自宅で倒れ2日間、誰にも気づかれなかった…脳出血から生還した"孤高のリハビリの戦友"がくれた別れの言葉
プレジデントオンライン / 2025年1月29日 17時15分
※本稿は、塩見三省『歌うように伝えたい』(ちくま文庫)の一部を再編集したものです。
■ヨロヨロと初めてリハビリ室を出たあの日
最初の頃は、歩くのはリハビリ室の中だけで、基本的に院内の生活は車椅子であった。そして時間が経つにつれ、装具を着けてではあるが杖(つえ)をついて歩けるようになった。リハビリの部屋を出て、同じフロアの中庭を囲んだ回り廊下をゆっくりと歩いた。
リハビリの時間が終了した夕方、療法士の許可を得て妻を頼りに、初めて軽いナイロン鞄を肩にかけ、ヨロヨロと1階の売店に買い物に行ったり、玄関を出て病院内の庭を少し歩いたのもよく覚えている。大きな進歩であり、リハビリ用語としての「獲得」であった。
それから、自分の足の型をとった専用の装具を作ってもらい、車椅子を使わずに時間をかけて初めてリハビリ室からエレベーターに乗り、2階の自分の部屋まで辿り着けるようになった頃には、倒れてから3カ月経っていた。しかし、左手はいくらリハビリをしてもピクリともしなかった。
運動神経の麻痺と、感覚に麻痺がある感覚障害の状態。この頃、看護師さんが薔薇(ばら)など匂いのする花を嗅がせてくれると嗅覚(きゅうかく)はあり、また左眼に目薬をさしてもらうと感触があり、眼の感覚が戻ってきたので、看護師さんや妻とも喜んだものだ。
■展開力と想像力を持ち始めたリハビリ
視野狭窄(きょうさく)の症状も改善してきて、口元の歪みと発声は自分で鏡を見てリハビリができるので徐々に通常に戻ってきた。ただ左手の感覚は無いに等しい。
超スローで危ない感じであるが、なんとか歩けるようになった。そしてここからは自分の頑張りだけでは、モチベーションの維持と展開に限界を感じるようになっていた。
「もっと、同じ病気で苦しんでリハビリを頑張っている人たちと交わればよいのに」
看護師さんたちにもよくそう言われていた。そこで私は自分の限界の幅を広げようと思い、同じ症状を抱えた人たちに交わり、彼らを、競う仲間、ライバルたちと位置づけて励まし合うようになっていった。精神的にはこのことが大きな意味を持っていた。自分一人の殻に閉じこもっていたリハビリが、展開力と想像力を持ち始めたのだ。
そこで見た、あるいは交わった人たち。それぞれの入院患者たちのドラマは一つひとつがリアルな生き様であった。それは現在の私の日常の考え、虚構の世界に向き合う原点ではないかと思うような体験であった。その人たち、病気に立ち向かうある意味での戦友たちのことを、この普通でない状態の中で、普通の人たちがもう一度日常生活を取り戻すための壮絶な「あの人たちの闘い」のことを、少し記したい。
■リハビリの戦友Mさんとの出会い
Mさんは当時50代後半だった。自宅で倒れて2日間誰にも気づかれずにいたが、たまたま訪ねて来た友人に助けてもらい一命をとりとめた。私より2カ月前にこの病院に来てリハビリに励まれていた。
Mさんは青山にある店で料理の仕事をしていたが、病院で意識が戻った時はすでに1週間経っていて、倒れたことを店には連絡できなかったそうだ。この回復期の病院に転院して来た時は、手も足も動かなくて寝たきりだったが、凄い量のリハビリをこなされたらしい。私が入った時はもう杖なしで歩かれていて、「リハビリ次第でここまで……!」と妻と共に目標にした人だった。
約半年の入院中、Mさんを訪ねて来られた人は一人もいなかった。それまでも一人で暮らしていたらしく、どんなことをしてもこれからの人生を一人で生きていかねばという執念が彼にはあった。
■手のリハビリは想像を絶するほど難しい
患者の多くは病院内で車椅子を使わない生活になるのが一つの目標なのだが、Mさんは車椅子から解放されると、夜になっても歩きのリハビリを繰り返された。すると病院側は、転倒などの危険から守るため、彼を車椅子の生活に戻し、規則で縛るようになった。
Mさんにとっては不満だったろうが、病院の処置が正しいのだ。行きすぎた行為は危険だからだ。
この病院では入院病棟での生活とリハビリは完全に分かれている。院内の看護師さんのレベルは国内でも最高クラスで、看護師の仕事に皆さんが誇りを持っていらした。
私も長い時間、色んな話や院内での不満を聞いてもらったりした。多分私の話は支離滅裂(しりめつれつ)で狂気めいていたと思う。この兎(と)にも角(かく)にも話し続ける、相手の話を聞かない症状は退院後もしばらく続いた。これもまた脳疾患の後遺症なのだった。
Mさんは右側の利き手が麻痺で思うように動かない。足と違い手というものは、よくぞ神様は人間にこんな機能を与えたと思うくらい、肩から指先まで繊細に動く。だから損傷するとリハビリは想像を絶するぐらい困難である。料理人のMさんは調理ができるぐらいまで快復していたが、ある日、トマトと手がわからなくなったと笑っておられた。左手でトマトを切っていて、感覚のない右手も切ってしまったということだ。
■リハビリの仕上げとしての街への外出
現在、回復期リハビリテーション病院に入院してリハビリを受けられるのは、脳血管疾患の場合、障害や後遺症の度合いによって最長150~180日(5〜6カ月)と国で決められている。何年か前までは期間は定められておらず、その人の症状によって日常生活を送るのに必要なリハビリも受けられたようである。
だが、今では何でも平均の数値をとり、法律で定められている。入院上限日数に達すると、まだ車椅子の人であっても否応なしに「卒業」なんて言葉を使われて退院しなければならない。そうなると自宅をバリアフリーに改築するしかない。本人にも家族にとっても酷なことである。
退院が近づいた最後の日々、リハビリの仕上げとして近くの最寄り駅まで療法士さんとバスに乗り街に出る。私も妻と三人で田園都市線・宮崎台駅の賑やかな駅前に行ったが、外に出られたという幸福感はなく、自分で思っていたような感慨はなかった。
もう病院生活の人になっていたのだろう、いや自分の気持ちは街に出ることでなく、その先のことを考えていたのだと思う。
■「神様も、もうこれぐらいで許してくれますよね」
この頃すでにMさんはスーパーで買物などもできるくらいになり、私のヒーローだった。日常生活に戻ること、つまり退院のことを私たちは「シャバに出る」という符丁を使って言い表していた。Mさんはそのシャバに出る数日前に、療法士の人と街中に出て、そのリハビリ中に街の信号の意味がわからないことが判明して退院が延びた。
信号の色は見えていても、「赤で止まり、青で行く」という信号の概念が頭から抜け落ちていたのだ。
その話を聞いて脳を傷つけるということの怖さに私はゾッとした。
高次脳機能障害の場合、例えば音を聞くことはできるが、その直前に聞いていた音を憶えていないとメロディー(旋律)というものがわからない。音の連なりを音楽として認識することができないのだ。説明が難しいが、信じられない事例をたくさん見聞きした。
Mさんがこの病院をついに退院しなければならない日の午前、彼がタクシーに乗り、一人で去られるのを玄関で見送った。
「シオミさん、神様仏様も、もうこれぐらいで、私たちを許してくれますよね……」
との言葉を残して彼は去って行った。高次脳機能障害は克服されたのだろうか、どこに行かれたのだろうか。強い人だった。
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俳優
1948年京都府生まれ。演劇を志し、中村伸郎、岸田今日子らと伴に別役実や太田省吾の舞台作品、つかこうへい作・演出の「熱海殺人事件」他に出演。その後、映画「12人の優しい日本人」「Love Letter」「ユリイカ」「血と骨」「アウトレイジビヨンド」、NHK連続テレビ小説「あまちゃん」「パンとスープとネコ日和」他、多数の映像作品に出演。2014年に病に倒れるが、2017年、北野武監督の映画「アウトレイジ最終章」(第39回ヨコハマ映画祭助演男優受賞)で復帰。「劇映画孤独のグルメ」など。近年は、エッセイや脚本、書評も執筆し、著書に『歌うように伝えたい』がある。
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(俳優 塩見 三省)
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