勢力を保ち、分家が多かった(家康も祖父の代まで分家の一つだったらしい)。

家康以前に分かれた家では、『家忠日記』の著者・深溝(ふこうず)松平家忠。3代将軍・徳川家光の側近で、老中になった大河内(おおこうち)松平信綱(のぶつな)が比較的有名である。信綱の嫡男が大河内松平輝綱(てるつな)で、その子孫が「べらぼう」に出てくる松平輝高だ。ちなみに、戦時中に理研コンツェルンを興した大河内正敏は、信綱の子孫にあたる(明治維新以降、大河内に復姓)。

■家康は天下を取るために、家臣に松平ネームを大盤振る舞い

③ 歴代将軍に松平姓を与えられた/譜代大名

家康は天下を取る前に、家臣や国衆に松平姓を与えることがあった。松平康福の先祖・松井忠次(ただつぐ)は猛将で知られ、甲斐武田家との激戦区・最前線の城将に立候補した。感激した家康から松平姓を与えられ、松平康親(やすちか)と名乗ったとされるが、松平忠次のままだったらしい。徳川家臣団のホープ・井伊直政を女婿に迎えたのは、おそらく家康の指示で「この男を見習え」ということだったのだろう。似たような中年の星に大須賀松平康高がおり、その女婿は榊原康政。やっぱり「この男を見習え」ということだろう。

家康は早くに父を亡くしたので、同じ境遇の国衆には同情的で、松平姓を与えている。三河田原(愛知県田原市)の戸田康長(やすなが)、信濃佐久(長野県佐久市)の依田(蘆田(あしだ))康国(やすくに)に対してである。

④歴代将軍に松平姓を与えられた/外様大名

豊臣秀吉は天下を取ると、諸大名に羽柴姓を与えた(家康・秀忠父子も羽柴姓を名乗っていた時期がある)。家康は同様に諸大名に松平姓を与えた。

前田も島津も伊達、毛利もみ~んな松平になった。だから、幕末の薩摩藩主・島津斉彬も、江戸幕府における公式の名乗りは「松平薩摩守(さつまのかみ)」だった。その時代、姓名判断はまだなかったのだが、もしあったら、どの名前を使うんだろう?

30万石以上の大名で松平姓を名乗らなかったのは肥後熊本の細川家だけだった(江戸幕府は、朝廷から室町幕府との連続性が無い[=正統性が無い]田舎者とバカにされていたので、細川や小笠原などの名家には松平姓を名乗らせず、温存していたらしい)。

【図表】家康以前に誕生していた松平家
筆者作成

■明治維新で松平を返上し、復姓した大名たち

幕末の長州征伐で、長州藩が幕府軍に屈すると、毛利家は松平姓を取り上げられた。幕府の秩序の中では極めて不名誉なことだった(に違いない)。

しかし、王政復古で倒幕が成ってしまうと、むしろ松平姓であることが邪魔になってくる。

④の外様大名はみんな本姓に復姓した。斉彬の養子・松平修理大夫茂久(しゅりのだいぶもちひさ)は島津姓に復し、ついでに将軍・徳川家茂からもらった「茂」の字を返上して、島津忠義(ただよし)と改名した。

③の譜代大名もみな復姓した(大須賀、依田はすでに廃絶していた)。

②の家康以前の松平家も桜井、大給、瀧脇、大河内が改姓した。桜井松平家は三河の桜井村(愛知県安城市)に住んでいたから便宜上、桜井松平家と呼ばれていたが、桜井家と名乗ったことは一度もない。これはもう復姓ではなく改姓である。

島津斉彬が松平を名乗っていた武鑑
筆者提供
島津斉彬が松平を名乗っていた武鑑 出典=須原屋茂兵衛版「新板改正嘉永武鑑」嘉永七(1854)年版 - 筆者提供

■明治に徳川が逆賊となっても定信の子孫は姓を捨てなかった

①は家康の子孫だから松平から改姓しなかったが、厳密には家康の子孫ではない久松松平家、吉井松平家がそれぞれ久松家、吉井家に改姓した。ただし、久松松平家は何家かあり、松平定信の子孫はさすがに改姓せず、松平姓のまま、現在まで続いている。

ちなみに、御三卿の一つ・清水徳川篤守(あつもり)(15代将軍・徳川慶喜の甥)は、明治3(1875)年に清水家に改姓している。やっぱりヤバいと気づいたのか、翌明治4年に徳川姓に復している。(そして、その子が日本で初めて航空機飛行に成功した徳川好敏(よしとし)である)。

幕末維新は徳川・松平家にとってはまさに動乱の時代で、本家の徳川家が改姓しちゃうくらいだから、松平家が改姓しちゃうのも無理はなかったのかもしれない。「べらぼう」の舞台となる江戸中期、徳川幕府300年のミラクルピースを人々が満喫していた時代には、誰も想像しなかった歴史の残酷さと言うべきだろうか。

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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。

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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)

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