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中居くん、あなたは誰よりもテレビを愛した男だったのに…電撃引退を発表したトップアイドルが見失った原点

プレジデントオンライン / 2025年1月25日 14時15分

タレントの中居正広さんが芸能活動を引退することを伝える街頭モニター(左上)=23日午後、東京・渋谷 - 画像提供=共同通信社

女性とのトラブルが報じられていたタレントの中居正広氏(52)が1月23日、芸能活動を引退すると発表した。社会学者の太田省一さんは「彼を失ったテレビの将来は決して明るいモノではないだろう。それはこれまでの中居氏、SMAPの活動をみるとよくわかる」という――。
 

■今だからこそ中居正広、SMAPについて考える意義

2025年1月23日付けで中居正広が芸能界からの引退を発表した。女性トラブルについての報道を発端とする経緯はよく知られていると思うので、ここでは繰り返さない。

事態はトラブルに社員の関与があったとされるフジテレビの対応への不信感もあり、スポンサー企業がCMの差し止めを決めるなど、テレビ界全体を大きく揺るがすまでになっている。

もちろん女性の人権・プライバシーの尊重を最優先にしたうえで第三者委員会の徹底した調査を待たなければならないし、それを含めた今後の推移をしっかり見守る必要がある。ただそのことを十分認識したうえで、ここでは引退という決断をした中居正広、そしてSMAPという存在について改めて考えてみたい。それもまた、今回の一連の出来事をトータルに考えるうえでのポイントのひとつだと思うからである。

■「稚拙」と思われた謝罪文の真意

中居正広が発表した引退のコメントには、全責任は自分にあること、迷惑と損失を与えたテレビ局など関係者各位への謝罪、そしてトラブルの被害者となった女性への謝罪の言葉があった。

そして最後には、「ヅラ」への謝罪もあった。「ヅラ」とは、中居正広のファンの呼び名である。

「ヅラの皆さん

 一度でも、

 会いたかった

 会えなかった

 会わなきゃダメだった

 こんなお別れで、本当に、本当に、ごめんなさい。

 

 さようなら…。」

こうしたコメントには珍しくファンに直接呼びかけるような表現になったのは、発表の場が自身の立ち上げた個人事務所「のんびりなかい」のホームページだったこともあるだろう。だがそれ以上に、この言葉が通り一遍のものでなく感じられる背景には、中居正広とファンが長年にわたって培ってきた信頼関係がある。そしてその信頼を裏切るかたちにもなったことへの中居の悔いの深さが伝わってくる。

それはある意味、SMAPとファンの関係性に置き換えてもいい。「一度でも、会いたかった 会えなかった 会わなきゃダメだった」という言葉で「会う」のはまずファンと中居のことであると同時に、SMAPとファンのことであるとも受け取れる。

2016年末のSMAP解散に至る経緯も、多くのファンにとって前向きに受け入れられるようなものではなかったはずだ。だからSMAPの再結集、再結成を望む声はずっとなくならなかった。しかし今回のことで、それはきわめて困難になったと言わざるを得ない。そのことへの謝罪の言葉であるとも読める。

■中居が手本にした「テレビ界の大物」

中居正広がMCとしての地位を確立していくプロセスも、SMAPというグループの歴史とともにあった。

1988年結成のSMAPは、苦労を重ねたアイドルグループである。テレビの長寿音楽番組が続々終了した時期とメジャーデビューの時期が重なり、歌手としてアピールする場の不足に苦しんだ。その結果、SMAPはバラエティ番組に積極的に出るようになる。

まだアイドルが本格的バラエティに挑戦する前例がほとんどなかった時代だった。だがその道を切り拓いたSMAPは、1996年スタートの冠番組『SMAP×SMAP』がプライムタイムで高視聴率をあげるなど歌も踊りも笑いもできる新たなアイドル像を作り上げ、名実ともに国民的アイドルになった。

そのなかで中居正広は、MCとしての技術を磨いていく。10代のときに思い描いていた「SMAPのなかでいちばんおしゃべりができるようになる」、そして「芸能界でおしゃべりがいちばんできるようになる」という理想は、30歳になって「やっぱMCだな」という決意になった。

ではどのようなMCになればよいのか? そこでお手本になったひとりが『笑っていいとも!』のレギュラーとして間近に接することになったタモリである。

中居正広は自分のMCの流儀として「いつでも相手の言葉を引き出したり、人の気持ちを受け入れたりできる」ように「感情を安定させていたい」と雑誌で語ったことがある。

新宿アルタ(写真=Kakidai/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

■努力の人

まさにタモリが見せる“仕切らない仕切り”もこれと同様だろう。自分が前に出て積極的に進行していくというよりは、流れを見ながら共演者たちの個性を引き出していくことを優先する。そのためには常に視野を広くフラットに保つための平静さが必要だ。

MCとしてフラットな姿勢を保つため、中居は入念な準備も怠らなかった。台本を読み込み、手書きのノートをつくり、さまざまな展開を予測してシミュレーションする。そして本番に備える。その意味では、努力の人と言うべきだろう。

その結果、SMAPのメンバーとして出演する番組だけでなく、単独のMCとしても多くの番組を任されるようになった。

番組の幅の広さも特筆すべきだろう。バラエティはもちろん、司会を6回務めた『NHK紅白歌合戦』などの音楽番組。さらには野球を中心としたスポーツ関連番組、そして報道・情報番組に至るまでジャンルを問わずこなした。これも、自分で仕切るのではなくフラットな姿勢で相手の言葉を引き出す姿勢がベースにあったからこそできたことだろう。

誰かとペアで組んでMCをした番組が面白かったのも、やはりフラットな姿勢の賜物だろう。『ナカイの窓』(日本テレビ系)はゲストMCとしてお笑い芸人たちが起用されるシステムだったが、これは中居自身の提案によるものだった。

ほかにも笑福亭鶴瓶と組んだ『ザ・世界仰天ニュース』(日本テレビ系)などがあったが、ペアのMCのときは中居の茶目っ気、いたずらっ子ぶりが発揮され、よりリラックスした番組の雰囲気が醸し出される。直近では『だれかtoなかい』(フジテレビ系)で、後輩の二宮和也に逆に翻弄される場面が新鮮でもあった。

■テレビを守ろうとする意志

このように柔軟に状況に対応しながらMCとして活躍を続ける中居正広は、“テレビの申し子”のようなところがあった。

もちろんそれは、メインを務めた2014年の『FNS27時間テレビ』で「武器はテレビ。」というフレーズを掲げたSMAPにも当てはまることだ。だが解散後、必然的に中居はひとりのタレントとしてテレビに出演することになった。

特に近年の中居正広については、本人がそのようなことを意識していたかどうかはわからないが、テレビを守ろうとする意志のようなものを感じさせることが多かった。

テレビはあらゆる世代に見てもらおうとする。それがメディアとしての特徴だ。そして実際、昭和くらいまではそうだった。年齢や性別を問わず誰もが見て楽しめる。それがテレビの強みだった。しかし近年はネットのコンテンツが豊富になったこともあり、そうしたテレビの強みは失われつつある。若者のテレビ離れなどが指摘されることも多い。

時代が変わりつつあるなか、中居正広は、SNSなどに対しても距離を置き、頑ななまでにテレビにこだわり続けた。そして『金スマ』などでは、大御所から若手までさまざまな世代の芸能人をゲストに迎え、フラットなMCスタイルで貴重な証言やエピソードを引き出した。その姿は、テレビ本来の魅力を再確認する行為にも見えた。

■被災者支援を続けたワケ

2011年の東日本大震災発生を契機として始まった『音楽の日』(TBSテレビ系)の司会を続けたことも、別の意味でテレビの果たすべき役割を意識したものだろう。

大きな災害があったとき、エンタメを担うテレビの出演者がそこにどう寄り添うかは、SMAPが1995年の阪神・淡路大震災以来模索し、実践し続けたことでもある。東日本大震災の発生直後の『SMAP×SMAP』の緊急生放送、そして通常回でも被災者への義援金を呼びかけ続けた。2015年には東日本大震災の被災地でおこなわれた『NHKのど自慢』に出演したこともあった。

写真=iStock.com/Yusuke Ide
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yusuke Ide

テレビは私たちの日常生活、ひいては社会と密接なメディアであるという原点を、SMAP、そして中居正広は忘れなかった。むろんひとりの人間やエンタメにやれることには限界もあるだろう。しかし、自らのポジションにおいてなんらかの行動を起こすことは決して無駄ではない。その信念においてSMAPも中居正広も一貫していたと思える。

■中居正広を失ったテレビの行方

少し俯瞰してみると、SMAPは平成を背負った存在であった。メジャーデビューした1991年から解散した2016年までの年月は、そのまますっぽり平成という時代のなかに収まる。そして平成最大のヒット曲となった「世界に一つだけの花」は、30年あった平成のちょうど中間地点となる2003年に発売された。

メンバーは全員が1970年代生まれ。香取慎吾を除く他のメンバーは団塊ジュニア世代にあたる。この世代は就職氷河期を経験し、格差も徐々に感じるようになるなど、現在は「失われた30年」とも呼ばれる日本社会の停滞期のなかで生きてきた。恵まれていたとは言えない世代である。

一方でインターネットや携帯電話も普及し、現在のライフスタイルがかたちをとり始めた時期でもあった。だが昭和もよく知るこの世代にとって、テレビはまだ娯楽の中心にいた。

解散後ドラマや映画を中心に活躍する木村拓哉、そして「新しい地図」としてネットの世界にも積極的にかかわってきた稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾に比べて、先述の通り中居正広は一貫してテレビそのものにこだわった。昭和を平成から切り離さず守ろうとしたと言ってもいい。

ただしそうすることは、令和になって以降急速に変わろうとしている価値観と乖離してしまうことにもなりかねない。そのあたりの折り合いの難しさは中居正広本人も感じていたのではないかと推察する。

中居正広を失ったテレビはこれからどうなっていくのか? その答えはもっと長い目で見てみないとわからない。だが“世代を超えた娯楽”を提供するというテレビの役割は、やはり少しずつ、だが確実に失われていくのかもしれない。

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太田 省一(おおた・しょういち)
社会学者
1960年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本、お笑い、アイドルなど、メディアと社会・文化の関係をテーマに執筆活動を展開。著書に『社会は笑う』『ニッポン男性アイドル史』(以上、青弓社ライブラリー)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩選書)、『SMAPと平成ニッポン』(光文社新書)、『芸人最強社会ニッポン』(朝日新書)、『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書)、『21世紀 テレ東番組 ベスト100』(星海社新書)などがある。

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(社会学者 太田 省一)

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