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がん細胞をウイルス感染させ死滅させる…乳がんが再発した50歳ウイルス学者が行った驚きの「自己実験」

プレジデントオンライン / 2025年1月29日 12時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/visualspace

昨年、再発乳がんに対し、新しい治療法「腫瘍溶解性ウイルス療法」を試みた症例をまとめた論文が発表された。内科医の名取宏さんは「この論文が話題になった理由の一つは、自己実験だったから。倫理的な問題もあるが、これまでさまざまな自己実験が医学の発展に寄与してきたことは間違いない」という――。

■新しい「腫瘍溶解性ウイルス療法」

2024年8月、『Vaccines』という医学雑誌に「再発性乳がんに対する術前腫瘍溶解性ウイルス療法の異例の症例研究」という論文が掲載されました(※1)。この論文は、一人の女性患者(50歳)の症例報告をまとめたものです。彼女は4年前に乳がんの治療を受けたものの、局所再発を起こしました。そこで「腫瘍溶解性ウイルス療法」という、特殊なウイルスを腫瘍に直接投与し、がん細胞を感染させて破壊し、免疫反応を誘導するという新しい治療法を受けたのです。なお、実際に使用されたウイルスは、弱毒化した麻疹ウイルスと水疱性口内炎ウイルスでした。

この治療を受けた結果、腫瘍のサイズは大幅に縮小しました。副作用は、最初のウイルス投与による発熱と悪寒がありましたが、たった3日で完全に消失。その後、外科手術によってがん組織が切除され、加えて標準的な術後補助化学療法が行われました。論文が書かれた治療開始から45カ月後の時点では、再発は認められていません。切除されたがん組織には強いリンパ球浸潤が認められ、がん細胞に対する免疫反応が誘導されたことが示唆されました。

ただし、現時点では、この治療法には十分なエビデンスがあるとはいえず、実験段階です。乳がんに対してもいくつか臨床試験が行われているものの、どのようなウイルスをどのタイミングで使うべきなのか、ほぼわかっていません。

※1 An Unconventional Case Study of Neoadjuvant Oncolytic Virotherapy for Recurrent Breast Cancer. Vaccines (Basel). 2024 Aug 23;12(9):958.

■心臓カテーテルも「自己実験」から

新しい治療法の症例報告はめずらしくありませんが、この論文には他と一線を画す特筆すべき点があります。それは、この患者がウイルス学者であり、自身の研究室で調製したウイルスを治療に使用したところです。つまり、自分の体を使って実験する、いわば「自己実験」だったのです。

医学の歴史には、しばしば自己実験が登場します。特に有名な例は、世界で初めて人間の心臓にカテーテルを挿入してレントゲン写真を撮影したドイツの医師、ヴェルナー・フォルスマンによる自己実験です。今からおよそ100年前の1929年、フォルスマン(当時25歳)は、自らの左肘の静脈からカテーテルを入れ、心臓に達した様子をレントゲン写真で撮影しました。もちろん、当時は心臓用のカテーテルなんてありませんから、ゴム製の尿管カテーテルを使用したのです。

いきなり患者さんに行うのは危険なので、やむなく自分の体で試したのでしょう。この無謀ともいえる実験は上司からの評判が悪く、フォルスマンは研究生活を離れ、開業医になりました。しかし、自己実験から約30年後の1956年、心臓カテーテル法を確立させた2人の医学者とともに、フォルスマンはノーベル生理学・医学賞を受賞しました。現在では心臓カテーテル法は心臓病の診療に欠かせない技術であり、冠動脈の狭窄の有無や程度を診断する検査「冠動脈造影」、狭くなった冠動脈を広げる治療などに応用され、たくさんの患者さんの命を救っています。

■ノーベル賞を受賞した他の「自己実験」

ノーベル賞を受賞した自己実験は他にもあります。胃がんや胃潰瘍の原因として広く知られるピロリ菌の発見も、自己実験によるものです。1982年、オーストラリアの医学者であるバリー・マーシャルとロビン・ウォレンは、胃炎や胃潰瘍の病変部位の粘膜から新種のらせん状細菌を発見し、培養に成功。一方、この細菌は、健康な胃の粘膜からは検出されませんでした。

当時、胃炎や胃潰瘍は主にストレスや食生活の影響とされていましたが、マーシャルはピロリ菌が原因ではないかと考えました。しかし、ピロリ菌が病変部位から見つかっただけでは、ピロリ菌が病変の原因とは断定できません。ピロリ菌が正常粘膜には感染できず、病変部位にしか感染できない可能性もあるからです。その場合、ピロリ菌は病変の原因ではなく結果に過ぎません。ピロリ菌が結果ではなく原因であることを証明するにはどうすればいいでしょうか? それは、正常な胃粘膜を持つ人をピロリ菌に感染させ、胃炎が起きるかどうかを観察すればいいのです。

そこで、マーシャル自身による自己実験が行われました。あらかじめピロリ菌感染や胃炎がないことを確認したうえでピロリ菌を経口摂取し、その後、自身の体に起きた変化を詳細に記録しました。その結果、重度の活動性胃炎を発症し、内視鏡検査によって胃粘膜における炎症と細菌の存在が確認されました。ピロリ菌が胃炎の結果ではなく原因であることが示されたのです。この一連の発見により、バリー・マーシャルとロビン・ウォレンは、2005年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。ピロリ菌を除菌することで胃潰瘍や胃がんを予防できるようになったのは、こうした発見のおかげです。

ヘリコバクターピロリ
写真=iStock.com/JuSun
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/JuSun

■黄熱対策のために行われた危険な実験

一方、自己実験の歴史には、痛ましい事例もありました。その一つが黄熱(黄熱病)の感染実験です。黄熱は、アフリカや中南米の熱帯地域の風土病で、重症化すると黄疸を伴い、致死率が数十%に達する恐ろしい病気です。

1900年、アメリカ陸軍の調査委員会は、黄熱が蚊によって媒介されることを証明するため、キューバで危険な実験を行いました。黄熱患者の血を吸わせた蚊に健康な人を刺させるという手法で、最初の実験では11人の志願者のうち2人が黄熱を発症しました。この結果だけでは十分な証拠とは言えず、研究を進める必要がありました。

研究チームの一員である細菌学者のジェシー・ラジアは、自らを被験者として蚊に刺される実験を行い、数日後に黄熱を発症して亡くなりました。彼の詳細な実験記録が残されており、その後も同様の実験が繰り返され、ついに黄熱が蚊を介して感染することが科学的に証明されたのです。蚊が黄熱の媒介者であると判明したことで、徹底的な蚊の駆除によって流行を抑制できるようになりました。ラジアを含む実験参加者のおかげで、黄熱対策が進展し、数万人規模の命を救う結果につながったのです。現在では黄熱ウイルスが原因であると知られ、有効なワクチンもあります。

■医療の発展と倫理的なルール

試験管内の実験や動物実験だけでは限界があるため、医学の発展のためには人間を対象とした実験が不可欠です。しかし、過去には倫理に反した人体実験が行われた歴史があり、それを教訓に現在では厳格なルールが整えられています。

たとえば、被験者に対して十分な説明を行い、納得のうえで同意を得る「インフォームド・コンセント」を重視したり、研究の妥当性や安全性を倫理委員会が確認したりする仕組みが広く採用されています。

他者を対象とする臨床研究に比べると、自己実験はハードルが低いため、迅速に研究成果を得るために選択されることがあります。とはいえ、自己実験にも倫理的な問題がないわけではありません。自己実験は科学の進歩に多大な貢献をしてきましたが、一方で黄熱の感染実験のように犠牲者を生むこともあるためです。たとえ実験者本人が自らの意思で行ったとしても、自己実験が倫理的に許容されるかどうかは別問題でしょう。特に研究者が競争にさらされ、ノーベル賞のような栄誉を目指す動機が働くとき、危険を顧みずリスクの高い実験に踏み切る恐れがあるからです。

医師チームの会議
写真=iStock.com/Inside Creative House
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Inside Creative House

■がん治療のさらなる進歩に期待

腫瘍溶解性ウイルス療法の症例報告も、他のいくつかの医学誌では倫理的な問題から掲載を見送られました。

しかし、患者自身がウイルス学者であり実験のリスクについて十分に理解していたこと、再発乳がんに対する標準的な治療法はあるものの効果が限られること、がん専門医に相談のうえで副作用やがんの進行があった場合は腫瘍溶解性ウイルス療法を中止して標準的な治療に切り替える計画が立てられていたことを考えると、この論文が掲載に至ったことには一定の合理性があると私は考えます。

ただ、この論文には倫理委員会に諮ったかどうかの記載がありません。事前に倫理委員会に相談し、承認を得たうえでその旨を論文に明記していれば、研究の透明性が一層高まり、より信頼性のある研究として評価されたでしょう。

いずれにせよ、この症例は乳がんに対する腫瘍溶解性ウイルス療法の可能性を示す重要なものです。今後の研究を進めるうえでの大きな一歩となるでしょう。これを足がかりに正式な臨床試験を行うことで、乳がんを含むがん治療全般のさらなる進歩につながることが期待されます。

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名取 宏(なとり・ひろむ)
内科医
医学部を卒業後、大学病院勤務、大学院などを経て、現在は福岡県の市中病院に勤務。診療のかたわら、インターネット上で医療・健康情報の見極め方を発信している。ハンドルネームは、NATROM(なとろむ)。著書に『新装版「ニセ医学」に騙されないために』『最善の健康法』(ともに内外出版社)、共著書に『今日から使える薬局栄養指導Q&A』(金芳堂)がある。

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(内科医 名取 宏)

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