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田中角栄が日本の「テレビ時代」をつくった…39歳の最年少・郵政大臣が断行した"大改革"の結果

プレジデントオンライン / 2025年1月30日 18時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/BrAt_PiKaChU

田中角栄の政治手腕はどのように評価されているのか。ノンフィクション作家・保阪正康さんは「郵政大臣時代、まだテレビが一般家庭に普及していないのに『テレビの時代がくる』と予言し、全国のテレビ局に免許を与えた。並み外れた政治的計算と時代を透視する目を持っていたと言えるだろう」という。著書『田中角栄の昭和』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。

■39歳の若さで岸信介改造内閣の郵政大臣に

田中が政治家として官位栄達をきわめる道のスタート台は、昭和32年7月の岸信介改造内閣での郵政相としての入閣にあった。このとき田中は39歳で、大臣としては史上もっとも若い年齢であった。

岸信介は、鳩山一郎首相が総辞職したあとの自民党総裁選で石橋湛山と争い、7票差で敗れている。ところが石橋首相は就任から40日足らずで病に倒れ、首相を辞任する。そこで岸がほぼ既定の事実として首相に就くことになった。

岸は第一次内閣では石橋内閣を継ぐかたちになったが、改造内閣では自らの思うような人材配置を行った。外相に日商会頭の藤山愛一郎を据え、田中を郵政相に抜擢したのも、自らが「東條内閣の閣僚」であったという事実が国民には不評だったために、そのイメージを刷新する役割をふたりの閣僚に与えたのである。

■「300万円をリュックに詰めて行った」

田中は、すでにこのとき当選5回を誇っていたから、当選年次から見れば、入閣はとくべつ不思議ではなかった。しかし、田中の政治家としての経歴に疑いをもつ者は、「田中は大臣のポストをカネで買った」と噂した。そのカネも、自らが経営にあたる企業の会計からだされたのではという噂が常につきまとった。

本書でしばしば引用する『ザ・越山会』には、この期からの田中の支持者だったという老人の言が紹介されている。それがあまりにもなまなましい証言なのである。

「岸内閣改造の前、田中は『岸にいくらゼニを持ってったらいいかな』と相談した。『300万円でどうだ』と話が決まった。まだ五千円札もない時代だ。小さなリュックに札を詰めて行った」

このころ地元に戻った田中は、古くからの支持者には「おれはカネで大臣になった」と堂々と高言していたという。田中がどのような意味でこのような言を口にしたかは定かではないが、心を許した支持者の前ではつい本音を洩らしたのかもしれない。

こうしたカネでポストを買ったという話は、昭和30年代(この時代だけではないが)には決して珍しくない。真偽は不明としても充分にありうる話であった。

■労働組合に厳しく対応し、評価は上々

郵政大臣としての田中は、まず省内の派閥人事を解体してしまうという荒療治を行った。このころ郵政省は、二大派閥人事が横行していて、省内では凄まじい対立抗争が続いていた。加えて、労働組合(全逓)の力も強く、組合活動が日々の業務と一体化するというほどの乱れようであった。

労働組合のストライキや職場大会のたびに、田中は遠慮会釈なく処罰を行った。組合活動家の反発も買ったが、しかし官僚や政治家には、田中の政治力を見直すきっかけにもなった。田中は強引な手は用いるが、組織のけじめをつけることに関しては、相応の力を発揮する、という評価であった。

田中がこうした政治技術を身につけたのは、郵政大臣の就任前に国会の商工委員会の委員長を務めていたときの体験がもとになっている。昭和30年から31年にかけての委員長時代、田中はそれまでの委員会審議をまったく無視した。田中自身が、昭和59年4月の、ある編集者とのインタビューで次のような告白をしている。

■国会でのワンマン運営の経験が生きる

「大体、党や役員会などで、いちいち(法案の)説明などしていたら、大仕事はできやしない。今の(自民党の)政調会なんかに上がっては駄目だ。ぼくは、商工委員長のときに24回か25回、法を通したんだが、理事会なんか1回も開いていない。そのころはまあそれが当たり前といえば当たり前でもあったんだ。その法案の中には、石炭売山法から輸出入取引法の改正など重要なものもある。鳩山内閣の時代だ」

田中は、鳩山内閣の誕生時は自由党所属だから野党だが、昭和30年11月に保守合同が成ったときは、与党という立場になっている。ただ野党時代の委員長としては、強引な国会運営を進めた。

田中は、委員長にあれこれ抗議する者には、「私語を禁ずる」とか「退場を命ずる」とう具合に、なんのためらいもなく議事進行を進めたというのであった。

■日本社会に巣くう「官僚主義」にメス

田中が郵政大臣に就任したあとで、省内人事や組合活動にメスをいれていったのも、こうした強引な手法だった。そのことは同時に、日本社会に巣くっている悪しき官僚主義の改革を促すものであった。

このような手法は、国民が疲弊を感じている停滞した組織を活性化させることになるので、むしろ「田中は実行力の伴った政治家だ」という評判を生んでいったのである。

このような評価を得たあとは、こんどは逆にそうした組織を自らの意に沿うようにつくりかえていくという能力も併せもっていたために、田中は、少しずつ国民の間にその政治力を認められていくことになった。

田中は、郵政大臣の時代に、新しい免許事業を自らの手で進めている。テレビの免許に田中なりの配慮をしていき、そして政治力をなおいっそう固めた。

■テレビの免許問題で見せた「決断と実行」

田中が郵政大臣のポストに座っていたのは、昭和32年7月から翌33年6月までの1年足らずである。もともとこのポストは「伴食大臣」といわれていて、大物代議士が座る例は少ない。当時は利権に直接結びつくというわけではなかった。

ただこの時期の郵政省には、テレビ事業に免許を与えるという難事業があった。

昭和28年にNHKがテレビ放送を始め、つづいて正力松太郎の経営する日本テレビも放送を始めていた。こうした放送の電波は、郵政省が与える免許によって認可されるが、テレビ放送は次代の有力なメディアになるとして、各地からテレビ企業を起こしたいとの申請が相次いでいた。

東京タワー
写真=iStock.com/Jayson_lys
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Jayson_lys

田中の前の郵政大臣は、この申請の多さにどういう対応をしていいか、その基本方針を決めていなかった。それぞれの地方からの申請は、有力地方紙を母体にしながら、地元財界人や地元の政治家がその企業を支える体制をとっていたから、片方に認可を与え、もう片方をないがしろにするというわけにはいかなかったのである。

田中は確かに自ら「決断と実行」を口にしているだけあって、郵政大臣に就任した折にも「郵政大臣というポストはこれまでのように伴食大臣であっていいわけはない。郵政大臣としてまず取り組むことは、国民生活にもっとも関心のあるテレビ事業の免許問題である」と話したが、田中のこの発言は郵政省内部でも率直に受けいれられたわけではなかった。

■郵政官僚は「6→11局」を進言したが…

田中がそれぞれの地方に大量に免許を与えるつもりだとの意思が伝わると、郵政省の技術陣はそれだけの技術力が日本には備わっていないと首をひねったといわれているし、事務当局も果たして日本にそれほどのテレビ企業が必要なのかと懸念を示した。

大臣席の机に、現行での方針、つまりNHKの地方局5局と日本テレビ、計6局を11局に(東京での民間放送やNHKの地方局を若干増やして11局とする)増やすという方針を守るべきだとの意向を文書にして届けていた。

田中は、事務方のこういう方針をまったく相手にしなかった。官僚の方針などに自分は囚われないとばかりに、「申請が多いのだから、それを調整して免許を与えればいいだけのことだ。その調整は自分がやる」と前面にのりだして申請者の企業人や新聞社幹部、それに政治家と個別に会い、「あなたの地方から3局も4局もつくりたいと申請がきているが、そんなムダなことはしないで、話し合って1社にしぼりなさい」と説得した。

■テレビは当時の庶民にとって「高嶺の花」

テレビの免許問題は、単に電波を与えるというだけではなく、テレビ受信機という機器の開発・生産が国内メーカーの育成につながるという利点もあった。

というのは、もともとNHKがテレビの本放送を始めたときの受信契約数はわずかに866台にすぎず、テレビそのものが庶民には高嶺の花だったのである。その1年後に1万台に達したが、それでも当時の平均月収の5倍から6倍ものテレビ受信機を購入できるのは、限られた高額所得者だけだった。

そのころ財界でも、「受信機を普及させるために輸入依存もやむを得ない」と主張するラジオ東京社長の足立正と、「テレビ受信機は国産品に限るべきで、確かに今は技術は劣っているが、将来のエレクトロニクス技術の土台をつくるために国産に徹するべき」と主張する東芝社長の石坂泰三との対立があった。

こうした対立は、主に電子工業の側の技術陣を励ますことになり、テレビが洗濯機や冷蔵庫と並んで次代の主力製品となると見て、東芝や日立、それに松下電器産業などが、莫大な研究開発費を投入して、量産体制をつくっていった。

■「三種の神器」として、爆発的に普及

昭和30年には生産台数も28年の10倍をはるかに超える13万7千台となった。価格も昭和30年には14型は12万4千円だったのに、年を追って安くなり、田中が郵政大臣に就任したころは8万1千円、そして昭和33年に入ると7万6千円となった。

さらに三洋電機が2万8500円のテレビ受信機を市場にだすと、爆発的に各家庭に入っていった。昭和31年ごろの神武景気によって、テレビ受信機は洗濯機、冷蔵庫とともに「三種の神器」と称された。そして、昭和34年4月の皇太子御成婚を機に飛躍的に売れ、日本の全戸数の50%を超える普及率を示すに至った。

田中は、このようなテレビ受信機ブームを演出した政治家としても家電業界に名をのこすことになる。電波監理審議会が答申していた「6局を11局に」を忠実に受け継ぐ郵政官僚に耳を貸さず、再度審議会に案を練り直させて、「もっと多くの局をつくってかまわないから、改めて諮問し直してほしい」と注文をつけたことがきっかけだったのである。

テレビおよびビジネスマン
写真=iStock.com/bee32
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bee32

■「これからはテレビの時代」が的中

こうして最終的に、NHK7局に免許を与え、民間のテレビ放送企業34社、36局を許可することになった。日本にそれだけの技術力があるか、それほどのテレビ局が必要か、という指摘に対して、田中は「これからはテレビの時代。国民生活に潤いを与え、勤労意欲を高めるための免許許可である」と譲らなかった。

田中は後年になって、テレビ受信機が100万台にも達していないのに、テレビ放送局がどうしてそれほど必要か、と問われたときの自らの思い出話を至るところで語っている。

「今後15年くらいでテレビ受信機は1500万台ぐらいにふえるだろうと予想したんだ。それが当たったどころか、その3倍も5倍もの数になったではないか」と自慢気だし、早坂茂三著の『田中角栄回想録』によるなら、「テレビ局の大量免許はテレビ受信機の生産拡大だけじゃない、輸出の拡大にもつながり、やがて電卓、電子機器の爆発的な輸出に連動していったんだ」と見通しのよさを自賛してもいる。

■テレビ企業に恩を売り、支配下に置いた

実際に、テレビ放送の隆盛に至るプロセスを見ると、このときの郵政大臣としての田中の方針がターニングポイントになったのは事実であった。実行力があるというだけではなく、その方針は日本の高度成長を支えていく土台にもなった。

保阪正康『田中角栄の昭和』(朝日文庫)
保阪正康『田中角栄の昭和』(朝日文庫)

わずか1年の在任期間にこれだけの土台をつくりあげたという先見の明で、田中が並み外れた政治的計算と時代を透視する目をもっていたことに多くの者は容易にうなずいたのである。

同時に、田中が情報操作に「卓越した能力」を発揮する素地もこのときに固まった。ここで私のいう「卓越した能力」とは、テレビ放送事業そのものを意のままに動かすという手法をつくりあげたということでもある。

自らの息のかかった人物を送りこんだり、郵政官僚の天下り先として、テレビ企業は重要な受け皿となっていく。NHKの会長人事もまた田中の意に沿うものでなければならなかった。

■地元・新潟での支持は揺るぎないものに

郵政大臣を経験したあとの総選挙では、田中は前回の5万5千票に3万票以上も上積みした8万6千票を集めた。新潟三区で8万票以上もの票を集めた代議士はこれまで一人もいなかった。田中は初めてその壁を破ったことになるし、集票そのものは磐石の体制ができあがっていったのだ。

10年余の代議士生活で、田中は選挙区内で支援者に、ささやかな利益誘導から始まって、東京見物というお土産つきのバス旅行まで、多くの“利益”を与えつづけたのだが、そのような目に見える形の“利益”に加えて、新たに「庶民政治家」「実行力ある政治家」というイメージが加速度的にふり撒かれ、新潟三区の知識層の間にも田中に対するプラスイメージが増幅されていった。

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保阪 正康(ほさか・まさやす)
ノンフィクション作家
1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。編集者などを経てノンフィクション作家となる。近現代史の実証的研究をつづけ、これまで延べ4000人から証言を得ている。著書に『死なう団事件 軍国主義下のカルト教団』(角川文庫)、『令和を生きるための昭和史入門』(文春新書)、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)などがある。

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(ノンフィクション作家 保阪 正康)

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