「父の工場を継げなかった」鋳物工場の下請けだった木型職人が年間3万個売れる"おもちゃの職人"になるまで
プレジデントオンライン / 2025年1月26日 17時15分
■年間3万個が売れる人気の木製玩具
カラン、トコトコ、コロン――。
坂道の上に置かれた木のおもちゃが、ゆっくりと滑り落ちていく。茶色い帽子をかぶった愛らしい瞳の「どんぐりころころ」は、音が鳴ったり、光ったりするわけではない、シンプルな木製玩具だ。だが、このおもちゃは赤ちゃんから小学生まで、年齢に応じて遊びが変化していく不思議な魅力を持っている。
赤ちゃんのうちは、大人が置いて転がる姿をじーっと見つめ、成長すると、自分で置いて転がる様子を楽しむようになる。3人の子育て中の我が家では、4~5歳になるとごっこ遊びに使われるように。小学生になると、積み木でドミノ倒しをするようになった子どもたちが、ドミノのスタートに「どんぐりころころ」を置いていたのには驚いた。
埼玉県川口市。JR赤羽駅から路線バスで向かったのは、「こまむぐ」の新社屋。工房とカフェ、2階にはプレイルームが併設されている。扉を開けると、カラフルなどんぐりころころが並んでいる。
ゆっくり、着実に売り上げを伸ばしていた「こまむぐ」のおもちゃだが、2020年、新型コロナウイルスの影響で小売店からの注文キャンセルが相次ぎ、売り上げが9割減。
そこから、思いがけない方法でV字回復を果たし、2023年には新社屋も完成した。年間売り上げは3万個を超え、2022年度のこまむぐの売上高は5200万円。社員7人の小さなおもちゃメーカーが、日本の木製おもちゃ業界に新しい風を吹き込み続けている。
代表は小松和人さん(43)。ものづくりが好きだった一人の少年が、おもちゃ作家を経て経営者になるまでの軌跡を追った。
■工房の端材と過ごした少年時代
1980年、埼玉県川口市に生まれた小松さんの原風景は、1階が工場、2階が住居という典型的な町工場の風景だった。戦後まもない1946年、長野から出てきた祖父が創業した鋳物用の木型工房を、父が引き継いでいた。
「男4人兄弟で、兄は2つ上、弟は年子で、末っ子は6つ離れています。みんなで外遊びをするのも好きでしたが、学校から帰ると工場の隅っこに父が出してくれた小さなテーブルで、端材を使って工作するのが日課でした」
特に、夏休みの課題である貯金箱作りは一大イベントだった。郵便局主催のコンテストがあり、小松さんは「木型屋の息子だから」と張り切って取り組んだ。
「父からもらった端材で、家や神社の形をした貯金箱を作ったのを覚えています。中にリフト機構を入れて、お金が貯まると重みで扉が開くような仕掛けも作りました。図工の時間も『木型屋の息子だから』と周りから期待される。子どもなりにプレッシャーはありましたね」
もの作りが好きだった小学生の小松さんは、「将来は木型職人になりたい」と憧れた。
■「木型、やってみないか」父からの誘い
中学、高校と進むにつれ、部活やバイトに夢中になり、工場に足を踏み入れることも少なくなっていった。「特に反抗期というわけでもなくて、一般的な思春期だったのかなと思います」と小松さんは肩をすくめる。
高校卒業後、短大に進学するも、バイトに明け暮れて学校にほとんど行かなくなった。父から「行かないならやめなさい」と諭され、中退。フリーターを経て、20歳で結婚した。
子どもが生まれたことをきっかけに営業職に就くも、自分に合わないと感じ、徐々にしんどさを抱くようになった。
「自分自身があまり営業していた商品の必要性を見いだせなかったのだと思います。『本当に必要なものなのか?』と考えると、営業としてのモチベーションが上がらなかった」
営業の合間、昼休みに実家に寄っては、そんな話を父に漏らすようになった。「僕はほとんど記憶にないのですが(笑)。父にぼやいていたらしいんです」
それを見かねてか、父から「木型、やってみないか」と、声がかかる。21歳のことだった。
■厳しさを増す鋳物工場の下請け
当時、鋳物業界は年々厳しさを増していた。小松さんの入社当初は、「和人が跡を継ぐのか!」と、周囲の応援から、仕事が次々と舞い込んだ。睡眠時間を削るほど忙しい日々。
「業界は衰退しているって聞いてたけど、仕事あるじゃん!」と思ったのも束の間、数カ月で仕事は激減する。
父と二人きりの工場で、一日中掃除をして過ごすこともあった。一方で、父が仕事を請ける場合、短納期の仕事ばかり。一度仕事が入ると数日寝ずに作業することもあった。
「父は、優れた職人として知られていて、難しい仕事も任されていました。でも、新規開拓は得意ではなかったんです」
前職が営業だった小松さんは、新しい取引先を開拓しようと動いた。しかし、木型の専門的な知識が足りず、鋳物屋の言うことが理解できなかった。なかなか新規の仕事はもらえず、堂々巡りの日々。
鋳物産業を取り巻く状況は、こうだ。
1社の鋳物工場が3、4軒の木型店と取引するのが一般的。その鋳物工場が仕事を失うと、関連する木型店全てが仕事を失う。新しい取引先を探そうにも、他の鋳物工場にも既に付き合いのある木型店がいて、参入は難しい。何かしたくても、自分にできることがない。小松さんはもどかしい日々を過ごした。
そして、入社から1年も経たないある日、父から普段より厚めの給料袋を渡される。「ボーナスか?」と喜んだのもつかの間、父から一言。
「これ以上、給料を続けられない。これを元手に何か考えてくれ」
経営は相当に苦しかったのだろう。しかし、父の苦労にまでなかなか思い至らずにいた。
「正直、『ふざけんな』と思いました。でも今にして思うと、父も勇気がいる決断だったと思います。20代の自分はまだまだ半人前。しかも、家族がいる。そんな息子に『これ以上は難しい』と伝えるのは……。それだけ苦しかったんでしょうね」
小松さんが創業する少し前に父の木型工場は廃業し、工房の機械を父から小松さんへと引き継がせてくれた。
■長男につくった「木製の三輪車」で開かれた活路
その頃に作った一つの木工品が、小松さんの人生を大きく変えることになる。
長男の1歳の誕生日に、木製の三輪車を作った。金属を一切使わずに木材のみの手作り品。長男はまだ三輪車には乗れない。それでも、心を込めて作った。
すると、三輪車を見た人々の反応が、木型職人としては経験したことのないものだった。
「『すごいね!』『かわいい!』って、その場で反応が返ってきたんです。木型の仕事も好きだし楽しかった。でも、今まで感じられなかったやりがいを初めて実感しました」
木型職人の仕事は、鋳物工場の下請けとして金属製品の「型」を作ることだ。自分が何を作っているのかわからないまま作ることも多い。
「木型屋は鋳物工場から図面をもらって仕事をするんですが、図面には製品名や最終的な用途が一切書かれていないんです。というのも、鋳物工場自体がメーカーの下請けで、機密保持のため情報を消してから木型屋に発注するんです」
できあがった木型を納品する時、小松さんは鋳物工場の職人に「これって何を作るんですか?」と、よく尋ねた。しかし返ってくる答えは「たぶん大きな機械の一部じゃないかな」といった漠然としたものばかり。
「たまに『これは焼肉屋のガスバーナーの部品だよ』みたいに、はっきりわかるものもあるんです。でも、ほとんどは目で見てこれが何かわからない。自分たちの技術や仕事が誰の役に立っているのか、見えないんです」
こうして、自分は「直接人に届けるものづくりがしたいんだ」と気づいた。
小松さんの母も、事業を営んでいた。主婦業のかたわら、工場の経理などを経て、小松さんが高校生の頃に友人たちとベビーシッターの派遣業を始めていた。主婦仲間3人で、小さく事業を立ち上げた母と、木型工房を営む父。
両親がそれぞれ事業を営む姿を見ていた小松さんに、「再就職」の選択肢は頭になかった。「おもちゃ作り」は、両親それぞれの事業をつなぐ仕事である点にも、小松さんは魅力を感じた。
■「何のためにやるのかよく考えて」母の問いかけ
おもちゃを作ろうと決意した際、母から投げかけられた言葉があった。
「何をやってもいいんだけど、何のためにやるのかよく考えなさい」
その言葉が、小松さんの頭の中を常にぐるぐる回っていた。
最初は『なぜおもちゃなのか』の問いに対する答えを見つけられなかった。しかし、小松さん自身が子どもを持ち、おもちゃ店を回っているうちに、あることに気づく。
店頭で惹かれて手に取った木のおもちゃの多くが、海外製。日本には豊かな森林資源がある。優れた木工技術は、職人に囲まれて育った自分だからこそよく知っている。では、なぜ国産の木のおもちゃは少ないのか。日本のおもちゃと言えば、キャラクター商品やゲームが主流で、子どもたちが想像力を働かせて遊び込めるものが少ないのではないか。日本の木製玩具市場の95%は輸入品。国産はわずか5%という現実に、小松さんは違和感を覚えていた。
「子どもたちにもっと質の高い遊びを提供したい。それが自分の使命だと感じるようになりました」
■商売の基本を知らずに始めた飛び込み営業
2003年、23歳で「おもちゃのこまーむ」を創業。最初に作ったのは、赤ちゃん用の木の車とガラガラの2種類。スバルの軽自動車、サンバークラシックに商品を詰め込み、埼玉の川口を飛び出した。北は北海道、南は鹿児島まで、全国行脚を始めた。
飛び込み営業とはいえ、若さゆえか門前払いはほとんどなかった。2年間で300軒以上を訪問し、そのうち断られたのはわずか1、2回程度。
「初めて商品を買い取ってもらった日のことは、今でもよく覚えています」と振り返ってくれた。京都の雑貨店「ただすの森のハリネズミ」に飛び込むと、小松さんの母ほどの年齢の女性店主に、話を聞いてもらった。そこで、商売の基本を知ることになる。
「これいくら?」と問われ、「2000円です!」と元気よく答えると「それは上代? 下代?」と問われた。
小松さんはポカンとした。値段の付け方も、営業時には「アポイント」が必要なことも、知らなかった。店主は小売りの仕組みを丁寧に教えてくれた。
「あのね、原材料費がどのくらいで、あなたの手元にいくら残ってほしいのか。私のような販売店はいくらが取り分なのかを考えるのよ。あなたが2000円手元に欲しいなら、定価は2800円くらいが相場よ」
「そういうことですね。じゃあ2800円でお願いします!」
■“珍しい若手作家”がつかんだ幸運
こうして、玩具を10個ずつ、引き取ってもらえた。この店主からは、京都の宇治市にある老舗の玩具店「きっずいわき・ぱふ」を紹介してもらい、そちらにも卸すこととなった。
1週間から10日間の営業の旅を続け、在庫が空になると川口に戻って製造。また満載して出発する日々が続いた。
「北は北海道、南は鹿児島まで行きました。当時はネット環境も今ほど整っていませんでした。モバイルWi-Fiを持っていましたが、県庁所在地でしか繋がらないんです」
昼間は営業で地方の店を回って、夜は県庁所在地でWi-Fiの繋がる場所まで戻って、取引が決まった店舗へお礼などのメール対応をした。終わるのが夜中の12時で、そこから道の駅まで移動して車中泊をする。
木のおもちゃ専門店は都市部よりも地方に多く、山奥の店まで足を運んだ。最後の店舗で閉店間際に飛び込むと、「なんだよ、お前今閉めようと思ったのに」と言いながらも、2時間も話を聞いてくれる。「お前飯食ったのか?」と心配されて、食事まで振る舞われることもあった。
国内の木製玩具業界には、若い作家は少なく、面白がられることが多かった。「アポイントも上代も知らない若造に対して、皆さんには本当によくしてもらいました」
■子どもたちが教えてくれた「遊び方」
同時に、商品開発にも精力的に取り組んだ。様々なおもちゃを作り、保育園などで子どもたちに遊んでもらう。現在の看板商品「どんぐりころころ」は、試行錯誤の中から、2004年に思いがけない形で誕生した。
「最初はブレイクダンスのように回転する人形のコマを作ろうと思ったんです。先端の形がとんがっているのは、その名残。でも、全然回らなかったんです」
そこで、底に穴を開けてビー玉を入れ、パソコンのマウスのように転がすおもちゃに設計変更するも、子どもたちは興味を示さなかった。
しかし、しばらくすると、子どもたちが給食のお盆の上に乗せて、コロコロと転がして遊び始めたのだ。
「『あ、そうか。傾斜をつけて転がして遊ぶおもちゃなんだ』と。子どもたちに教えてもらった瞬間でした」
こうして、小松さんのアイデアと子どもたちの発想によって、「どんぐりころころ」は看板商品として生まれ変わった。2024年で誕生から20年になる、ロングセラーの玩具となった。
■「TVチャンピオン」に出演して思いがけず優勝
時は同じ頃、小松さんの元にある依頼が舞い込んだ。テレビ東京の人気番組「TVチャンピオン」への出演オファーだった。「輪ゴムクラフト王選手権」とのタイトルに、最初は戸惑う。
小松さんは輪ゴムの工作は未経験だった。他の参加者は、輪ゴム動力船の世界大会チャンピオンなど、その道のプロフェッショナルばかり。
番組のディレクターが、出演者を探すにあたって、「木のおもちゃ作家さんもいいのでは」とのアイデアで、全国各地のおもちゃ作家に問い合わせをしていた。
ベテランの作家たちは『負けたら傷がつく』と、出演を断っていた中、複数のおもちゃ店の店主から、小松さんの名前が挙がったと告げられた。
「僕はまだ作家としても駆け出しでした。逆に『勝っても負けてもテレビに出られるのはチャンスじゃないか』と思って引き受けました。営業のたまものですよね。『全国行脚をしてる面白い若者がいる』って名前が挙がってたらしいんです」
番組では、輪ゴムの特性と格闘することになる。
「輪ゴムって、巻いて固定時間が長いと天然ゴムがベタベタしてくっついちゃうんです。それで、間に棒を通して輪ゴムが巻きつく仕組みにするなど、試行錯誤が面白かったですね。今に何かが役立っているわけではないんですが」
あっけらかんと話す小松さんだが、ディレクターから、「実は小松さんは1回戦で負ける想定で、若いお兄ちゃんが頑張ったけど力およばず残念だったね! と言われる立ち位置だった」と明かされたという。
「番組の評価自体はガチンコ勝負。専門家がしっかり審査するので、思いがけず優勝した形です」
■軌道に乗った矢先の大事故
「TVチャンピオン」での予想外の優勝は、小松さんの活動に転機をもたらした。玩具の売り上げに直結した……わけではなく、おもちゃ作りのワークショップや講演の依頼が増えたのだ。
さらに、NHK「すくすく子育て」から依頼が舞い込む。番組内で10分間の「身近な素材を使った手作りおもちゃ」コーナーを1年間担当した。番組出演を機に、保育者や保護者向けの講演依頼が舞い込むようになった。
「どんぐりころころ」は2006年におもちゃの専門家たちの投票により年に一度選ばれる「グッドトイ」に認定された。その後開発した「Tuminy」は2011年、「Tapnet」は2014年に同じく認定され、小松さんは木のおもちゃ作家として、一定の地位を築きつつあった。
しかし、順調に見えた小松さんの作家生命に関わる事故が起きる。
おもちゃ作家と講演活動。良いサイクルが回り、個人事業主として順調かのように見えた。「このまま作家として、良い感じで進んでいけるんだろうな」と思っていたという小松さん。
忘れもしない、2015年の5月。作業中の機械に引っかかり、利き手の人差し指をほぼ切断する大怪我をしてしまう。
幸い、すぐに運ばれた病院での治療が功を奏し、指は繋がった。しかし、1カ月半の入院、数カ月間のリハビリを余儀なくされる。仕事ができない期間、これまでの自分の仕事の進め方を、否が応でも振り返った。
■属人的な働き方の限界を知る
それまでは、人を雇うとしても「おもちゃ作家になりたい」と志願してきた若者を雇い、自分の作業を手伝ってもらう程度。ほぼすべての仕事依頼が「小松和人さん個人宛」に来ており、他の誰も対応できなかった。
自身が怪我をしたことで、これだけのリスクがある仕事を人にも強いていた事実にも気づいたのだ。
「今までの仕事の仕方や、周りとの関わり方に反省すべき点ばかりでした。仕事を手伝ってくれる人たちの成長なんて考えていなかった。僕と同じだけのリスクがありながら、作家を目指す彼らの成長を真剣に考えるべきでした」
母から言われた「何のためにやるのか」という問いが、再び心に響く。創業時に思い描いた「日本の子どもたちに質の良いおもちゃや遊びを届けたい」想いを実現するには、これまでの属人的な働き方ではいけないと目が覚めた。
「若い頃からメディアに出て、『このまま家族と自分が生きていけるな』『作家としてこのまま生きていけるんだろうな』と、一つのゴールが見えていると思っていました。でも、それは勘違いでした」
そこから、再び行動力を発揮。「僕は単純だから、『作家じゃないなら会社だ!』と、法人化しました」
こうして、2016年に法人化。社長一人、正社員一人の小さな会社を創業し、小松さんは、社長業に邁進し始めた。
■コロナ危機が生んだ「製造業の革新」
法人化してからは、社長業に専念。小松さん自身に依頼が来るワークショップや講演も、小松さんではなく社員を派遣するならば引き受けた。商品開発や製造には関わりながらも、社内環境の整備、社員教育などに力を入れ、順調に売り上げを伸ばした。
売り上げ構成のほぼ100%が、玩具の製造と販売となっていた。
しかし、2020年春、新型コロナウイルスの影響で売り上げの9割を占める卸売注文がほぼ消えた。インターネット注文よりも、店舗に並びお客さんの手にとってもらうことを大切にしていたため、小売店の営業が止まり商品が売れなくなったのだ。会社の存続が危ぶまれる事態だった。
ロックダウンや移動制限の可能性を踏まえて、5人にまで増えていた社員に「仕事がないからしばらく地元に帰りなさい」と休業を告げた。
社員たちも、「注文が減っているのはわかっている。コロナウイルスがどんなものかもわからず怖いし、感謝している。ただ、何か手伝えることがあったら言ってください」と言い残してくれていた。
一人になった小松さんは、その一言を考えていた。わずか2日後、小松さんはとあるアイデアをひらめき、社員一人ひとりに連絡した。
「製造業だけど、在宅で仕事を進められないだろうか?」
こうして、製造業では異例の「在宅ワーク」が始まった。
■「家で遊べるおもちゃ」に吹いた追い風
各社員の自宅で部品を製作し、リレー方式で完成品に仕上げていく。ただ、工場だと作業の遅れを他の工程でカバーできるが、在宅では難しい。一人が遅れると、その間、次の人は何もできない。
小松さんは、「売り上げが落ちても雇用は切らない」と決めていた。つまずいても、ただでは起き上がらない。
「せっかくだから自分たちの活動を知ってもらう発信を頑張ってみよう」と、会社の情報発信に力を入れた。テレワークの様子をYouTubeで配信し、プレスリリースを出した。すると、思いがけず、テレビや新聞から取材依頼が来たのだ。
卸売注文は相変わらず戻らなかったものの、メディアを見た人々から、ECサイトからの直接注文が殺到。「在宅で遊べるおもちゃを」との需要も追い風となり、2020年7月には売り上げが急回復した。そもそも、それまでECショップに力を入れておらず、立ち上げたのはコロナ禍の直前だった。
「おかげで潰れずにすみました」
あっけらかんと笑って話す姿は、どんぐりころころの笑顔のようにも見えてくる。
■おもちゃの新たな可能性
もうひとつ、2015年の大怪我をきっかけに、小松さんは「おもちゃ」や「遊び」の新たな可能性を見つけた。作業療法の世界と出会い、指の怪我のリハビリを通じて、「遊び」と「機能回復」の関係性に気づいたのだ。
「リハビリって辛いんです。特に子どもたちは、良くなっている実感もないまま続けなければならない。でも、おもちゃと組み合わせることで、楽しみながら機能回復や維持ができるんじゃないかとずっと考えていました」
現在は、植草学園大学(千葉市若葉区)で非常勤講師も務め、作業療法を学ぶ学生たちに木のおもちゃの可能性を伝えている。
「『どんぐりころころ』で遊ぶ動作には、握る、つかむといった要素が自然に組み込まれています。遊びながらリハビリができる。それが木のおもちゃの持つ可能性の一つなんです」
2023年、小松さんは、夢に向かって新たな挑戦に踏み出した。「事業再構築補助金」を活用し、工房、直営ショップ、カフェ、木育スペースを備えた「集客型製造施設」として、新社屋をオープン。目指したのは「どんどん人が集まってくる場所」だ。
お客さん一人ひとりに製造現場を見てもらい、物作りの魅力を直接伝えられる場所づくり。それは働く社員にとってもいい影響があると考えてのことだ。
「やはり、子どもの頃の原体験があるんです。自宅の1階が父の作業場で、通学路には鋳物工場が並んでいた。物作りを見ながら登下校をしてて。子ども心に『ものづくりって面白いな、かっこいいな』と思っていたんです」
■木型職人とは違ったおもちゃ職人の魅力
2階の木育スペースでは、地域のママさんサークルがヨガ教室を開いたり、子どもたちが自由に遊べる場所として賑わっている。
「僕自身、木型の仕事では、自分たちの技術が誰の役に立っているのか見えなかった。でも今、社員たちは目の前で子どもたちが遊ぶ姿を見られる。自分たちの仕事の意味が直接伝わる関係性、会社づくりをしたいなと思っています」
この先の展望を伺うと、「あります。たくさんあって大変なんです」と軽やかに笑う。
「正直、一人でやってた時の方が気楽だなと思うことはありますよ。でも、社員さんたちも一人ひとり一生懸命取り組んでくれている。今あるミッションやビジョンも、ほぼ社員たちが考えたものです。会社を設立した時から、『こまむぐ=社長』ではなくて、働いている一人ひとりにファンがいるような組織にしていきたいと思っています」
人を雇って、ともに働く大変さを時に感じながらも、着実に自分のカラーだけではなくなってきていることが嬉しい、と話す。
■経営者としての使命
現在、こまむぐは従業員7人で年間3万個のおもちゃを製造。売上高も順調に伸び、2022年度は5200万円を達成した。
ただ、「商品開発がめちゃめちゃ好きなんです。社長は開発だけしてくださいって言われたら、それだけしていられるぐらいには好きです」と話す小松さんの商品開発の方法を、どのように社員に伝えられるのか、苦戦している。
「デザインや新しいものを生み出すには、感性によるところも大きいんです。加えて、『これを形にしたい』『これをやりたいんだ』との欲求ですね。感性と欲求は、教えたらできるようになるものではない。『自分はこれを作りたいんだ』と欲求から始まると、『子どもが遊んでくれない、全然売れない』と挫折体験があったとしても、欲求と感性を行き来できると思うんです。どう伝えたらいいのか難しいですね」
小松さん自身のひらめきやアイデアについて伺うと、「とにかくスケッチブックにたくさん書き溜めています」と教えてくれた。
小松さんが全国行脚や講演に飛び回っていた時期、2人の幼い子どもたちの子育てにはあまり関われていなかった。しかし、ここ数年は子どもたちとの時間が増えている。月1回、当日予約で格安ホテルをおさえ、仕事終わりに車に飛び込んで弾丸家族旅行を何度もした。
「旅行やどこかに出かけた時にも、『この動きは何かに使えないかな』『これは美しいな、面白いな』と自分のアイデアとの接点を探しているように思いますね」
■作家としての夢
もうひとつ、小松さんには夢がある。
「木の遊園地を作ってみたいなとか、アイデアはたくさんあります。木だと複雑な機械仕掛けは作れません。それを逆手に取って、木の汽車に子どもたちが乗り込んで、お父さんが引っ張って走る。人との触れ合いの中で遊べる場所を作りたいですね。『子どもたちの笑顔のために』子どもに関わる大人たちが、子どもの可能性や未来への期待と希望を持てる社会にしていきたいです」
一方で、いずれは経営から退き、「また一人の作家に戻りたい」とも語る小松さん。
木工職人の父から受け継いだ技術と創造性。母から教わった「何のためにやるのか」という問いかけから生まれた想い。木の香りと、機械の音、店内にやってきた子どもの声が響く。小松さんが思い描く未来への一歩は、始まったばかりだ。
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ライター 編集者
教育、子育て、ビジネス、エンタメ分野を中心に執筆・インタビューを手掛ける。「講談社コクリコ」での連載や『おしごと年鑑』(朝日学生新聞社)『週刊東洋経済』などで活動。「一人ひとりに合った学びが選べる社会」を目指し、多様な教育現場や子どもの声を大切に、新たな視点を届ける記事を作成している。東京学芸大学教育学部卒業後、星野リゾートで広報等を担当。専業主婦を経て2020年に独立。小学校教諭免許を持ち、2019年から4年間の竹富島暮らしを経験。現在は埼玉の自然豊かなエリアで3人の子育て中。エンタメ好きで、マンガや絵本、積み木遊びを通じた「学び」を探るのが趣味。
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(ライター 編集者 かたおか 由衣)
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