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NHK大河の最大の見どころになる…徳川吉宗の孫(賢丸)と田沼意次の確執が遊郭・吉原に与える意外な影響

プレジデントオンライン / 2025年1月26日 15時15分

田沼意次(画像=牧之原市史料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

8代将軍・徳川吉宗の孫、松平定信(賢丸)はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「幼少期から聡明で、将軍の有力候補だった。田沼意次の暗躍によってその道が絶たれるも、そこで定信の人生は終わらなかった」という――。

■吉原の興隆は「蔦重のおかげ」だけではない

のちに江戸の「メディア王」にのし上がる蔦屋重三郎(横浜流星)は、まだ20代前半。生まれ故郷の吉原を盛り上げるために知恵を絞っている。

NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第3回「千客万来『一目千本』」(1月19日放送)では、そんな蔦重が120人あまりの女郎たちを生け花に見立てた画集『一目千本』を、はじめてみずからが版元になって刊行。安永3年(1774)7月のことだった。これが評判を呼んで、吉原が文字どおりに「千客万来」の状況になる様子が描写された。

もっとも、吉原が活性化したのは、蔦重一人の手腕によるものではない。大本には時の老中、田沼意次(渡辺謙)の施策があった。要するに、農業に支えられた経済から商品経済へと移行する逆らえない流れを、さらに後押しするのが田沼の政治だった。通貨を安定させ、商人たちからは運上金や冥加金という名の営業税を徴収し、その代わり株仲間をつくって営業を独占するのを許した。

経済の実態を肯定し、それに逆らわず、適度なインフレに導きながら構造改革を進めた田沼。その結果、経済が活性化し、商人たちが利益を得て、その金が町に流れることで文化が盛んになり、その質も底上げされた。そうなれば吉原も賑わいやすいのはいうまでもない。

■田安賢丸の微妙な立場

一方、「べらぼう」第3回では、寺田心が演じる田安賢丸の養子縁組問題も、並行して描かれた。この問題が蔦重や吉原とどう関係があるのか、いまは見えにくいと思うが、じつをいえば、この問題はゆくゆく吉原の景気や蔦重の命運にも影を差すことになる。

田安賢丸はのちの名を松平定信という。老中筆頭として江戸三大改革の2番目にあたる寛政の改革を主導したあの人物である。では、なぜいまは田安姓なのか。

田安家は8代将軍吉宗が三男の宗武(むねたけ)に、江戸城北の丸内の屋敷を宛がったことからはじまった。宗武は徳川姓を許されたが、屋敷が江戸城田安門内にあったので、田安徳川家といわれ、たんに「田安家」とも呼ばれた。ちなみに田安門とは、日本武道館に行く際に通る門で、当時の建造物が現存している。(拙著『カラー版 東京でみつける江戸』平凡社新書より)

旧江戸城 田安門
旧江戸城 田安門(写真=江戸村のとくぞう/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)  

同様に吉宗は四男の宗尹(むねただ)にも徳川姓を許し、江戸城一橋門内に屋敷をあたえた。このために「一橋家」と呼ばれるようになった。また、吉宗の長男である9代将軍家重も父に倣って、次男の重好に徳川姓を許し、江戸城北の丸の清水門(こちらも現存)の内側に屋敷を構えさせた。このため「清水家」と呼ばれた。

これら田安家、一橋家、清水家の3家は「御三卿」と総称された。いずれも格式は尾張と紀伊の徳川家に準じるものとされ、それぞれに10万石があたえられたが、それは将軍の身内への賄料であって、いわゆる大名ではなかった。

だが、なぜそのような家が創設されたかといえば、将軍の血筋を絶やさないため。したがって、将軍に後継がいなければ御三卿が徳川宗家を継ぐことになった。

■有力な将軍候補だったが…

さて、賢丸である。田安家を創設した宗武の七男なので、8代将軍吉宗から見れば孫。とはいえ、ふつうに考えれば七男など相手にされないが、長男から四男までが早世し、家を継いだのは五男の治察(はるあき)だった。しかも、治察は病弱なうえに妻子もなく、聡明な賢丸がいずれ田安家の当主になるとみる向きは多かったようだ。

「源義経公東下り行列」で白馬にまたがり、手を振る源義経役の寺田心さん=2024年5月3日午後、岩手県平泉町
写真提供=共同通信社
「源義経公東下り行列」で白馬にまたがり、手を振る源義経役の寺田心さん=2024年5月3日午後、岩手県平泉町 - 写真提供=共同通信社

しかも読んで字のごとく賢かったようで、そんな賢丸像は「べらぼう」の第2回「吉原細見『嗚呼御江戸』」(1月12日放送)でも描かれた。一橋家の2代目、治済(はるさだ)(生田斗真)の嫡男誕生を祝う宴席で、治済が人形師に扮して傀儡人形を操り、田沼が黒子を務めるという趣向に、集まった人たちが盛り上がっていた場面でのこと。わずか15歳の賢丸は「武家が精進すべきは学問と武芸だ」と非難し、立ち去ったのである。

さらにいえば、10代将軍家治(眞島秀和)は側室をもちたがらず、男子は1人しかいなかったので、もしものとき賢丸が将軍になるというのも、あながち非現実的な展望ではなかった。

それは田安家の悲願でもあった。吉宗の長男の家重は病弱なうえに言語に障害があったため、賢丸の父の宗武を将軍に推す声もあったが、結局、長幼の序が重んじられて家重が選ばれた、という経緯があったからである。

そんな賢丸に奥州白河(福島県白河市)の松平家から、養子縁組の強い要望が寄せられたのだった。

■田沼意次が暗躍していた可能性

それにしても、なぜ白河藩の後継者が、将軍候補と目される賢丸でなければならなかったのか。理由については、白河藩主の松平定邦が家格を上昇させたいと望んだ、一橋治済がライバル田安家の弱体化をはかった、などの諸説がある。

いずれにしても、ドラマで描かれたように、背後で田沼意次が暗躍していた可能性は指摘されている。

「べらぼう」第3回でも、田沼は将軍家治の前で賢丸が聡明であることを褒め、「このままなんの役職にも就かず、部屋住みで朽ち果てるのは惜しい」と、白河藩との養子縁組を認めるように勧めた。その結果、賢丸の白河行きが避けられなくなると、すでに亡くなっている父の宗武の正室で、賢丸の養母(賢丸は側室の子)である宝蓮院(花總まり)が怒りをあらわにした。

松平定信の自叙伝『宇下人言』にも、兄の治察が死に際に、賢丸が田安家を相続することで話がついていたのに、田沼らが約束をひっくり返したという旨が記されている。少なくとも賢丸すなわち定信は、田沼のせいで養子に出された、ひいては将軍になる道を絶たれた、と信じていたようだ。

【図表】徳川吉宗の直系の子孫
『大日本人名辞典 訂正増補版』(経済雑誌社)をもとに作成

■なぜ正統的継承者を養子に出したのか

「べらぼう」の第4回「『雛形若菜』の甘い罠」(1月26日放送)では、田安家当主で賢丸の兄、治察が死去する。安永3年(1774)秋のことだった。このため賢丸は白河藩との養子縁組を断るが、結局、田沼に丸め込まれて受け入れざるをえなくなるようだ。

こうして賢丸が養子に出た結果、田安家を相続する者がいなくなってしまう。その後、田安家は「明屋敷」となり、13年後の天明7年(1787)になってようやく、一橋治済の五男の斉匡(なりまさ)を3代目当主として迎える。

こうした史実に触れれば、田安家こそどこかの家と養子縁組しなければならない状況に陥っており、それなのになぜ正統的継承者たる賢丸を養子に出したのか、と疑問に思うのではないだろうか。

すでに述べたように、田安家をはじめとする御三卿は独立した大名ではなく、将軍家の血統をたもつ役目を負った将軍の身内だった。いわば部屋住みに近く、大名のように子が家督を継いで存続すべき家とは異なっていたのである。

また、御三卿が養子を提供するのは、将軍家や御三家にかぎらず、ほかの大名家も対象だった。このため、子を養子に出して後継ぎがいなくなっても、取り潰されるわけではなかった。先ほど「明屋敷」と記したが、これは後継ぎが途絶えたのちに、屋敷や領地、家臣団などが存続することを意味した。そして将軍に庶子が生まれたりした場合に、それらが継承された。

このような事情であったから、白河藩が養子縁組を強く求めていた以上、賢丸にとっては田安家を継ぐよりも白河に行くほうが、優先順位が高かったともいえる。

白河小峰城、復元天守
白河小峰城、復元天守(写真=バク13/CC-BY-SA-2.1-JP/Wikimedia Commons)

■蔦重と松平定信の対立の結果

時は下って、田沼意次が失脚したのちの天明7年(1787)、松平定信は老中首座および将軍補佐となり、尊敬する祖父、吉宗の享保の改革にならって寛政の改革を断行する。

それは一言でいえば、田沼意次が推し進めた重商主義政策を、重農主義または農本主義に戻して社会を引き締めようという改革で、改革と呼ぶよりはむしろ、反動という語を使うほうが適切かもしれない。

定信が改革を推し進めた動機に、自身の将軍への道を断ったと思しき田沼への反抗心があったのだろうか。それはわからないが、定信が文武奨励と質素倹約を強く求め、社会から華やかで享楽的な空気を一掃しようと図った結果、吉原は元気を失い、蔦屋重三郎は処罰されることになった。

「べらぼう」ではいま、吉原と蔦重の昇り竜のような勢いを描きながら、同時に、のちにそれを潰すことになる反動の芽生えを、長期的な視点で描いている。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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