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「ありのままの自分で生きる」これほど残酷な言葉はない…現代人が見落としている「人間関係の悩み」の正体

プレジデントオンライン / 2025年1月29日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/pocketlight

「ありのままの自分で生きよう」という言葉がある。そうすれば人間関係はうまくいくのだろうか。日々の生きづらさをSNSで発信しているインフルエンサーのよでぃさんは「うつ病やアトピー性皮膚炎を患った自身の経験からすれば、『ありのままで生きる』ことは新しい苦難の始まりに過ぎなかった」という――。

※よでぃ『明けない夜があるのなら夜更かしを楽しめばいい ネガティブなままこの世を生き抜くための30のレッスン』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■「ありのまま」でいるのは苦難の始まりだった

「ありのままの自分で生きよう」

現代を生きている多くの人が、一度はこのフレーズを聞いたことがあるだろう。

自分を偽らずに、ありのままの自分をさらけ出すことが人間関係において大切な在り方なのだという。

しかし、ありのまま自然体でふるまうことは素敵だけど、いつも他者の前でありのままでいる必要なんてないと僕は思っている。

私は私のままでいい。ありのままでいればいい。

一見きらびやかなこの言葉は、ときにあなたを苦しめる言葉にもなる。人間関係において、どのような自分で他者と接すればいいのかに悩んでいたころ、僕はありのままの自分でいようという言葉を聞いて自身の在り方の正解を提示してもらったかのような感覚を抱いた。

僕は僕のままでいようと、そう自分に言い聞かせて、素の自分のままで人と接するように努めた。

だけどそれは、新しい苦難の始まりに過ぎなかった。

どんなにありのままの自分でいようと努めても、人に嫌われることは怖いし、どうしても他人に気を遣ってしまう瞬間もある。それでもめげてはいけないと自分を律し、素の自分でいようと意識し直す。

けれどだんだんと、ありのままの自分でいようとすることに疲労感を覚えるようになる。

最終的に、どんな自分が「ありのままの自分」なのかがわからなくなってくる。

■この矛盾が対人関係の「息苦しさ」を生んでいる

そもそもの話、「ありのままの自分でいよう」と頑張っている時点で、果たしてそれは「ありのままの自分」と呼べるのだろうか。

「ありのままの自分を演じている自分」という、矛盾した状態を生じさせてしまっているだけなのではないだろうか。僕はこの矛盾こそが、対人関係における息苦しさの一つの要因であると考えている。

自分自身の在り方に正解を求めようとすればするほど、かえってどう振舞えばいいのかがわからなくなり、生きづらさを感じてしまうものなのだ。

だから、無理にありのままの自分を人に見せようとする必要はない。ときに他人に気を遣ってしまったり、ときに偽りの自分を演じたりしてしまっても、それも一つの生きる術(すべ)なのだ。

ありのままの自分を受け入れることは生きやすい人生を送るうえで重要なことだが、その姿は必ずしも他人にさらけ出さなければいけないというものではない。

「ありのままの自分を大切にすること」と、「ありのままの自分を他人に見せること」は、また別の話だということだ。

ただ、「この人と一緒にいるときの自分はあまり気負わずにいられるな」と感じられる相手も稀(まれ)にいる。変に気を遣わず、むしろ一緒にいて安心感を覚えるような、そんな人との出会いが稀にある。

そういった人と過ごす時間こそが、人生を豊かにしてくれるものなのだと僕は思う。

ありのままの自分でいることが難しい世界だからこそ、ありのままの自分でいられる人との繋(つな)がりは、かけがえのない人生の財産なのだ。

結局のところ、人との距離感に絶対的な正解はない。
ありのままの自分なんて、無理して見せるものではない。
ありのままの自分を見せてもいいと思える相手にだけ、見せればいい。

自分がいちばん「心地いい」と思える在り方こそが、自分にとっての正解の生き方なのではないだろうか。

■人間関係の悩みの正体は「他人に対する期待」

信じていた人に裏切られた。そう感じた瞬間に、人はひどく絶望感を覚えるものだ。

嘘をつかれたとき。
約束を守ってもらえなかったとき。
相手が自分の思い描いていた人物像とは異なっていたとき。
相手を信じた自分の心を蔑(ないがし)ろにされたかのような、強い寂寥感(せきりょうかん)に襲われる。

そのような経験をしたことがある人は、少なくないだろう。

路上でスマホに目を落としている男性
写真=iStock.com/Jacob Wackerhausen
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Jacob Wackerhausen

■そもそも「信じる」とは何なのか

僕もずっと、他人を信じ続けて生きてきた。人を信じるということは、尊い行いなのだと、そう思っていた。

けれど、他人のことを信じた分だけ、裏切られたと嘆く日もあった。幾度となく悩み、傷つき、苦しんだ。

だんだんと、僕は人を信じることが怖くなっていった。しかし、そもそも「信じる」とはいったい何なのか。

相手に対してああしてほしい、こうであってほしいと願うのは、果たしてその人のことを心から信じているといえるのだろうか。

それはただ、「信じる」という言葉の美しさを隠れ蓑(みの)にして、一方的な期待を相手に押し付けてしまっているだけなのではないだろうか。さらに、人が人間関係で傷つくのは、いつだって相手に対して期待を抱いているときだ。

自分が期待していたものとは異なる相手の言動や行動に、心がダメージを負ってしまうのだ。すなわち、「信じていたのに裏切られた」のではなく、実際はただ自分の中の期待通りではない相手の一面が垣間見(かいまみ)えた、という事実がそこにあるだけなのだ。

■「他人に期待しない」は冷たい態度ではない

大事なのは、他人に過度な期待を寄せないこと。

他人は必ずしも自分の思い通りに動いてくれる存在ではないのだと意識しておくこと。

そして、目に見える相手の一面だけが、その人のすべてなのだと思い込まないこと。

「他人に期待しない」というと、少し冷たい態度であるかのように感じる人も多いかもしれないが、決してそんなことはない。

「期待しない」とは、独りよがりな理想を相手に押し付けることをやめ、あるがままの相手の姿を認めるということ。

どんな相手の姿もその人の一面なのだと受け入れて、フラットな目線で人と接するということだ。

そのようにして、あるがままの相手の姿を否定せず受容する心の在り方こそが、本当の意味での「人を信じる」ということなのではないだろうか。

ただ、誰に対してもそんな仏のような心の在り方を貫けというのも、また難しい話だろう。

実際、誰もが自分の気持ちを尊重してくれるわけではない。

中には平気で他人を傷つける人もいるし、他人の気持ちをまるで考えていない人もいる。

だからこそ、きちんと他人の気持ちを理解しようと寄り添ってくれる人は、きっと誰よりも優しい心の持ち主なのだと僕は思う。

心の底から信じたいと思えるような人との出会いを大切にしていきたい。

■理不尽な怒りに、トイレでひっそりと涙をながした日

世の中には、理不尽な怒りをぶつけてくる大人が少なからず存在する。

「わからないことがあったらすぐに聞いてね」と言ってくれたはずなのに、いざ質問をすると「ちょっとは自分で考えろ」と言ってきたり。

そのくせ、いざ自分で考えてミスをすると、「使えないな」「もっと頭使えよ」と責め立ててきたり。

納得がいかない不合理に、心をぐちゃぐちゃにかき乱されて、これって自分が悪いのかなと思ってしまう。

しかし実際は、怒られる自分が悪いわけではなく、理不尽な怒りをぶつけてくる人の精神が未熟なだけである場合がほとんどである。

だから誰かに理不尽な怒りをぶつけられたときには、口頭で謝っても、あなたの心の中でまでも謝らなくたっていい。

僕が居酒屋でアルバイトをしていたとき、つねにピリピリしていて周囲に不機嫌をまき散らす先輩がいた。

些細(ささい)なミスをしただけでも大声で名前を呼ばれ、「こんなこともできねえのかよ!」と責められる。

忙しい時間帯になるとイライラをあらわにし、「やる気あんのか!」「やめちまえよ!」と怒鳴られた。

僕はその人から怒りの矛先を向けられるたびに、誰もいないトイレに駆け込み、人知れずひっそりと涙をながした。

■自分に非があっても、心まで否定することはない

「怒られる自分が悪いんだ」
「自分がもっとちゃんとしていれば」

どんどんマイナス思考に飲み込まれ、気分がどん底へと沈んでいった。

だけど、よく冷静に考えてみると、たとえミスをしてしまっても、「どこがどう間違っているのか」を指摘し、「次からは気を付けてね」と一言注意すれば済む話ではないだろうか。

そこに怒りの感情を乗せてくるのは、その人が自分の機嫌をコントロールすることができていないという、ただそれだけの話なのだ。

しかも、そのような人に限って、言いやすそうな人にだけきつく当たる節がある。

そんな見た目だけが大人で、中身は子どもの未熟な人間の癇癪(かんしゃく)に、わざわざ振り回されてやる道理はない。

『明けない夜があるのなら夜更かしを楽しめばいい ネガティブなままこの世を生き抜くための30のレッスン』(KADOKAWA)
『明けない夜があるのなら夜更かしを楽しめばいい ネガティブなままこの世を生き抜くための30のレッスン』(KADOKAWA)

たとえ誰かに理不尽な怒りをぶつけられたとしても、自分を責める必要はまったくない。

相手を逆上させないためにも口頭で謝罪をすることは大切だけど、別に心の中でまで謝らなくたっていい。

今日も今日とて、怒りん坊さんがぷりぷりしてるなぁ程度に考えておけばいい。

もちろん、自分自身に非があったのであれば、誠心誠意の謝罪をし、反省をすることは大切だ。

それでも自分の心を犠牲にしてまで、他人の怒りの感情の捌(は)け口に利用されてやる必要はない。

理不尽にキレてくる人とは、「いかにわかり合うか」ではなく「いかにやり過ごすか」がコツ。あなたのメンタルを守るためにも、攻撃的な人とはできる限り距離を置こう。

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よでぃ インフルエンサー
1998年生まれ、神奈川県横浜市出身。大学在学中から卒業後の期間にうつ病やアトピー性皮膚炎を患い、人生のどん底に落ちる。この経験がきっかけとなり、「同じように人生に生きづらさを抱える人たちとその辛さを共有したい」という思いからSNSでの発信をスタート。Xにて「日々の生きづらさのモヤモヤを言語化」するツイートが支持を集めている。趣味はアニメ鑑賞、ゲーム、読書などインドア系全般。

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(インフルエンサー よでぃ)

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