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「小学校卒の叩き上げ政治家」が大蔵大臣に…学歴エリートの大蔵官僚を懐柔した田中角栄の"人心掌握術"

プレジデントオンライン / 2025年2月5日 18時15分

1972年7月、田中角栄が首相に就任(写真=内閣官房内閣広報室/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)

田中角栄は、小学校卒業という学歴から総理大臣まで上りつめた稀有な政治家だ。ノンフィクション作家・保阪正康さんは「1962年に44歳の若さで大蔵大臣に就任した角栄は、官僚個人の私生活も調べあげ、飴とムチを使い分けた」という。著書『田中角栄の昭和』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。

■最強省庁・大蔵省に“異例”の大臣登場

大蔵大臣として初登庁した日、田中は大蔵官僚に歴代の大臣とは異なる挨拶を行った。

早坂茂三の『田中角栄回想録』によると、「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。諸君は日本じゅうの秀才代表であり、財政金融の専門家揃いだ。私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている」と切りだしたのだという。

続いて、共に仕事をしていくにはよく知り合うことが大切だ、われと思わん者は遠慮なく大臣室に来てほしい、上司の諒解など必要ではない、と話を続けた。

田中らしい正直な言ともいえるが、改めて分析してみれば、大蔵官僚に田中流の媚とへつらいを示すことによって表面上はなだめ、もう一方で、意に沿わなければ、容赦なく切り捨てるとの意味に解することができた。

田中は、甘言と恫喝を使い分ける政治家であることを告白したとも言えた。このような大臣が大蔵官僚の目の前に現れたのは、その歴史上初めてであった。

■「バカにされて悔しい」では終わらない男

大蔵大臣の田中に対して、当初大蔵官僚は決して甘くはなかった。官僚たちは内心では史上最年少のこの大臣が――しかも彼らによるなら「基礎的な財政知識をもっているか否かわからない叩きあげ」となるのだが――大蔵省を牛耳ることに強い反感をもっていた。

当初田中は意見を述べにくる高級官僚のあまりにも人を愚弄した言動に怒りを隠さなかったし、ときには大臣室で口惜(くや)し涙を流したとも言われているほどだ。

そのような体験を経ながら、田中は自らにしかできない官僚操縦術を身につけていった。

それは官僚たちの序列や慣行をつぶさに記憶していっただけでなく、官僚個人の私生活についてもくわしく調べあげることだった。誕生日には贈り物をするというような、田中なりの手法もくり返した。

もとより、それだけで官僚が黙するわけではない。自民党の他の派閥に通じている官僚には人事権をフルに利用して閑職に追いやった。

■「ケネディ暴落」に右往左往する池田内閣

田中が大蔵大臣に就任したとき、国際社会ではアメリカのケネディ大統領によるドル防衛が露骨な形で政策として練られていた。こうした政策は、そのまま日本の貿易収支に影響を与えるのではと懸念された。証券市場ではダウ平均が短期間に100円から150円もダウンするという状態になった。

株価の暴落は池田内閣に痛手となった。これが俗にケネディ暴落と評されたのだが、池田内閣は、市中銀行から日本証券金融への協調融資の幅を広げるよう要請を行うなどの手を打った。しかし、さしたる効果はなかった。

田中は大衆投資家に株式投資を控えないよう呼びかけるなどして、この事態に対応した。

だが実際には、アメリカのこうした政策は政治と結びついていて、当時モスクワで結ばれたアメリカ、イギリス、ソ連による部分的核実験停止条約に対して日本の参加を促す意味もあったのだ。

アメリカと日本の国旗
写真=iStock.com/MicroStockHub
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/MicroStockHub

■「一国経済膨張主義」という独自の立場

政治と経済が一体化している現実、さらに高度経済成長政策を採用しはじめたときの日本経済について、まだその基盤は弱いとしても、現実には国際収支は黒字であり、しかも日本では金利が高いので、アメリカ政府としては自国の資本が日本にむかっているとの懸念をもっていた。日本に対するこれまでの幾つかの特典を再検討するとの方向が、明確に打ちだされてきたのである。

田中の財政政策の要は、好むと好まざるとにかかわらずアメリカとの協調関係の枠組みをどのように捉えるかという点にあった。田中はここでは、きわめて独自の立場を採った。

国内経済政策を第一義として、高度経済成長政策の実効性をそのままこの社会の現実の姿に変えていく、一国経済膨張主義という語がふさわしい手法を自らの信条とするものであった。

その政策を支える思想、理念はどの点にあったか、を確認しておかなければならないのだが、田中はそうした考えについてこの期とて明確な意見を明らかにしたことはない。

あまりにも下世話な言い方で語っていることが多いのだが、あえて探していけば、前述の『田中角栄回想録』からそれに類する述懐を求めることはできるように思う。

■「もっと道路をよくしなくちゃならん」

「これからの日本経済、産業構造、これをどうするかといえば、とにかく二次産業の比率をもっと上げることだ。一次産業比率は好むと好まざるとにかかわらず、落ちていくんだ。6パーセントぐらいまでは落ちる。今の統計数字では10パーセントぐらいになっているけどね。(略)アメリカの一次産業比率4パーセント、EC10カ国平均の6パーセントと比べてみてもいずれわが国の一次産業比率は6パーセント近くにならざるを得ない」

「地方に新しい産業がどんどん立地していくためには、もっと道路をよくしなくちゃならんし、土地の造成も進めなくちゃならない。つまり国土利用を広げなくちゃいかんわけだ。それにはカネがかかる。しかし、そうした国土利用の改造資金はね、民間を利用してつくればいいんだよ。有料道路などの建設費はみんな民間の資金を使えばいい(略)。民間に道路をつくらせて、地方自治体がそれを手伝えばいい。その場合には、すぐに補助金を出すことだ。補助金がなかったら、税理上の面倒をみてやればいいじゃないの」

田中の説明はこのような単純化した表現に終始するのだが、しかしこの単純に見える論法のなかに確かに本質は見えている。

左から、田中角栄の母のフメ、田中角栄、一人おいて、妻の田中はな
左から、田中角栄の母のフメ、田中角栄、一人おいて、妻の田中はな[写真=田中角栄『私の履歴書』(日本経済新聞社)/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons]

■角栄はどうやって地元・新潟を潤したのか

池田内閣の経済政策は〈インフレなき高度成長政策〉であったが、その柱は公共投資と減税と社会保障にあった。国内経済に活力を与えながら、国際情勢に対抗するために貿易の自由化を図る。雇用を拡大し、労働力の質と量を高め、そして農林業や中小企業については一気に近代化を図っていく。

そのために36年度を初年度とする道路5カ年計画から始まって、第一次産業から社会保障まであらゆる方面にわたってのプランづくりと、それを果断に実行していく政策が詰められていったのである。

田中が権力ヘ到達する道をもっとも細部にわたって検証した新潟日報社編の『ザ・越山会』は、大蔵大臣時代の田中が、地元にいかに利益誘導をしていたかを一定の範囲で暴いている。

そしていかに巧妙にカネを撒くかということだけでなく、このころから秘書的存在となった佐藤昭(あき)(のちに昭子と改名。平成22年死去)を腹心がわりに用いたことも明かしている。

「勝ち気でテキパキとしたヤリ手の昭は、田中が蔵相になるころからグングン力をつけてくる。大蔵省に自分の机を持ち込んで執務し、田中のカネを一手にまかせられるようになった」とも紹介している。

■河野一郎に「豪雪は災害だ」と押し通す

田中のもとには、地元の越山会を通じて各種の陳情が届いたが、田中はその陳情(就職や結婚の世話まで含まれていたという)も、集票の実態に合わせて即座にランクづけをし、中央官庁にとりついだり、自らの縁で企業に押し込んだりしていたというのである。新潟から、市町村長が揃って田中詣でをするのも決して珍しくない光景となった。

昭和38年1月に、東北、信越、そして北陸地方は何年ぶりかという豪雪に見舞われた。田中はこれまで新潟への豪雨、豪雪の折に地元市町村から、災害工事、道路整備などの陳情を受けるたびに、越山会のルートを通じてそれを査定したうえで、自らの利益になるとなれば、すぐに建設省、大蔵省などを通じて予算を回すよう画策した。

この異常な豪雪のときも、田中のもとには陳情が殺到した。市町村の段階では、予算のうえでこの豪雪から住民を守る手だてをもっていなかったからだ。そこで田中は、この豪雪のときはこれに伴う災害工事は公共事業補助の対象にするよう建設大臣の河野一郎に申し入れたのである。

「雪は災害になるというのか。そんなところまで範囲を広げたら『激甚災害』の範囲はどこまでも広がってしまうではないか」と反発する河野に、田中は、「今度の異常豪雪は災害としかいいようがない。これは特別なんだ」と正面切って応じた。

■マイナスをカバーする角栄独自の論法

当時、実力者といわれていた河野にとって、明らかに自らの選挙目あての対策でありながら、表面では積雪地帯の苦衷(くちゅう)を代弁している田中の姿勢は不快ではあったろうが、予算をにぎっているのは田中であり、河野も渋々といった表情でこの申し出を受けいれた。

保阪正康『田中角栄の昭和』(朝日文庫)
保阪正康『田中角栄の昭和』(朝日文庫)

こうした前例をつくることで、田中は豪雪そのものを補助金の対象にしてしまった。それ以後は豪雪によって、市町村は国から補助金を受けとって復旧工事や道路整備、それに住民の日常生活を保護するさまざまな設備への投資を行うようになった。

新潟県をはじめとする豪雪地帯では、建設業が新たな産業となって仕事量をふやし、業界全体が冬期にも一定の仕事を確保することになったのである。

ひとつのプロジェクトをもちだすときに田中の用いる便法は、常にマイナスをカバーする論理を含ませている。正確な田中像を描くときに重要なのは、この論法の普遍性を確かめうるか否かにかかっている。多くの角栄本(田中角栄礼賛本)は、この普遍性を無視するところから始まっているので、説得力に欠けている。立花隆の田中角栄に関する書は、この便法をロッキード裁判のなかで見破っていたと言えるのではないかと思う。

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保阪 正康(ほさか・まさやす)
ノンフィクション作家
1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。編集者などを経てノンフィクション作家となる。近現代史の実証的研究をつづけ、これまで延べ4000人から証言を得ている。著書に『死なう団事件 軍国主義下のカルト教団』(角川文庫)、『令和を生きるための昭和史入門』(文春新書)、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)などがある。

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(ノンフィクション作家 保阪 正康)

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